第19話
Chap.19
その朝は、クラス合唱の朝練があった。
時間があったら是非竹山君と話したいなと思っていたけれど、残念ながら練習はホームルームの時間ぎりぎりまで続いてしまった。もちろん、無事に本の中から戻ってきた後にLINEで少し話したけれど、それだけではとても足りない。
結局、ちゃんと話せたのは昼休みになってからだった。
「二谷先生、学校に来てないみたい」
廊下で待っていた竹山君に、玲が真っ先に言ったのはそれだった。
「美術の時間、自習だった」
「聞いたよ」
竹山君が頷いてため息をつく。
「みんな『やっぱりな』って…。誰も驚いていないところが、なんともね。学校側がもっとずっと前になんとかしてなきゃいけなかったんだ。外行く?」
「そうね」
人に聞かれたくないことなら、校庭で話すのが一番安全だ。
「斉藤さんも今日はお休み」
階段に向かいながら、玲は低い声で言った。
「そう」
今日も、二人で歩いていると、あちこちから好奇の視線が飛んでくる。教室の並びを通り過ぎて人が少なくなったところで話し出す。
昨夜のことを説明しておきたかった。
「あのね、昨日は話せなかったんだけど…、この前の金曜日の夜、先生が斉藤さんに、LINEでね、月曜日の放課後に、今度は必ず私一人だけを、美術準備室に連れてくるようにって言ったんだって」
竹山君の目がぎらりと光る。
「あいつ…っ。それであんなこと言ったのか」
「逃げられると思うなよー」のことだ。
「そう。でね、続けて斉藤さんに言ったんだって。『それができなかったら、お前はこのままずっと俺の奴隷だからな』って」
竹山君が目をむいた。
「奴隷?」
「そう」
「…なんて奴だろう。信じられない」
「ね。そんなこと言うような人が、『先生』なんて呼ばれて、誰にも咎められずに学校にいたなんて。あの先生、何年前からこの学校にいたのか知らないけど、もしかして、斉藤さんの前にも誰かが『奴隷』だったのかもしれない。…竹山君が助けてくれなかったら、私が次の『奴隷』だったのかも。だって、『それができなかったらお前はこのまま俺の奴隷だ』っていうことは、つまり、『それができたらお前はもう俺の奴隷でいなくていい』ってことじゃない?…代わりの奴隷ができるから」
ちらりと竹山君を見上げると、竹山君はきつく眉を寄せて、考えたくもないというように首を振っていた。
「昨日の夜…、そういうこととか、斉藤さんがされてたこととか、考えないようにしようって思ってもどうしても考えちゃって。それにもしクビになったとしたら、二谷先生、暇な時間がいっぱいできるでしょ。それで私たちを道路や家で待ち伏せして襲ってきたらどうしようとか、そういうことも考えちゃって…。だって、私たちのことを…生徒のことを奴隷なんて考えるような人なら、そんなことだってやりかねないって思えちゃって。
お母さんがね、警察に話をした方がいいかもしれないって言ったの。ただクビにしたってだけで終わりにされちゃたまらない、そんな奴がこの辺をうろうろしてたら、何されるかわからなくて危険だって。
そんなの聞いたら、余計怖くなって…。元カレがストーカーになって、クローゼットの中に隠れてて、高校生の女の子を殺した事件があったでしょ。そんなことも思い出しちゃって…。
それで、すごい怖い夢見て、そのあと怖くて眠れなくなっちゃったの」
竹山君がため息をついて玲を見る。
「電話してくれたらよかったのに」
玲はちょっと笑った。
「夜中の二時だの三時だのに?」
「何時だって電話してくれて構わないよ」
真顔で竹山君が言う。
「そういう状態で本を読むと、危ないと思うから」
「うん、それは昨日学んだ。全然気がつかないうちに本の中に入っちゃってた。よっぽど本の中に逃げたいって思ってたんだろうね」
「僕もそうだったよ。初めての時」
竹山君を見上げる。
「それ、訊こうと思ってたの。竹山君はあの時、机の上でちゃんと本を開いて読んでたのね、きっと?」
「いや。ベッドに腹這いになって読んでた。でも古いハードカバーの本で背表紙なんかもくたびれてて、だいたいどのページでも、抑えてなくても開いたままにしておけたから…。ラッキーだったよね」
「ほんと」
身震いしてしまう。
「もし本が閉じてしまっていたら…」
竹山君がちょっと笑う。
「そしたら会えなかったね」
心の底からぞっとした。また竹山君の制服の袖をつかんでしまいそうになったのを、辛うじてこらえた。
大丈夫、竹山君はちゃんとここにいる。
「…そんなことにならなくて、ほんとによかった」
竹山君が優しく睨む。
「大宮さんも、これからはちゃんと気をつけないとだめだよ。今日は一発で行き先がわかったからよかったけど」
「それね、どうしてわかったの?」
「うーん、どうしてかな。勘かな。大宮さんがあの本の中に行くなら、絶対あの場所だろうと思った」
玲は微笑んだ。
りんとフレディが助けてくれたのかな。
「とにかく、危ない状態だと思ったら、寝転んで本を読まないこと」
「Aye, aye, sir」
「怖くなったらいつでも僕に電話すること」
「…ありがとう」
まさか自分が、夜中に「怖いの」なんて電話して、竹山君の睡眠の邪魔をするほど自己中の甘ったれだとは思わないけれど、そんなふうに言ってもらえるだけで気持ちが安らぐ。
「竹山君も、怖くなったらいつでも私に電話してね」
いたずらっぽく、でも本気で言う。
スマホは居間に置いておくというルールを変えてもらうつもりだ。
「ありがとう。そうするよ」
やわらかく微笑んで言った竹山君に、
「ゴのつくアレが出たら、私が退治しにいってあげるから」
と言ったら睨まれた。
青くて高い十月の空の下、校庭ではいくつかのグループがサッカーに興じていた。一年生の男の子たちが特に元気だ。使っている派手なピンク色のボールがあっちへこっちへ飛び交っている。近くにいるとこっちに飛んできそうでひやひやする。彼らからできるだけ離れた、並木道に近いほうの校庭の端をゆっくりと歩く。
「お父さんの反応、どうだった」
「うーん…」
玲は苦笑した。
「まだね、現実のこととして受け入れられてないような感じだと思う。『とりあえず、無事でよかった』とか『お母さんには内緒にしておこうね』とか言ってたけど、本の中に入れることに関しては、何にも質問してこなかったし」
「まあ、実際に本の中から戻ってくるところを見たって、それこそ我が目を疑うだろうしね。簡単に信じられるようなことじゃないものね」
お父さんは、五時すぎにトイレに起きた。玲の部屋から灯りがもれているので変に思い、そっとノックをしたけれど返事がない。それで中を覗いて空っぽの部屋と冷たいベッドにびっくり仰天、ということだったらしい。
お母さんを起こしたりはせずに、すぐに竹山君に連絡したところが実にお父さんらしい気がして、玲は「お父さんやるぅ」と思った。りんがお父さんにこっそり耳打ちしてくれたのかもしれない。
「さっき言ってたことだけど、」
竹山君がふと思い出したように言う。
「あいつがもしかして僕たちを道路や家で待ち伏せして襲うかもしれない、って」
「うん」
くすっと笑う竹山君。
「『たち』って…。僕も襲われるかもしれないと思うの?」
「だって、美術準備室でのことがあるから…逆恨みされて…」
また想像力が勝手に映像を頭の中に流してくれて、ぞっとする。
「竹刀って持って歩くわけにいかないの?」
「竹刀じゃ相手に大したダメージは与えられないよ。それなら木刀の方がいいけど、あれは持ち歩くのは違法になるんじゃないのかな」
「木刀なんて持ってるの?」
「素振りに使うんだ」
「……」
すらりとした袴姿に木刀。
かっこいい…。
沈黙した玲を竹山君が不思議そうに見る。
「なに?」
「かっこいいなって思って…。想像しちゃった。素敵」
素直に言うと、竹山君がちょっと赤くなった。
「あ、赤くなってる」
「いや…」
うふふと笑ってしまう。
そういえばホームズさんも、褒められて赤くなるシーンがあったっけ。
「…とにかく、僕はあんな奴にやられたりしないし、大宮さんのことも絶対に守るから、心配しなくていいよ。ただ、僕が一緒にいられない時…」
「それは大丈夫」
急いで言う。
「防犯ブザーとかペッパースプレーとか持ち歩く予定だから」
「いい考えだね」
竹山君が我が意を得たりというように頷く。
「竹山君もそういうの持ってる方がいいと思うの。もう注文したから、届いたら持ってくるね」
「…防犯ブザーを?僕に?」
「それとペッパースプレーも。ちゃんとブルーのにしたから。小さいのだから邪魔にならないし、ブザーはキーホルダーみたいにしてつけられるの。私のとお揃い」
「……」
明らかにどう反応していいのか困っている竹山くんを見て、玲はちょっと笑ってからごく真面目に言った。
「今はね、男の人を狙う男の人もいるんだって。二谷先生のためだけじゃなくて、防犯のためにも持ってたらいいかなって思って。イギリスでもね、男の人190人をレイプした男の人が逮捕されたんだって」
さすがの竹山君も驚く。
「ほんとに?」
「お母さんがそう言って、『お父さんもそういう防犯グッズ持ってる方がいいわね』って。毎日BBC聞いてるから、情報源はそこだと思う。お父さんとも、今朝、戻った後にちょっと話したの。竹山君だって持ってる方がいいよね、って」
「…ありがとう」
「どういたしまして」
「…190人って…」
信じられないと首を振って大きなため息をつく。
「なんて世の中だろうね」
今日は玲が言って、竹山くんが頷く。
「まったくだよ」
「そういうことする人たちってね、どうしてそんなことするんだろう。学校だけじゃなくて、教会でもそういうことがあるんでしょ」
「うん、教会ではそういうことは昔からずっとあったらしいね。あとはスポーツ界でも…子供の野球チームとかサッカーチームとかのコーチが、チームの子供たちに性的虐待をしてるって」
「アメリカの女子体操チームのコーチが、っていうのもニュースになってたね」
二人揃ってため息をつく。
「…私ね、どうして…、どうして私が二谷先生にターゲットにされたんだろうって考えてて…。斎藤さんは多分、ああやってすごく…無口でおとなしいし、いつも一人でいるから、ターゲットにされたんじゃないかなって思う。でも、私は?私もそういうふうに見えるの?おとなしくて、告げ口も抵抗もできなそうに見える?」
「見えないよ。大丈夫」
「じゃあどうして?」
竹山君は宙を見上げてため息をついた。
「…多分、斎藤さんで味をしめて、今度はそこまでおとなしくなさそうな女の子でも…意のままにできると…」
言葉を切って眉をわずかに寄せると、
「ターゲットにされたのは、大宮さんに何か落ち度があったからっていうわけじゃないよ。おとなしそうにも弱そうにも見えないし。それに、それを言うなら、斎藤さんがターゲットにされたのだって、斎藤さんに落ち度があったからってわけじゃない。確かに、おとなしい人はターゲットになりやすいのかもしれないけど、おとなしいとか無口とかっていうのは、その人の性格であり、個性であって、それが悪いってわけじゃない。そもそもそういう人を…どんな人でも…『人』をターゲットにしたりする奴が間違ってるんだ。ターゲットにされる側に落ち度はない。自分がどうしてターゲットになったかなんて、考えなくていいと思うよ。自分にも原因があったなんて、絶対に思っちゃいけない」
「…そうね」
深く頷く。
本当にそうだ。
なぜだか胸がいっぱいになる。
急に昨日の夜のように手をつなぎたくなったけれど、ここは校庭で、教室からも職員室からも丸見えだ。我慢する。
両手を後ろで組んで、高い青空を見上げる。
今竹山君が言ったことで、思い出したことがあった。
「何年か前にね、どこかで…アメリカかイギリスだったと思うんだけど、"What were you wearing?"っていう展示会があったんだって。レイプの被害者たちが、被害に遭った時に着ていた服の展示会。そういう被害に遭うとね、よく訊かれるんだって。何を着ていたのかって。男の人を…挑発するような服を着ていたんじゃないのかってこと。それ、去年テレビのドキュメンタリーか何かで見たんだけど、その時ね、何を着てようと——たとえ街の中をビキニ着て歩いてようと——レイプなんかする奴が悪いじゃないか!って腹が立ったの」
竹山君が頷く。
「その通りだよ」
「でもね、一緒にその番組見てた伯母さんにそう言ったら、伯母さんが言ったの。『だけどね、やっぱり女の子は気をつけなきゃだめよ。あんまり露出度の高い服は着ない方がいい。男は狼なんだから』って。
でもそれって変じゃない?どうして男は狼なの?男だって、狼じゃなくてきちんとした人間でいるべきじゃない?私がそう言ったら、伯母さん笑って、『それはそうだけどねえ。でも世の中なかなかそうはいかないのよ。だから女の子は気をつけなきゃいけないの』って。でもそんなのおかしいよね。『そうはいかないのよ』って諦めちゃだめじゃない?」
ちょっと熱くなってそう言ってから、玲はため息をついた。
「…でも、じゃあどうすればそういう世の中を変えられるんだって言われたら、私にもわからないけど」
「僕たちにできることから、少しずつやっていけばいいんだと思うよ。署名運動に参加するとか、デモに参加するとか」
「セクハラにあっている女の子に『大丈夫?』って声かけてあげるとかね」
竹山君があの時他の先生たちに言いにいこうって言ってくれたから、私は助かった。でも私だけじゃなくて、あれで斎藤さんも助かったんだと思う。先生たちに二谷先生のことを話したから、昨日のアンケートがあった。あのアンケートというきっかけがあったから、斎藤さんも話す気になれたんじゃないだろうか。
にこりとして竹山君を見上げる。
「ヒーローだね」
「いや、あれは…」
竹山君がちょっとバツの悪そうな顔をする。
「あの時は…大宮さんだったから気づいたんであって…。他の女の子があそこに座ってたら、僕は絵を描くことに集中してて、あいつが何しても気づかなかっただろうし…。だからそんな褒めないで」
玲は笑って竹山君の手を取った。指を絡める。
誰に見られたってもういいや。
「大好き」
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