第三章 四
地下駐車場を、ぬるい風がごうごうと通り過ぎていく。天井の排水管が、怪物の喉のように小刻みに震えていた。
鉄の擦過音に耳を侵されながら、透は傷だらけの天使を見詰める。
銀城桜南の身体は相変わらずズタボロで。しかし、最初に見たときよりは幾分か生気を取り戻しつつあった。皮膚を侵す紫の内出血も僅かながら引いていたし、腫れも治まってきている。そのことに今更驚きはないが、かといって安堵もない。友人が快癒に向かっていることを、喜ぶべきなのかどうか、わからなかった。
心は、もうどうにもならないようだ。たぶん、元の穏当な形に戻ることなどないのだろう。あらゆる感情の配線が混み合いすぎて、メンテナンスしようにも方法が見つからないほどに複雑怪奇になっている。確実に不具合があるのに、直せない状態だった。
いや、そもそもこんな状況下で、心のメンテナンスなど悠長なことができるわけがない。麻痺するか壊れるか、戦場の論理と一緒だ。
では、透はこの状況に麻痺しつつあるのか?
おそらくはそうなのだろう。
とっくに壊れてしまったはずの心は、しかしまだヒビが入っているだけで。そこから少しずつ少しずつ、憎しみや悲しみや自己嫌悪によって、剥がれ落ちていっている。まるで崩れ落ち行く氷山のごとく。複雑に絡む感情の配線から流れてくる膨大な情報。その熱量に耐えきれないように。
だから、少しでも熱を減らそうと、心の冷却機能が透の感情を麻痺させているのだ。
隣には車。その車体に映る透の顔は疲れ切っていて。瞳には光などなかった。
「……」
ふと、思う。
桜南はどうなのだろうか、と。
澄空のことで嫉妬を剥き出しにしたとはいえ、基本的に彼女は冷静だ。こんな状況下で、どうしてそうも落ち着いていられるのかと思うほどに。ボードゲームではないのだ。戦場よりも劣悪な環境に置かれているのに、淡々としていられる彼女のメンタリズムがまるで理解できない。
怪物としての余裕なのか。はたまた透と同じように感情を麻痺させているだけなのか。それとも、こういう命の危機に近接した状況に慣れているのか。
わからない。底がまるで見えない。
知っているはずの桜南の姿は、蜃気楼だったのか?
猜疑心が湧いてきていた。味方だと言ってくれたはずなのに。心が見えないということの厄介さに、透は思い至る。
解消する手段は一つしかない。
「……銀城」
「ん?」
首を傾げる桜南は、傷だらけでもボードゲーム部にいたときと変わらない。
透は何度か口を開いたり閉じたりして、やがて迷いを振り切るように言った。
「お前は、何者なんだ?」
桜南の目が瞬きをやめた。
「……」
「お前が『殺意』とやらになったことは分かったけど、そもそもどうして……いや、どうやって『殺意』になったんだ? それにお前は、この状況にやたらと詳しいが、どうやってその情報を仕入れたっていうんだ? お前に力を与えた何者かがいたとして、そいつに教えられたとでも?」
矢継ぎ早に投げつけた疑問を、桜南は静かに受け止めている。やがて目を閉じて、ゆっくりと息をついた。
言葉はない。
「……黙ってないで、教えてくれよ」
透がそう言っても、桜南に応じる気配はなかった。まるで眠るように目を閉じている。
そんな様子を訝しく思いながらも、透が催促を重ねるために口を開こうとすると。
「心配しなくても、元々話すつもりだったよ」
桜南が目蓋を閉じたまま、そう言った。
「ただね、あなたにこの話をするのは覚悟がいるからさ。あなたにとって……いえ、こんな誤魔化しはずるいわね。私にとって、とても都合の悪い話だから」
「……どういうことだよ?」
「あなたのお母さんのことだけど」
急な話題転換に、透の心臓が跳ねる。ここで母親の話が出るとは思わなかったから、虚を突かれた。
「私はね、最初から知っていたの。もっと正確に言うなら、あなたの学校へ潜入する前からかな」
「……え?」
「私は『殺意』に目覚める前から、普通の高校生ではなかった。本当のところ、学校にすら行ったことがないの。物心ついたときから、諜報員として秘密裏に育成されてきたから」
透は目を丸くする。これまで聞いてきた話のほとんどが突拍子もないものだったが、その中でも一番意表を突かれるものだった。
透の驚きなど知らない桜南は、淡々とした口調で続ける。
「私は、日本政府の裏組織『
「……『彩』?」
「『彩』は、二十年以上前の宗教組織によるテロ行為をきっかけに新設された機関で、公安でもやらないような面沙汰にできない汚れ仕事を請け負っている。その性質上、政府関係者や警察組織の中でも、この組織の存在を知っている人間は一握りだわ。主な任務は政治的工作や危険組織の潜入、不正の証拠隠滅、そして暗殺……」
「……」
「あなたの学校に潜入したのも、任務の一環だった。私に与えられた任務は、あなたと異色香澄の動向を監視すること。ただ、異色香澄の方は他にも担当者がいたから、私はもっぱらあなたの監視をしていたけどね」
「……さすがについていけない。お前が、スパイ? 意味分からねえよ」
「まあ、だろうね。仲良くボードゲームをしていた同級生が、訳のわからない組織の諜報員をしているなんていきなり言い出したら、普通なら病院を勧めたくなるだろう。しかし、私は妄言を吐いているわけでもないし、正気を失っているわけでもない。事実なんだよ」
「そんなこと言われたって……」
はいそうですか、と飲み込めるわけがない。「
戸惑いの消えない透を静かに見つめていた桜南は、ゆっくりと嘆息をこぼすと、銀色の目を鋭く細めた。
「異色透。異色家の長男として生まれる。両親の名前は
「お、おい」
「食事の嗜好はやや偏りがあり、菓子類を好んで喫食する傾向がある。好きな菓子は雪見だいふくとアルフォート。苦手とする飲食物はピーマンとナス、炭酸ジュース全般。この辺りが家族構成や趣味嗜好を示す情報。次に、生い立ちについて。幼少期から異色家の英才教育を受けてきたが、天才の妹と比較され続けてきたことをコンプレックスに感じ、教育については消極的だった。八歳の時に、母親が殺害され、そのことがきっかけとなり定期的な記憶障害を抱えることになった。一種のPTSDと判断されているが、近年は病状の改善が見られていた。また、十二歳のときに」
「ちょっと、ちょっと待てよ!」
透の静止で、ようやく桜南は口を閉じた。
あまりにも早口で捲し立てられたから驚く間もなかったくらいだ。
「いま言ったのって、全部俺の情報だよな……?」
「ええ、ちなみにさっき言ったのは全てあなたと出会う前から知っていたものだ。『彩』の事前調査を経て開示された情報。あなたとの二年の付き合いから得たものではなくね」
「そんな……」
「信じられない? でも、私と話すようになった時、おかしいと思わなかった? 妙に趣味が合うなって思ったんじゃない?」
透は言葉を失うしかなかった。
確かに桜南が指摘したとおりだった。桜南のことが気になり、話しかけるようになって彼女のことを知るうちに、透は彼女に対して深いシンパシーを覚えた。あまりにも趣味や嗜好が似通いすぎているからだ。
それは、つまり――。
「……合わせていたってことなのか? 俺に取り入るために」
桜南は、首肯した。
「諜報員としての基本よ。相手のことをよく調べ、その情報を元に信頼関係を構築していく。私が地蔵のように冷たいキャラクターを演じたのもそれが理由。あなたは性格的に、対人関係を避けて孤独を選ぼうとする人間を放って置けないはずだからね。そうやって振る舞っていれば、必ず興味を持って話しかけてくると踏んでいた」
「……嘘だろ」
「残念ながら本当。ボードゲーム部に誘った理由も、あなたなら分かるでしょう?」
おそらくは、秘密を共有する関係を作ることで、さらに信頼を得るためだろう。また、噂になることで、透が桜南を避けるようになる可能性も考慮していたに違いない。
そう考えると、確かに辻褄が合う。
「でも、まあ、結果的には無駄足ではあったんだけどね。あなたから情報を引き出そうにも、あなたは異色家に関する情報をほとんど有していなかったから。普通なら、それがわかった時点で調査を切り上げてもいいくらいなんだけど、案件が案件だからね、あなたの監視は継続となったの。そのおかげで二年間も一緒に過ごすことができたわけだけど」
「……だとしたら、俺たちが過ごしたあの時間はすべてまやかしだったのか? 俺を監視するために、演技していたってことなんだろう?」
「大筋はそうさ。でも……全部が全部そうではない。こんな話をしておいて、信じてくれって言うのは虫がいいかもしれないが、あなたへの好意は本物だ。ボードゲームが楽しかったのも事実だよ。嘘なんかではない」
「……そうか」
桜南の話に嘘はない。それくらいのことは透だって分かる。だが、投げ掛けられる言葉はどこか空虚に聞こえてしまった。
透は歯噛みする。
どいつもこいつも。
どいつもこいつも、除け者にしやがって。
何も知らずにのうのうと生きていた自分が、まるでピエロのようではないか。
「……失望、したかい?」
桜南の言葉は優しげだったが、その奥には悲痛と恐れのようなものが潜んでいた。彼女はわかっている。わかった上で、透のために己の醜悪な部分を晒したのだ。その誠実さに対する信頼は、揺るがないと言える。
だが、あのボードゲームと談笑の時間が一体どこまで本物だったのか。透はわからなくなってしまった。ここに至って、自分が道化だったと知らされて、桜南に対する怒りよりも、自分に対しての失望の方が大きかった。
「……お前の話は、本当なんだろう」
透はそう独り言つ。気まずそうに、桜南が銀色の目を逸らしていた。
「……それで? お前が俺を監視していた理由ってのは、なんなんだよ。それは、香澄や『殺意』と関係があることなのか?」
「……ええ」
桜南の返事は、わずかに重い。
「正確に言うなら……ちょっと違うけど。『彩』は、『殺意』に関して、初めから詳細な情報を握っていたわけではないから。あくまで最初は、異色家の中で生物兵器の研究が行われている疑いがあることを認識していた程度だった。だから、その子細な情報と事実を明らかにするため、私たち諜報員が派遣されたの」
「監視対象は、俺らの家……異色家ってわけか」
「そうだね」
「なら……香澄だけじゃないんだな? この事態を引き起こしたのは」
その言葉の返答は、やや遅れてなされた。もちろん、肯定を表す言葉であった。
「……」
車体に写った透の瞳が、さらに暗く淀んでいく。
冷静に考えれば、分かることではあった。香澄は研究によって「鏖」を起したと言っていた。いかに彼女が突出した天才であるとはいえ、一人でそんな大それた研究を行えるとは考えにくい。つまり、その研究に協力した者達がいるのだと考えた方が自然だろう。そして、彼女に協力する存在など消去法を取るまでもなく簡単に特定できる。
異色家以外にあり得ないのだ。財力の面でも、研究施設や設備などの環境面でも。彼女を完璧にバックアップできるところなど、それ以外に考えられない。
つまり、父親の明や親戚たちも一枚噛んでいることになる。
香澄どころではない。家族ぐるみの罪――。
「……どうかしている」
そう溢すことが、精一杯だった。
本当に、自分は間抜けだ。そんなこと知りもしなかった。知りもしないでこれまで飯を食い、糞尿を垂れ、柔らかいベッドで眠っていたのだ。
乾いた笑いしかこぼれない。
「透くん、あなたは……」
「何も知らなかったから悪くないって言いたいんだろ? 分かってるよ」
「……透くん」
「もういい。そんな慰めに、何の意味もない。……いいから、話を続けてくれないか? 俺の疑問はまだ解消されていないだろう?」
桜南は下唇を噛んで、釈然としない表情のまま頷いた。
だが、会話の接穂を見失ってしまったのだろう。なかなか喋り出さない桜南に変わって、透が尋ねた。
「……じゃあ、その調査の過程で、お前は『殺意』の存在を知ったんだな? そしてどうにか、香澄達から研究成果の一つである『殺意』の力を奪うことに成功したんだろ? どうやってそれをしたのかまでは分からないが」
「……ご明察どおり。ほとんど透くんの言うことで間違いはない。より正確に言うなら、協力者のおかげかな」
「協力者?」
「あなたの叔父、
透は目を見開いた。
「
「『彩』が異色家に対して潜入捜査を初めてから半年ほど経った頃、諜報員の一人が彼とコネクションを作ることに成功したのさ。どうやら緑川兼貴は、異色家や異色香澄のやり方に良心の呵責を感じていたようでね、積極的に協力してくれたんだ。おかげで『殺意』に関する情報や、研究資料の一部を入手することができた」
「もしかして、『殺意』の力も?」
「そう。彼が私に渡してくれたんだ」
「そうなんだな……」
快活に笑う兼貴の顔が、頭に浮かぶ。
緑川家の人間は、異色家の意向に逆らうことはできない。分家と宗家としての古臭い因習。叔父はその論理に囚われて、研究に加担せざるを得ない立場だったのだろう。だが、彼に罪がないということにはならない。本人もきっとそのことを十分に理解していて。だからこそ、桜南たちに加担したのだと思う。
だが、その行為の代償はきっと計り知れないものだったはずだ。
彼が売ろうとした異色家には、
「兼貴兄は……」
桜南が首を横にふった。
それだけで、彼がどうなったのかは察しがついた。
「そうか……。殺されたんだな、香澄に……」
「私に『殺意の因子』を渡してすぐにね。彼は、きっとそうなることを分かっていた。だから、私に力を託したんだと思う。……涙ながらに言っていたわ。『透を頼む』って」
「……」
こみ上げてくる感情を、唇を噛んで押さえつける。
美来に申し訳が立たないと思った。彼は罪を抱えながらも正しいことをしようとした。その挙句に、姪っ子に殺されたのだ。まったくもって報われない、あまりにも残酷な最後を迎えてしまった。そして透は、彼の奮闘を取り返しのつかない事態になるまで知ることもなかった。何もできなかった。
そう、何も――。
「……何が、ヒーローだ」
透の呟きは弱々しく、乾いた空気に枯らされ消える。
「俺は……」
視線を下げると、どうしたって欠損した足が見えてしまう。それはまるで、透の無力を証明するような光景。
だが、そこから感じられる潜在的な可能性にも、透は勘付いていた。
それは決して福音にはなり得ない、悪魔の贈り物。
「俺にも、力があれば――」
「……透くん」
諭すように、桜南が言った。
「駄目だよ、それは……。それに一度でも頼ったら、あなたは人間ではいられなくなってしまう」
「……」
「私はそうなってほしくないんだ。異色香澄に仕組まれたものに、染まってほしくなんかない。それこそ、あいつの思う壺だ」
「でも……」
「それに、これはあなた一人の罪ではない。止められなかったのは、私たち『彩』も同じだったのだから」
桜南の口調には自嘲が込められていて、銀色の瞳は仄暗く沈んでいた。
「私たちの行動は、あまりにも遅きに失した。私たちはあくまで国家の犬だからね。国家の許可がなければ、暗殺などの強硬手段を実行することができない。愚鈍な彼らを納得させるための証拠集めだけでも、二年近くかかったんだ。……私たちは焦っていたよ。ことが起こる前に片をつけなければ、全てが終わってしまうんだから。だけど、国はなかなかゴーサインを出そうとしなかった。……なぜだと思う? 相手が、異色家だからだよ。大量の政治献金も行っている大企業でもあり、数百年の歴史を持ち、明治時代から国政に影響を及ぼしてきた
桜南の声は冷たかった。
「そのせいで、私たちの行動は大幅に遅れてしまった。証拠を提出し切ってから、二ヶ月もだ。これは結果論でしかないが、この二ヶ月の遅れがなければ、まだどうにかなっていた可能性があったんだ。なぜなら、『殺意』の干渉が弱い現実世界では、『上位者』といえど『殺意』の能力のほとんどを使うことができないからだ。『上位者』は人間と『殺意』の性質を両方併せ持つ存在だ。現実世界では、人間の部分の影響が強く出るんだよ。だから、『殺意の王』の影響が出始める前なら、私たちでも奴らを殺せていたはずなんだ」
桜南は苦笑を浮かべ、続けた。
「……けど、作戦を始めた頃にはすでに手遅れだった。私たちがモタモタしているうちに、奴らは『殺意』としての力を現実でも十分に発揮できる状態になっていたんだ。『殺意の王』の正体まで私たちは掴めていなかったから、当時はわからなかったが、あの時点ですでに『鏖』が始まりつつあったのだろう。異色香澄の中にいる『殺意の王』の成長度合いと現実世界への影響は、おそらく比例関係にある。あの時点で、胎内での脳の形成が始まっていたんじゃないかな。『殺意』の核は脳にあるわけだしね。たぶん六ヶ月から七ヶ月ってところか。……ああ、ちょっと話が脱線しかけたね。つまり、奴らはあの時点で『殺意』の性質がかなり濃くなっていたんだよ。『殺意』は、『殺意』の力以外では殺せないという特性がある。……もう、言わなくても分かるだろう?」
「……全員殺されたんだな、香澄に」
桜南が首肯した。
「実は、私は同僚たちが殺されるところを見ているわけではない。けれど、誰一人とも連絡が取れなくなったことを鑑みるに、間違いなく皆殺しにされているだろうね」
「……見たわけじゃないって、どういうことだ?」
「異色香澄からやられたんだ、真っ先にね」
透は唖然としてしまった。
「……ああ、でも大丈夫だったよ。身体をバラバラにされたけど、幸い頭は無事だったから。緑川兼貴から渡された『殺意の因子』が上手く適合してくれたおかげで、なんとか生きながらえることができた。だから、異色香澄も最初私を目にした時は度肝を抜かれただろうね。ミンチ肉にしてやった相手が、生きていたんだから」
「……それは、誰だって驚くだろうな」
「あいつの間抜け面をみたときは、ちょっとだけ溜飲が下がったよ。仲間の弔いには到底足りはしないがね」
あいつは、生きているのだから。
忌々しそうに言い捨てて、桜南は銀色の瞳を天井へと向ける。淡然としているようにも見えるが、その心の奥底には煮えたぎる憎しみがあるのだろう。わずかに吊り上がった目尻から、ささくれ立つ感情の片鱗を感じられるくらいには、彼女との付き合いは長い。
桜南は、静かに押し殺した声で言った。
「だからね、透くん。一人で背負い込むな。私達にも罪はある」
「……」
「……罪は、あるんだ」
「……」
それは、決して安易な慰めなどではなくて。命のように重たい実感が籠もった、共犯者の懺悔であった。
桜南のことは、正直言って許せない。
二年もの間欺かれ続け、異色家の秘密や母親のことを分かっていたのにも関わらず素知らぬ顔を続けていたのだから。騙された、という感覚はどうしたって抜けない。そのすべてを受け止められるほど、達観してはいないのだ。
だが、彼女にも彼女の立場があったのだろう。そう思えば折り合いのつかない気持ちにも、少しばかり整理する場所を与えることができる。
それに、桜南が弁明したとおり、二年間のすべてが嘘だとは透にも思えなかった。彼女は本音のすべてを隠していたわけでは決してないはずだ。ボードゲームを好きな気持ちも、透との時間を楽しんでくれていたのも、記憶に仕舞われた数々の桜南の微笑を思い起こすと、本物だと信じることはできる。その光すら嘘だと、疑いたくはなかった。
だってそれは、桜南が向けてくれた好意を欺瞞と断ずる行為に等しいから。
――好きだよ、透くん。
最後の文化祭で聞いたあの言葉は、あのとき感じた熱は、きっと偽りなどではない。
偽りなどでは、ないのだ。
「……銀城。俺は、お前に失望なんかしていない」
桜南から、息を呑む気配が伝わってくる。
「お前を信じる基盤は、揺らがないと思えたからな」
「……そう」
ほっとしたような、嬉しそうな、泣き出しそうな。そんな、儚い一言。
桜南から漂う険呑が微かに解れていく。
そう、感じたときだった。
桜南の目が、急激に見開かれた。
「銀城?」
「……バカな……そんな」
「お、おい?」
桜南が身体を起こし、首が千切れそうな勢いで振り返る。車体からわずかに顔を覗かせ、呻くように言い放った。
「いくらなんでも、早すぎる!」
「なにが」
「透くん! 隠れて!」
だが、桜南の言葉はもはや手遅れで――。
入口付近に止まっていた複数の車が、轟音を立ててひしゃげた。巨大な腕、無数の腕、百足のような足、血に濡れた触手。それらが鉄塊を豆腐でも弄ぶかのように蹂躪していく。
仄暗い闇から覗いたのは、生物の醜悪さを凝縮し、無造作に配分したかのような様々な化け物たちだった。嗤い、呻き、興奮、悲喜。そのすべてを孕んだ咆哮が、地下駐車場を地獄へと一変させる。
化け物たちの顔は、すべて笑っていた。
バッタの足を引きちぎろうとする子供のように無邪気に。
群れをなす無数の赤い瞳が、すべて透を捉えた。
「ひっ」
引き攣った悲鳴が溢れた。痺れるほどのおぞましさに、身体の震えが止まらない。
そんな透を庇うように、桜南が立ち上がった。よろよろとよろめき、苦しげな息をこぼしながら。
「……っ」
ふらつく桜南は、なんとか堪え、襲い来る激痛に耐えながら毅然と怪物たちを睨みつける。
「ちく、しょう……。まだ数時間なのに、あのクソ女め……! もう再生しやがったのか」
「……香澄が」
あの化け物たちを、ここへとよこしたのか。
でも、なぜだ? なぜ、居場所がバレたのか。
「……なぜ、気づかなかったんだ。……あの女が、透くんに対して保険をうっていないわけがないのにっ」
「――まさか」
香澄には、透の居場所を感じ取る力があるということか。それ以外に、考えられないだろう。
だから、監禁から逃げ出した直後のあのときも……。
事態の悪さに、嘆く暇も与えられなかった。
さらなる最悪が重ねられたせいで。
「みーつけた」
平坦すぎる男性の声。そこには、感情など一切籠もっていない。あまりにも心の乾いた声音だった。
桜南の背中が、小刻みに震えだした。
化け物たちの背後から、二十代後半ほどの痩せぎすの男が現れた。全身黒のスウェットに身を包み、手入れの跡が見えないボサボサの黒髪を恥ずかしげもなく晒すその男は、どこか浮世に住まうものの透明感があって。黒縁メガネの先にある真っ黒な瞳には、一切の光がなかった。
その瞳の闇と、目があった瞬間。
どうしようもない悪寒が襲った。
「――」
こいつは、マトモではない。直感が言っていた。こいつといま、戦ってはいけないと。
「……っ。『上位者』、なんて……」
桜南のつぶやきには、絶望的な響きがあって。
もはやどうしようもない状況に追いやられたことを、悟らされるには十分すぎる気配があった。
「はじめまして。僕は、『
「不条理」と名乗った男は、名刺交換でもするかのような気安さで、そう口を開いた。
「……聖母様のご命令でね。君にはとくに恨みはないし、そこのお兄さんを取り戻すついでで悪いんだけどさ。死んでくれない?」
「クソが」
「まあ、恨むんなら聖母様を恨んでね。僕には関係ないからさ」
「不条理」は無表情のまま頭を掻きむしる。これから殺人を実行するのは己のはずなのに、その口調はひどく他人事であった。
「この世界はいつも曇っているから、太陽は出てないけど」
肩をすくめ、「不条理」は言った。
「聖母様は僕の太陽だから、仕方ないよね。太陽が眩しかったのだから」
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