第四章 一


 

「せっかちだなあ」


 額に指を当てた「不条理ムルソー」が、無感情な声を出した。


 その意味するところを考える余裕などなかった。


 化物たちが一斉に、桜南目掛けて躍りかかったからだ。


 一塊になった狂喜と狂乱が、圧力となって襲いかかってくる。息が詰まる。速い。無数の牙、腕、触手。


 加速度的な恐怖に襲われた透が、思わず腰を引いた瞬間。


 桜南が、信じられないほど凶暴な雄叫びを上げた。彼女の細い身体が風船のごとく膨れ上がり、野太い葉脈の如き青筋を浮かべた巨大な肉塊へと変化する。天井まで届くかに見えたそれは一瞬で収束し、形を成した。


 狼の遠吠え。迫る化物たちの牙。振るわれた桜南の隻腕。先頭を走っていた爬虫類型の化物が叩きつけられる。消し飛んだ首。


 透に見えたのは、地面が砕ける音が轟いた瞬間からだった。割れるコンクリートの地面と、噴水のように上った血飛沫。その暴力的な光景の中、「暗殺アサシン」に変化した桜南も化物たちも止まらない。


 加速する。


 向かってくる化物を二匹叩きつける。襲いくる爪を紙一重でかわし、巻き付こうとせまった触手を引き千切り、噴き出した血からナイフを形成。それを羊型の化け物に突き立てた。断末魔。身体中を紅に染めながら、桜南は目にも止まらぬ速さでナイフを振るう。肉を裂く音が、悲鳴が、断続的に響いた。


 だが、あまりにも敵が多すぎた。桜南の攻撃に漂うほんの微かな隙。それを縫うように、化け物の爪が桜南の左肩を引き裂いた。


 桜南が、痛々しい悲鳴を上げる。動きが止まった一瞬、化け物の巨大な腕が桜南を襲った。メキッ、という音をたて、柱まで吹き飛ばされる。


「――カハッ」


 背面を無骨なコンクリートに叩きつけられ、桜南は息をこぼした。だが、彼女は止まらない。満身創痍のなか、さらなる激痛が重ねられたはずなのにもかかわらず、彼女は手をかざした。


 死に至った化物たちの鮮血が、盛り上がった。アメーバのように蠢き、無数の刃物へと変化する。


 ――しかし、その瞬間。


 桜南の口から、血が噴き出した。そのまま前のめりに倒れ込む。


 血の刃物が、ドロリと溶けて形を失った。


「銀城!」


 透は、前のめりになって叫んだ。


 やはり、まだまともに戦える状態ではなかったのだ。快癒していたとはいえ、重症なのはなんら変わらなかった。全身の骨はまだ繋がりきっていないだろうし、内臓にもダメージが残っているはずだ。そんな状態であんな人間離れした動きをすれば、倒れるのも無理はない。


 脚がないことが歯痒かった。駆け寄ることさえできないのだから。


「あーあ、倒れちゃった」


 抑揚のない「不条理」の言葉は、透の神経を逆撫でにする。だが、いちいち反応している場合ではない。


 化物たちが一斉に哄笑を上げ、死に物狂いで立ち上がろうとする桜南を睨めつけた。


 まずい。透は思った。このままでは桜南が殺される。


 化物たちが牙を剥き出しにし、再び桜南へ迫ろうとした。


「アアアアァァッ!」


 桜南が跳ね起きた。


 手負いの獣が命のすべてを振り絞って敵へ立ち向かっていくように。彼女は、凄まじい気迫を放ち、血という血を叫びとともに撒き散らして、立ち上がった。震える手をかざし、再構築した無数の深紅の刃を化物たちへ浴びせかけた。


 絶叫。化物たちの頭部が刃によって貫かれた。鮮血と脳漿が地下駐車場に前衛的なアートを残す。見た目以上にかなりの威力があったようで、刃を受け止めた頭部はどれも粉々になっていた。事切れた肉塊たちが、痙攣という命の名残を絞り出しながら転がった。


 肩で息をする桜南は、すべての力を振り絞ったのか動けない。――限界のようだ。


「やるね、狼ちゃん」


 乾いた拍手。やる気のない口笛。「不条理」には、桜南の奮闘を讃える気などないのだろう。


「まあ、ガス欠したみたいだけど。ガソリンが満タンの状態のときに出会っていたら、おっかなかったんだろうなあ」


 さすが聖母様を追い詰めただけのことはあるね、と関心のない感心を口にし、光のない目を駐車場の外へと向ける。


「でも、いけなかったね。聖母様を怒らせちゃったのは。君の何倍も、あの人はおっかないのだから」


 纏わり付くような悪寒が、透の体を舐め回した。嫌な予感。脇汗が止まらなくなくなる。 


 桜南も感じたのか、身体をよろめかせながら必死で手をあげた。


 周囲の血液が、磁石に引き寄せられる磁性流体のごとく盛り上がる。


 それが刃に形を変えた瞬間。


 化物たちの群衆が、再来した。しかもその数は先ほどの比ではない。駐車用の入り口が埋め付くされて見えなくなるほどだった。


 咆哮で、空気が爆発する。


 獣臭い風が顔を打ったのと、桜南の刃が射出されたのはほぼ同時であった。


 だが、その刃が化物たちへ届くことはなかった。


 ――膨大な炎の壁が、すべての刃を喰らい尽くしたからだ。


「――」


 見えたのはほんの刹那。そこから先は網膜を刺すような熱風のせいで、目を開けていることさえできなかった。息も苦しい。肺が痛い。焦げ付くような匂いが鼻腔を狂わせる。


 鼓膜が痺れるほどの爆音が上がった。轟然と上がり続ける炎が周囲の車を飲み込み、残っていたガソリンに引火したのだろう。内臓まで振動が突き刺さる。


 爆発と炎が沈静化しても、しばらく耳鳴りが収まらなかった。


 目を開く。


 そこには、地獄にも等しい光景が展開されていた。


 ひしゃげ、吹き飛んだ車の残骸にすがりつく炎は、鬼の住処を照らす松明だった。微かに暴かれた仄暗い闇には、蓮の花托を思わせる怪物たちの炯々けいけいとした赤眼がいくつもいくつも浮かんでいて。覗き見ることすら許されない、凶暴な悪意に満ち満ちていた。


 その中心にたたずむ、暗黒の男。「不条理」は、冷徹な闇の主人だった。しかし同時に、闇を否定する光をも抱き合わせていた。彼の左半身は巨大な粘菌のように膨張し、そこから吐き出される炎によって赫々たる輝きを放っている。火を放つ醜悪な肉塊は、神話の生物を思わせる荘厳さも併せ持っていた。


 ――奴だ。奴が、炎を放ったのだ。


「……聖母様はよほど君が許せないようだ。君が『ペット』を皆殺しにすることを見越して、第二波も用意しているくらいなんだからね。限界があるだろうに……。何としても君を殺すっていう強烈な殺意を感じるよ」


 黒き怪物は、初めてニヒルに口角を歪めた。


「まあ、『殺意』らしくていいよね。殺さなくちゃ、僕たちは。それが僕たちの本懐なのだから」


「……クソ、ヤロウ」


「あははー。もう悪態をつくほどの体力しかないみたいだね」


 桜南を馬鹿にしながらも、表情は鉄面皮に戻っていた。


 どこまでも冷徹で、どこまでも無感情。まるで血の流れていないロボットのように。


 彼は、何でもないように告げた。


「それじゃ、死のうか」


「――待てよ」


 声をかけたのは咄嗟の判断だった。そして、爆発によって足元まで飛んで来ていたガラス片を掴み取ったのも、また同じだった。


 それを首に当てがいながら、透は「不条理」を睨みつける。


「……なんのつもり、かな?」


「銀城を殺してみろよ。その時は俺も首を切って死んでやる」


「……」


 深淵の瞳が、静かにこちらを覗いていた。威圧されているわけではないのに、心を締め付けられたような気分がして、息が苦しかった。怖い。手汗が止まらない。


 誤魔化すように、さらに強くガラス片を握る。尖った部分が肉に食い込み、血が流れ落ちていく。鋭い痛みを気付け薬にして、透は言葉を吐いた。


「いいのかよ? お前のいう聖母様が、困ることになるんじゃねえか」


「……ふぅん」


 黒い男は何故か眉間に指を置いた。そのまま無言で、数秒ほど思案を張り巡らせているようだった。


 明らかな隙。だが、桜南は息をするばかりで動かない。動けないのだ。


「……なるほどね。問題ないと」


「は?」


「聖母様に聞いたんだ。兄さんらしいですねって苦笑していたよ」


 黒い男は肩をすくめる。


「意味ないからやめておいた方がいいよ。君もわかっているだろう? そんな程度では、死ぬことはできないって」


「……っ」


 透は歯噛みする。


 どうやっているのかは知らないが、香澄と連絡を取られてしまってはお手上げだ。バレてしまった以上、なんらかの交渉もできないし、時間稼ぎさえできそうもない。


 いや。


 透は首を横に振る。


 少しでいい。どんな手を使ってもいい。あがけ。時間を稼げ。せめて桜南が動けるようになる時間を――。


「……お前、『不条理』って言ったな」


「そうだね」


「なんで香澄に加担するんだ? あいつがやろうとしていることを知らねえのか?」


「知っているよ」


 黒い男は、事も無げにそう答えた。


「この地上から自分と君以外の人間を消し去ろうとしているんだろう? アダムとイブになろうとしているわけだね。素晴らしいことじゃないか」


「……本気で言っているのか?」


「ああ」


「……たぶん、あいつは協力したお前らも容赦なく殺すつもりだぞ。いや、間違いなくそうするはずだ。それなのに、素晴らしいって……。わかってんのかお前」


「だろうね。それがどうかしたのかい?」


 黒い男は、欠伸でも出しそうな調子でそう言ってのけた。心底下らないことを聞いたときのような、退屈しきった表情を浮かべて。


 透は閉口してしまった。


 いくらなんでも、乾きすぎている。


 自分がただ利用され、その果てに殺されることを分かっていながら、香澄に協力したところで未来がないことを理解していながら、すべての暗黒を飲み込んだ上で、「不条理」は「どうでもいい」と断じているのだ。


 理由がわからない。動機がわからない。いや、そもそもこの無味乾燥とした男には、理由も動機もありはしないのかもしれない。理解不能だった。欲もなにも、この男は持ち合わせていないというのか。


 真っ黒で光のない瞳。そこには、何もない。


 あまりにも、空虚すぎた。

 

「時間稼ぎなんて意味ないと思うけど、ちょっとだけ乗ってあげるよ」


 こちらの意図を読んだ上で、黒い男は語り始めた。


「僕にとってはね、僕の命なんてものは些細な問題なんだよ。……だからといって、別に死にたいと思っているわけじゃないんだけどさ。カミュも自殺や死におもねることを否定している。なぜなら自殺は、不条理に対する敗北を意味するからね。天災やいじめ、冤罪、突然の身内の事故死、理不尽すぎる法や規則……あらゆる『世界の不条理』に対する敗北をね」


 でもさ、と「不条理」は言葉を切って続けた。


「その『世界の不条理』を破壊しようとする存在がいたとしたら、話が変わってくるんだ。多くの不条理は人間が生んでいる。その人間を皆殺しにするというのはね、まさに『世界の不条理』に対する勝利を意味することだから。僕は人間をこの世界でもっとも醜く、愚かで、下らない存在だと思っている。息をするだけで「不条理」を作り出す醜悪な機械だ。なんで生きているのかもわからない。昔から、全員死ねばいいって思っていたよ」


「……歪んでいる」


 思わず口を挟んだ透に、「不条理」は笑いもしなかった。


「そうかな? 僕はそう思わない。僕は中学生のときにいじめられていたんだけどさ、目の前で唯一の味方だった女の子をいじめっ子の不良共にレイプされたときに、この世界は狂っているんだなって心底思った。人間なんて死ななきゃ駄目だってね。だから、それをやろうとしている聖母様は、僕にとってはまさに神に等しい存在なんだ。カミュは宗教への信仰を『哲学的自殺』と定義したが、聖母様の場合は違う。実在する神だし、なにより『世界の不条理』に対する勝利者でもある。ただの何もしない木偶の坊とはわけが違う。不条理を破壊する存在――太陽だ。うっとうしくない太陽なんだよ。だから、その太陽に焼かれて死ぬのは歓迎すべきことなんだ。不条理の破壊を受け入れながら死ぬなんて、じゃないか」


「……聞くに堪えない。お前らはイカれているし、決定的に間違っている」


「ほう?」


「あいつは神なんかじゃねえ。ただの魔王だ。一人のわがままで、『個の不条理』を振りかざして世界を破壊しようとするなんて行いはな、悪でしかないんだ。絶対的な悪なんだよ。なぜなら世界は不条理ばかりではないからだ」


 透は、絞り出すようにその言葉を吐いた。本当は、違うとわかっている。たしかに幸せなことはあったが、そんなものは些細なことで。香澄という暴力にさらされる前から、母親の死や幼なじみの失踪、家との確執、天才の妹に対する嫉妬……あらゆる不条理に悩まされてきたのだから。


 地獄に花一輪。それが人生だ。


 だが、わかっていても「不条理」の言葉は否定しなければならない。その不条理の中でも明るく、力強く生き抜こうとする人達を透は知っているからだ。花に縋る彼らの想いを踏みにじらせるわけにはいかない。


 それに否認しないなら、透が信じ、追い求める幻想のような「正しさ」の存在が、欺瞞に成り下がってしまう。


 それは、ヒーローのすることではない。


「……幸せな考えだね。羨ましいよ」


 その皮肉は、しかし皮肉として機能しない。


「あなた、ちゃんとカミュの作品を読んでないでしょ?」


 いつの間にか顔だけ元に戻した桜南が、息も絶え絶えのまま口を挟んだ。


「カミュが、なぜ自殺や宗教を否定したのかわかる? 見方は違えど、両方とも考えることを放棄するという点では変わらないからさ。……不条理ばかりの世界において、カミュは生きることの意味について考え続ける大切さを説いている。つまり、『不条理を生きる』ことを提唱したんだ。真逆のことをやろうとしているあなたが、カミュの思想を持ち出してくるなんて片腹痛いよ。……そんなの、全能感が抜けきっていない中学生と変わらない。……破廉恥極まりないね」


「……」


 桜南の指摘はナイフのような鋭さがあったが、「不条理」は眉一つ動かそうともしない。何も考えないようにしているのか、はたまた何も感じていないのか。


 おそらくは後者なのだろう。自説を否定されてヘソを曲げるタイプにはまったく見えないし、省みるほど殊勝なはずがない。


 だからこそ、この男とは分かり合えない。


 絶対に。


「……もう、この辺でいいだろう?」


 黒い男は溜息をついた。膨れた肉塊から上がる炎が少しずつ勢いを増していく。


「どうせ死ぬんだ。語り合ったところで、何にもなりはしない」


「……」


 桜南の視線が動く。黒い男の奥、怪物たちの足元付近を見ている。会話による視線誘導ミスディレクションで、透と桜南は男に気づかせないように伏線を張っていた。徐々に徐々に、地面に流れる血を化け物たちの足元へ移動させていたのだ。


 桜南が目を見開き、手を翳そうとした瞬間。


「聖母様の命令なんだけど」


 化け物たちの足元の血が、激しく燃え上がった。


「――な」


 透と桜南は、同時に驚愕の声を漏らすしかなかった。気づかれていた。いや、それ以前にほとんど力を使っていないはずなのに、なぜ足元の血が燃えたのか。


 炎にまかれた化け物たちが、悲鳴を上げる。だが、黒い男が膨れ上がった腕を振りかざしただけで、刹那の間に鎮火した。いや、すべて腕の中に吸収された。


 彼の肉塊に、赫灼たる輝きが点った。


「忘れるところだった。聖母様はね、出来る限り苦しめて君を殺すように言っていたんだ。ただで殺してはいけなかったよ」


 化け物たちは、多少焦げ付いただけでほぼ無傷だった。


 唖然とする透たちに対して、彼は抑揚のない声で種明かしを始めた。


「さっき、攻撃を防いだ直後に近くの血の中にガソリンを混ぜておいたんだ。僕は炎を操れるからね。引火させないように混ぜることなんてわけないのさ。で、狼ちゃんのことだから時間稼ぎをただの体力回復程度に当てるわけがない。血を使ってなにかしてくるだろうとは思っていた。予想通りだったね。後は軽く近くの炎を操って引火させればいいだけだから楽勝だったよ」


 透の額から脂汗が溢れ落ちる。


 最後の手が、あっさりと封じられた。化け物たちを一網打尽にし、そこから流れ落ちた大量の血を使って連撃を展開し、「不条理」と戦う。おそらく桜南はそれに近い手を考えていたはずだ。それでもただでさえ分が悪いのに。


 たったの一手で潰されたのだ。


「……ちっ」


 舌打ちをこぼし、桜南は顔を狼へと変形させた。だが、姿形を変えたところでもはやどうしようもない。血のほとんどが燃やされた以上、桜南に取れる手はないに等しい。


「……うん、いい顔をしている。少しは絶望してくれたかな?」


「……」


 背後の化け物たちが、ケタケタと嗤った。消えた炎の残熱を孕んだ息遣いが、生命の動乱をより濃く感じさせる。


「これで言うのは何度目かな」


 「不条理」は、淡々と告げた。


「死のう。いい加減」




 


 

 

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