第七章 二
目覚めは、いつも裏切りから始まる。
現実という仄暗い闇が、開けているだけだ。日の沈まぬこの世界はひたすらに灰色で、何時になっても淡い光が射している。夜という概念を喪失した世界は、覚醒に喜びをもたらさない。あるのは、学校や会社へ向かう憂鬱を何百倍にも凝縮した苦痛そのものだ。
充は、何度目になるか分からない裏切りを迎え入れる。
「おはよーございます、先輩!」
視界に飛び込んできたのは、とびきりの亜加子の笑顔。
首の位置が高い。後頭部に感じる柔肌の温もりで、膝枕をされているのだと知った。
「よく眠っていましたね。あはは、可愛い寝顔でしたよ」
「……」
「……こんなところで寝るなんて風邪引いてしまいますよ。ちゃんとお布団で寝ないと」
充は答えずに首を横へ動かした。
エントランスの底はワインレッドになっていた。その赤に酔いしれ、溺れてしまった山吹道夫が目を開けたまま横たわっている。真はいない。窓にへばりついた彼の血は、とっくの昔に乾ききっていた。
受け入れるとか受け入れないとか、そんな問題ではない。ただそこには、純然たる事実が存在しているだけだ。
死刑囚の朝と一緒。目覚めれば独房。気がつけば絶望。巡回に怯え、ただ虚無的な死を待つために生きる日々。
ここに、生きる希望などない。
「それにしても、先輩血だらけですねえ。まるで熟れたざくろみたいに真っ赤っ赤じゃないですか。……包丁なんか持って。死のうとしたんでしょ、どうせ」
沈黙は、億劫な抵抗である。亜加子の溜息に肩を震わせながらも、ナースの質問を無視する高齢者のように枯れた抗議を続ける。
「こらこら、何か言ってくださいよお。亜加子を置いて逃げようとしたって無駄なんですから。楽になることはいい加減諦めてください。……もう、通過儀礼は終わったんですから」
亜加子が、頬をつついてきた。
「おめでとうございます、先輩。これで私達は永久に一緒ですよ」
「……」
「香澄ちゃんのおかげだなあ……。こんなに幸せなのはいつ以来かな? 本当のお父さんが、はじめて天体観測に連れて行ってくれたとき……ううん、あれよりずっとずっと嬉しい……」
イカれている。
決して口には出せない思いは、鉄の味を伴っていた。自分でも気づかないうちに唇を噛んでいた。道夫の顔がぼやけている。こみ上げてくる悔しさは呼び水として、涙をにじませた。
真を、真の母親を、道夫を、春香を……ありとあらゆる人々を死に追いやった元凶。その膝枕で安らかに寝息を立てていた自分は、なんと間抜けで浅はかなのだろう。
右手に力が入る。包丁のグリップは、たしかにそこにある。
充は身体を起こした。
「……えぇ、もう起きるんですかぁ? 耳掃除でもついでにしてやろうと思ったんだけどな。勿体ないなあ」
「……ね」
「え?」
振り返りざま、充は包丁を振りかぶり――。
右腕が反対方向へ回った。
「――」
ねじ折れていた。骨の一部が皮膚を突き破り、露出していた。盛り上がった筋がサーモンピンクの輝きを放っている。撒き散らされる鮮血。遅れてやってくる痛み。
激痛が、加速する。
「あ、ああああああああああぁぁっ!」
包丁を放り出し、泡を口角にためながら駒のように暴れ狂う充を、淡い天秤の光が照らしていた。
「法律違反ですよ、先輩」
亜加子は恍惚さえ漂う嬉しそうな声で、そう告げた。
静謐を裂く絶叫を、オーケストラでも聴くように耳をそばだてて。
「後はもう一押し……ですね」
地下に降りていた。
地下に降りていた。
地下に降りていた。
なんのために?
愛しい人を、悪魔へと変えるために。
赤坂亜加子は、先の見えない暗闇の中を真っ直ぐに進んでいた。蝿の羽音がぶうぅんと響いていて、壊れたテレビを前にしたときのような愉快さがある。
ここは、地下鉄の線路だった。もはや用のなさない巨大な空洞は、今となっては怪物たちの根城になっている。亜加子は、楽しいなと思っていた。線路なんて普通に生活しているだけではまず歩けないからだ。こんなレアな体験ができるなんて。本当に、毎日が楽しい。
死体が、転がっている。そこら中に行儀をわきまえない怪物たちの食いカスがあるのだ。「粛清」が始まったときに地下鉄に居たものたちや、後でアリの餌のように運ばれてものたちがしゃぶり尽くされ残骸となったのだろう。
頭が転がっていたので蹴り飛ばした。勢いよくやりすぎたせいか、天井にぶつかったそれは花火のように爆ぜてしまった。充も褒めてくれたお気に入りのワンピースが汚れた。でも、いい。替えならいくらでもあるのだから。
ケラケラと笑う。
そこら中から息遣いが聴こえ出した。香澄のペットたち。だが、亜加子のことを遠巻きに見守るだけか、あるいは平伏しているだけで、何もしてこない。「
最強。なんて響きのいい言葉だろう。ペットたちがこうして可愛らしく震えているところも、ひたすらに気分がいい。力とは法律。力こそが法律なのだ。自分の信念を肯定されているような気がする。
こうなって、毎日が幸せだ。
漂う死臭が濃厚になっていく。大量のアロマを浴びたかのように頭がクラクラしてくる。気持ちがいい。まるで、死が、殺意が、麻薬のように脳みそを溶かす。
「……」
殺したい。もっともっと。法律に背く悪人たちを殺しまくり、世界をより良くしてやりたい。悪人たちは山程いる。だいぶ死に絶えたけど、まだまだいるのだ――。
はやく、香澄には王を産んでもらいたい。
そうすれば、理想の世界が完成するのだから。
「待ち遠しいなあ」
亜加子は視線を横へ走らせた。
とある駅のホームについたのだ。天井から大小様々な肉の塊が吊るされている。皮膚を剥がれ、引き裂かれた腹から内臓を引き抜かれた人間たち。まるで屠畜場のような光景に、亜加子はつい笑みをこぼしてしまう。
いい趣味をしているな、と思った。独創的すぎるアートを前にしたときのような感覚だ。理解はできないが、可笑しみや情緒はそこはかとなく感じられる。
「……」
いる。
肉から漂う異臭とは別に、鼻の奥を貫くような獣臭がした。隠す気もない、圧倒的な「殺意」の気配。
亜加子は、線路から駅のホームに飛び上がった。
「あ、いたいた」
屠畜場と化したホームを見渡し、すぐに目的の人物を見つける。緑色の囚人服を着た男性が、タバコをふかしながら時刻表の近くにあるベンチに座っていた。肉の群れに傾けられた瞳は、深海のように深く青い。
「藍沢さーん、久しぶり〜」
亜加子が近づいて手を振りながら言うと、藍沢と呼ばれた男は亜加子に一瞥をくれて、すぐに視線を戻した。
反応の薄さに不満を覚える。やはり、こいつとは合わないかもしれない。亜加子の笑みが、少しだけ引き攣った。
「相変わらず冷たいなあ。かわいい女子高生が会いに来たんだからさ、普通ならもう少しテンションあがるんじゃない?」
「……赤身が、大事なんだ」
「は?」
「脂肪の多すぎる肉は駄目だ。あのネチャネチャした黄色い塊を見ているだけで吐き気がしてくる。この前解体した中年の肉は駄目だった。わかってはいたが、あまりにも汚くて、ナイフを入れたときの感触を我慢するのが大変だったよ」
「……」
「……その点、この前あんたが納品してくれた少女はよかった。筋肉と脂肪のバランスが最適でね。美しい赤身を拝めて私は大満足だった。もちろん、味もよかったよ」
「あー、うん。どうも」
話を聞いていないというより、頭のネジが外れてしまっている。合わないというか、理解できない宇宙人に遭遇したような感覚だった。嫌悪と不可解な感じが同時に湧いてくる。
藍沢は、紫煙を吐き出した。タバコの香りは好きじゃない。昔、口の中に無理やりねじ込まれた舌の感触が同時に蘇ってくるから。
「いい肉をありがとう。できれば、生きていればさらに良かったんだが」
「……我儘な肉屋だなあ。まあ、いいけど。それよりさ、タバコやめてくれないかな? ここ、禁煙だよ?」
「はは、そうだな。ヘビースモーカーなもので、すぐに口が寂しくなってしまっていけない」
藍沢は胸ポケットから携帯用灰皿を取り出すと吸い殻を収めた。そういうところはしっかりしているんだなと思ってしまい、訳の分からない感心を抱いてしまった自分に嫌気がさした。
藍沢健二。こいつは、死刑囚だ。十年前、自身の所有するホテルの地下で十人以上の男女を生きたまま解体した殺人鬼。逮捕され、刑が確定してから拘置所を何年も寝蔵にしてきたロクでもないやつ。
まさに、法律を破る悪人そのもの――。
「……で、何の用だ? あんたらとは必要以上に関わる気はないと言ったはずだが」
「……」
「ん? なぜ黙る。目的もなくこんなところへ来るわけがないだろう? なにか、言いにくいことでもあるのか?」
「……そんなんじゃないよ。ただ、ちょっと気持ち悪いなあって思っただけ」
「ははは、私のギャラリーを見て気分が悪くなったのか? 意外とピュアなんだな、最強と言われる力を持っているくせに」
「悪かったねー、ピュアで。私はこう見えてもお肉より魚が好きなんですー。お魚派なんですー」
「そうかい。肉もいいぞ。とくに人肉は尻が美味いんだ。試しに食ってみるか?」
「キモいから結構です」
きっぱり言ってやると、藍沢はつまらなさそうに肩をすくめた。
「……ふん、同じ『殺意』だというのに、こうも違うとはなあ。これでは楽しく同窓会を開くのも無理そうだ」
「私も香澄ちゃんもお断りだよ、そんな悪趣味な行事」
「……あんたたちにだけは悪趣味と言われたくないなあ」
こちらのセリフだよ、と言い返したかったがやめておいた。やり合うだけ時間の無駄だし、あまりにも生産性がなさすぎる。ただでさえ、壊しているばかりなのだ。こんなやつのために、これ以上充との蜜月の時間を削られたくはない。
「……そんなことより、貴方にやって欲しいことがあるんですよ」
「やって欲しいこと?」
「うん。貴方にとっても悪い話じゃないよ」
亜加子はそう切り出して、話を続けた。最初は胡散臭そうにしていた藍沢も、亜加子の話が進むにつれて少しずつ表情を和らげていき、話が終わるころには満面の笑顔が咲いていた。
「ほうほう、それはそれは……たしかに良い話だな」
「でしょ?」
「ああ……。しかし良いのかい? シルバニアファミリーのおままごとに、私が参加しても。ずいぶん、楽しんでいたじゃないか」
「ええ、かまいません」
亜加子は、ゆったりと微笑みを称える。
思い出すのは、泣きじゃくる葉月を抱きしめる春香の真っ直ぐな瞳だった。処罰したはずなのに、充が殺してくれたはずなのに、消え失せて藍沢の一部となったはずなのに、あの女の目の輝きが頭から離れない。
正しいのは自分なのに。絶対に、圧倒的に、正解は力を持つ自分のはずなのに。
なんで、あの女の目を思い出すたびに、こんなにも後ろめたい気持ちにならなければならないんだ。
「もういいんです。……もう、いいの」
――正しさの証明は、終わりです。
そう言った瞬間、藍沢が動いていた。椅子から飛び起きて、距離を取ったのだ。ほんの少し殺気が溢れていたかもしれない。遠巻きから見守っていた化け物たちの悲鳴が微かに響いていた。まるで、凶兆を感じて一斉に飛び立つ渡り鳥のように。気配が、失せた。
藍沢の顔から、先程のニヒルな感じはなくなっていた。表情筋を引き攣らせ、吹き出した冷や汗を拭っている。
「……あぁ、ごめんなさい。つい、嫌なことを思い出しちゃって」
「……は、はは。なるほどなるほど……たしかに、違うな。君は他の上位者の誰とも違う。あの聖母様が一目置くだけはある」
「……」
どうでもいい。
こいつの賛辞なんて、心の底からどうでもいい。
力を誇示することに固執し、さっきまでたしかに喜びを感じていたはずなのに。なぜか、今は空白が勝っている。
なぜかは、わからない。
「……充先輩のためです」
亜加子は呟く。
これは単に、証明にピリオドを打つためだけではない。彼と真に添い遂げるために、必要な儀式でもある。
彼を本当の姿へ導くのだ。
「……正しいのは、春香先輩じゃない」
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