第三章 三




 兄さん。


 私を、置いて行かないで――。








 香澄が瞼を開くと、「赤色」の空があった。


 血を浴びたような雲が、怪しく蠢いている。雲間から覗く無数の腕が、香澄へ救いを求めているかのように、指先を力強く伸ばしていた。


 反転した地獄絵図を見ているかのようだ。香澄にとっては、見慣れた光景。


 どうやら香澄は眠っていたらしい。ゆっくりと身体を起こし、長座に近い体勢になる。どこかの建物の屋上にいるようだった。錆びついた柵が周囲を覆っていて、その後ろには大小様々なビル群が見える。そのすべてが、赤く淀んでいる。


 完成した風景画に、赤い絵の具を溶かした水をぶっかけたような感じだ。出来の悪すぎるその景色は、神を宿した香澄だからこそ視える世界の真実だった。


「……っ」


 突如、鋭い痛みが頭に走った。


 その痛みは反響し、鈍痛となって頭に残り続ける。


 頭を押さえた。


 一向に収まる気配がない。痛覚の遮断が上手くいかなかった。極まった「上位者」ならば、誰でもできることなのに。


 ――痛い。


 不快な感覚だ。


 香澄は、立ち上がろうとした。しかし、うまく足が動いてくれなかった。自分の足ではないかのように、感覚が掴めない。頭痛が酷くなった。地面に手をついて、耐えようとすると、視界がぐらりと歪んだ。


 香澄は、ゆっくりと現実を咀嚼し始める。生の玉葱に齧り付いたがごとく、耐え難い辛味と苦味が徐々に徐々に記憶という舌に広がっていく。


 逃げ出した透。追跡し、いらないものを切り落としてやった。これで平穏が戻ると思った矢先、愚昧な横槍が入ってしまった。それを排除しようとした。ゴキブリを潰すような感覚で。だが、その害虫はただの虫ではなかった。香澄にとって、まさに苦虫に等しい存在だった。やつのことは知っている。銀城桜南と称する雌猫。兄を拐かし、反吐よりも酷い臭いをすりつけようとしていた淫売婦。それが、兄の唇を奪って――。


 香澄は、敗れたのだ。


「……うっ」


 こみ上げる胃液を抑えられない。


 吐いた。酸味が味覚を犯し、鼻の中にまで入ってくる。粘膜を焼かれる不快感。熱く、苦しい。それでも止まらない。


 もはや吐き出すものがなくなって、胃が迫り上がった。口から飛び出すのではないかと思えるほどになって、ようやくピークを迎えた。


 血の混じった吐瀉物の臭いが、空の亡者たちへと登っていく。


 香澄は、肩で息をしながら呟いた。


「……なんで、あの女が」


 唇が、勝手に震える。


「……なんで……殺したはずなのに」


 香澄にとっては、銀城桜南の出現は考えられない事態だった。


 なぜか? 「鏖」が起こる少し前に、殺していたからだ。澄空そらの成長……胎内での脳の発達とともに、現実世界ではほとんど使えないはずだった「殺意」の権能を使えるようになった。「殺意」が現実に及ぼす影響の強さは、澄空の成長度合いに比例する。世界が混ざる前の予兆のようなものだ。


 そのとき、実験も兼ねて真っ先に殺してやったのが、あの女だった。


 ずっと、殺してやりたかった。あの女が透に付き纏い、あまつさえコソコソと隠れて良からぬ関係を構築しようとしていたことは、香澄もわかっていた。わかっていて、ずっと知らないふりをしていたのだ。一度耐えられずに忠告へ訪れたことはあったが、調子に乗り切っていたあの女は無視したし、香澄もそれ以上のことはできなかった。


 あの女が透に寄生していた二年近くは、マグマの中に浸かり続けているかのような、憎悪に満ちた時間だった。


 時がくるまでの間は、あの女を殺してはいけなかったのだ。父親の異色明いしきあきらに止められていたからだ。あの女を泳がせておいた方が、裏切り者を炙り出すことにおいても、透の成長を促すことにおいても、有益だからと。


「……間違えていた」


 香澄は、皮膚を破らんばかりに拳を握りしめた。


「鏖」が起こるまで、香澄は父親に従わざるを得ない状況だった。彼女の計画には、明の協力と力が必要だったからだ。猫を被る理由がなくなり用済みになるまでは、父親とは良好な関係を保っている必要があった。


 澄空を、世界をつなぐ鍵を創り出す方法を発見したのは、たしかに香澄だし、そういう意味では香澄は一番の功労者だ。


 だが、香澄の計画は、あくまで異色家が四百年紡ぎ続けてきた計画に沿ったものだった。「『殺意の王』を顕現させ、この地上を浄化する」というくだらない計画。


 それに則っている以上、父親の、異色家の意向は無視できるものではなかった。


 しかし――。


「……父さまの口車になんて、乗るんじゃなかった」


 真っ先に、目障りに感じた瞬間に、殺しておけばよかったのだ。「殺意」らしく、己の欲求に従うべきだった。自分は、生まれながらにして純粋な「殺意」であるはずなのに……。


 おそらく殺したときにはすでに、銀城桜南は「殺意の因子」を、香澄の遺伝子情報を、身体に取り込んでいたのだろう。裏切り者の叔父から「M―0151」を渡されていたのだ。だから、死なずに済んだのだ。


 もう少し早ければ、あの女は確実に死んでいたのに――。


 後悔ばかりが頭に浮かぶ。


 あのとき、こうしておけば。それはもっとも不毛でもっとも無意味な思考だ。


 わかっているのに。わかっているのに。


 香澄は、溢れ出る涙を止めることができなかった。


「……兄さん」


 香澄は、自分の身体を抱きしめた。肩が、腕が、小刻みに震えている。


「……兄、さん」


 奪われてしまった。


 あんな女に。


 この世界で何よりも尊く、何よりも大切な宝物を。


 香澄にとって、透はすべてだった。


 生きる意味そのものと言っても決して過言ではない。透がいるから、すべてに耐えてこられた。おべっかばかりで中身のない人間たちや、自分を利用しようとする腹黒い人間たちにも笑顔で応じられたし、異色家の神童としての仮面だってかぶってこられたのだ。吐き気を催すような汚らわしさに耐え、感情と本音を押し殺し続けるつまらない日々は、香澄にとって色彩のない灰色の現実でしかなかった。


 そこに唯一あった色彩が、透なのだ。彼の存在が、香澄の人生に豊かさを与えてくれた。彼は、香澄にとって紛うことなきヒーローだった。


 透が手を引いて見せてくれた景色はなにもかも煌めいていて、穏やかで優しかった。手から伝わる彼の温もりは、真冬のカイロよりも離し難く祝福に満ちていた。彼の笑顔は、光による抱擁に等しかった。


 すべてが、輝いていた。香澄の心は導かれるように透に惹かれていき、まるでそうなることが宿命であるかのように、一人の男性として好きになっていた。


 それは、「狂愛」の殺意として生まれ落ちた香澄にとっては、必然だったのかもしれない。


 だが、香澄にはそんなことどうでも良かった。


 透がこの世界にいる奇跡と、透を愛する幸福があれば、それでいいのだ。


 香澄は、透だけを見て、透だけを感じて生きてきた。


 しかし――。


「兄さん。……にいさん!」


 香澄の声は、徐々に慟哭へと変わっていく。


 透にとって、香澄はすべてではなかったのだ。


 わかっていた。彼が香澄のヒーローになったばかりの頃から、その兆候はすでにあって。彼はときおり、香澄を冷酷に置いてけぼりにし、他の子供たちと楽しそうに遊んでいた。そのときの寂しさは、身を切り裂かれるほどに辛いものだった。


 だが、香澄の不安は透に伝わることはなくて。香澄と比べられ家の人間たちから蔑まれていたこともあったためか、彼は家の外に目を向けがちだった。誰とでも気さくに接していたのは、家の中では埋められない寂しさを埋めようとしていたからなのかもしれない。


 彼が誰に対しても優しく、誰かの助けになりたいと願ったのは、母親の死以前に、そこに根本的な要因があるのだろう。


 二人の構造は少し歪で噛み合うことがなく、互いの望みは一致することはなかった。


 悲劇は、そんな二人のすれ違いにこそあったのだ。


 自分だけのヒーローになって欲しいと透に望んだ香澄。誰もを助けることができるヒーローになることを夢見て、香澄だけを特別扱いすることのなかった透。


 けっして交わらない、兄妹の現実。


 香澄がいくら求めたところで、透は香澄だけを見ることはない。


 その絶望が、澄空を孕ませたのかもしれない――。


「あああああぁぁぁ……!」


 魂からの痛哭だった。頬から流れ落ちる大粒の涙が、下呂で汚れた地面を悲しみという色で塗り重ねていく。


 また、置いていかれた。


 せっかく、すべてが上手くいくと思ったのに。ついに兄を繋ぎ止めることができたと思ったのに。独占して愛を深めることができると思ったのに。


 どうして。


 どうして、どうして、どうして?


 どうしていつも、水のように掌から零れ落ちていくのか。


「嫌だ嫌だ嫌だ、兄さん……嫌だよ。置いていかれたら、私……私……」


 バラバラになりそうだ。


 さらにきつく、香澄は自分の身体を抱きしめた。膨らんだ腹が圧迫されて少しだけ肺が詰まったが、そんなことどうでも良かった。壊れてしまいそうな悲壮と苦痛に溺れ、それ以外のすべての感覚が鈍麻している。


 香澄は耳元に手をやった。そこに、兄からもらった安全ピンのピアスはない。銀城桜南との戦いで失われてしまったから。


 震える唇を動かし、香澄は絞り出すように声を出した。


「……独りに、しないで」


 香澄の声は、けっして透には届かない。


 だが、香澄は真の意味で独りではなかった。


 彼女の中には、透との間に作った半身がいる。


 腹の内側から、柔らかく撫でるような感覚が伝わってきた。蹴るのでもない、叩くのでもない、優しい力。


「……そ、ら?」


 香澄は、腹に手を置いた。


 膨らんだそこから伝わる熱と感触は、確かな生命の息吹を感じさせるもので。


 透との間にできた、確かな繋がりがそこにはあった。


 ――殺せ、ば、いいんだよ。


 思念が腹の底から響いてくる。澄空の「声」は、香澄にも似ていたし透にも似ていた。


「……」


 香澄は指で目元を拭い、ゆっくりと空を仰いだ。


「……そう、だよね」


 そう。


 香澄は、「殺意」だ。大切なものを奪われて苦しいのなら、奪ったやつを殺して取り戻せばよいだけのことだ。


 そうすることで、この痛苦を慰めるしかない。


 それが、「狂愛ファム・ファタル」の名を冠する香澄のやり方。


 ――銀城桜南を殺す。


 頭の先から足先までバラバラにすり潰して、ハエの餌にしてやればいい。狂いそうなほどの嫉妬と憎しみを糧にして。


「……ありがとう、澄空」


 香澄の目が、赤く染まっていく。


 頭痛はもう無くなっていた。荒れ狂う怒りと悲しみの中で、思索を張り巡らせることができるくらいには、冷静さが戻ってきている。


 銀城桜南にやられたとき、香澄はたしかに一度死んだ。なのにこうして生きているのは、澄空の力によって蘇ったからだ。


 だが、完全に復活したとはいえない。やはり、一度死んでしまった影響というのはついて回るようで、香澄は「狂愛」の能力の大半を喪失してしまっていた。「殺意」の核は脳にある。その脳が再生したからといって、一度粉々に破壊された核まで元通りに戻るとは限らないようだ。


「狂愛」の力が使えない以上、銀城桜南と直接戦っても勝算は薄い。いや、間違いなく返り討ちにあうだろう。成り立ての模造品とはいえ、「暗殺アサシン」の戦闘能力は今の香澄よりも確実に上だ。


 だったら、どうするか?


 他をけしかければいい。


「――集まれ」


 香澄の言葉を呼び水に、無数の何かが這い上がってくる気配がした。コンクリートを削る音、殺気、獣臭、柵をつかむ無数の手や触手。そして、現れた化け物たちの法悦に満ちた顔。


 大小様々な化け物たちは、臓腑の底まで響き渡るほどの咆哮をあげる。


 彼らの目はすべて、香澄と同じ血のような赤に塗れていた。


「……」


 香澄には、まだ残された別の力がある。


 それは明から奪い取った、「狂信ファナティカーの殺意」の能力。


「殺意」を操る力だ。


「……」


 まずは、一手目。


 おそらくは銀城桜南との戦闘から、それほど時間は経過していないだろう。


 香澄が銀城桜南に与えたダメージは相当に深かった。その上で、敗れたのにも関わらず澄空が無事であったことを考えると、澄空が何らかの自衛を行った可能性が高い。銀城桜南はより深い傷を負っていることも十分に考えられる。


 香澄の見立てでは、銀城桜南の回復には一日以上の時を要するはずだ。あれと戦闘した経験からいっても、間違いなく再生が遅いタイプの「殺意」だから。


 つまり、一手目でもっとも有効な好手は、桜南の傷が完治する前に化け物たちを畳み掛けることである。幸い、香澄には透の居場所を感じ取る力があり、銀城桜南はそのことを知らないはずだ。ならば、透の居場所を探れば、必然的に銀城桜南に辿り着く。


 もちろん、透に危害が及ぶ可能性はゼロとは言えないだろう。銀城桜南との戦闘前に操っていた下等種は透を攻撃しようとした。同じことが起こらないとは確実に言えない。それに、切羽詰まった銀城桜南が透を人質に取ることだって考えられる。


 が、それ以上に……予測できないのは透の中に眠るあいつだ。気まぐれなあいつが、透に力を貸さないとは決して言えない。そうなると、下等種だけでは心許ない。


 だから、もう一手付け加え確度を上げる。


「……『不条理ムルソー』」


「狂信」の力を使えば、「殺意」と遠距離で交信することも可能だった。


 本当は、他の上位者たちに透のことを頼みたくはない。だが、背に腹は代えられない。


「……今から言う場所へ向かってください。あなたが一番近いですから。いいですね?」


『なぜ?』という問いが返ってきたので、香澄は冷たい声で言った。


「兄さんをクズ虫に奪われてしまったんです。あなたには、そのクズ虫を殺して兄さんを奪還してもらいたい」


『僕には、聖母様のお兄さんを取り戻す理由がないが?』


「私のために働くことに理由などいりますか? ――殺しますよ?」


 わずかに漂った怒気は、ペットの悪戯に対して飼い主が抱くほどの小さな炎であったが、周りの化け物たちを怯えさせるには十分な迫力があって。


 空気が割れる音さえ、聞こえてきそうなほどだった。


『……相変わらず滅茶苦茶だなあ』


「不条理」は苦笑していたが、その声には怖れはなかった。香澄のわがままを、楽しんでいる気配さえある。


『それにしても、どういう風の吹き回しなのかな? 聖母様が、お兄さんのことを僕に頼むなんて。……何かあったの?』


「あなたは知らなくていい」


『ははっ、そう言うと思った。まあ、理由は深くは聞かないよ。だいたい想像つくけど』


「……」


 舌打ちをこらえる。


 これだから、こいつらには頼みたくないのだ。


「……いいから。さっさと行ってください」


『了解。これ以上戯言を言っていたら本当に殺されかねないからね。さっさと仕事にとりかかるとするよ』


「場所は、あなたのいるところから南西に三キロ行った先にある西住ビルの地下駐車場です。……女と一緒にいます。そいつは出来る限り苦しめて殺してほしい」


『……ほう』


「ただし、兄さんには掠り傷一つでもつけることは許しません。もし、傷がついていたときは――どうなるかはわかるでしょう?」 


『それはもちろん。しかし』


「不条理」はまだ何か言いたそうにしていたが、これ以上聞く意味はないので交信を絶った。


「……散れ」


 香澄の短い言葉とともに、集結した化け物たちが一斉に散開した。


 一人残された香澄は、空を見つめ続け、暗い微笑を浮かべた。


 これで、銀城桜南は終わりだ。


 残念なのは、この手で再びあの雌猫をミンチ肉にしてやれなかったことである。だが、致し方ない。実験や研究と同じで、失敗してしまった以上は、別のやり方で攻めていくしかない。


「……」


 それに、大筋はなにも変わらないのだ。たしかにあんな女に大切な透を取られたことはショックだし、一秒でも透とあの女が一緒にいることは耐えられないが、大局的にみれば香澄の計画に綻びが出るほどのことではない。


 なぜか?


 澄空さえ産まれれば、香澄の勝ちは確定するからだ。神による鉄槌が本格化すれば、人間など一瞬で屠りされるし、邪魔な上位者たちさえ簡単に排除することができる。「殺意の王」にはそれだけの力がある。


 そう、


 香澄は、腹をゆっくりと撫でながら嗤う。


「せいぜい、短い余命を愉しめばいい。……ボードゲームのプレイ時間みたいに、短い余命をね」

 


 

 


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