第18話

Chap.18


 しばらく呆然として立ち尽くした後、玲はとぼとぼと歩き出した。裸の足が冷たい。パジャマの上に何も羽織っていない身体も少し冷えてきた。 

 もう少し日の当たる暖かい部屋があるかもしれない。できれば毛布か何かあると嬉しい。夏の国だったらよかったんだろうけど。確かせみしぐれの国っていうところがあったっけ。

 玲の想像では、今このお城には誰も住んでいない。

 本に書いてあったことによると、ここは、木の芽時の国の王女のおばあさまに当たるアントムさんのお城だったのだけれど、今日からヒポクラテスのものになった。

 玲が想像するに、少し前にアントムさんが亡くなってからはここには誰も住んでいないけれど、ところどころに家具が置いたままにしてあるのだから、どこかのチェストの中にでも毛布だの膝掛けだのが置き忘れられているかもしれない。

 食べ物はないだろうな…。水なら、お城だから、多分井戸の水があるはずだ。後で探してみよう。とりあえずは温まりたい。

 ぼうっとした頭で、冷たい白い階段をペタペタ上っていく。

 困ったな…。どうしよう…。

 朝になって私がいないのがわかったら、お父さんとお母さんはどうするだろう。あんなことのあった後だし、もしかして私が思い悩んで家出してどこかで自殺、なんて考えて心配するかもしれない。

 竹山君に連絡してくれれば…。ベッドの中にこの本があったって竹山君に話してくれたら、竹山君はきっと私がこの本の中にいるってわかってくれるはずだ。そしてあの冷静な口調で、お父さんとお母さんに、心配することないって言ってくれる。心当たりがありますから探してみます、って。

 どの本の中にいるかわかったら、どんなに時間をかけても、たとえ一ページ一ページ確かめなくてはいけなくても、竹山君ならきっと探しに来てくれるだろうと思えた。でも、ああ…。きちんと行き先を書いておくようにとあれほど言われていたのに。呆れられちゃうな、きっと。

 とにかく、もし竹山君が来てくれるとしたら、それは本にはっきりと描写されている場所だろう。この城の中でそういう場所は一つしかない。アカネたちが向こうの世界に帰る場面。この城の一番てっぺんの部屋。そこで待っていれば…と考えてから玲ははっとした。

 もしてっぺんの部屋にたどり着けなかったら?

 多分、本の中に入ってしまったのは、アカネたちがてっぺんの部屋に行く直前、お城の中の様子を描写してあるあたりだろう。行数にすれば、てっぺんの部屋の場面のほんの一行くらい前のはずだ。でも、同じページ内でも、場面が変わっていればそこへは行かれないと竹山君が言っていた。

 だけどこれは、例えば家からいきなり学校に場面が変わっているような場合とは違う。てっぺんの部屋へ向かう途中だったのだし、同じお城の中だから、大丈夫じゃないかな…。大丈夫じゃないと困る。

 祈るような気持ちで階段を上り続ける。

 途中いくつかの部屋の前を通り過ぎたけれど、てっぺんの部屋にたどり着けるかが気になって、入ってみる気にはならなかった。ちらりと見たところでは、どの部屋にも家具があり、ある部屋は日が差しこんで明るく、ある部屋はひんやりと薄暗かった。

 やがて玲がほっとしたことに、階段は明るい部屋に着いたところで終わった。

 てっぺんの部屋だ。

 本に書いてあったように、二つの窓がある。一つの窓からはれんげの野原の薄紅色が見える。もう一つの窓はタンポポの野原の淡い黄色でいっぱい。まるで白いキャンバスに、大きな刷毛でふわりふわりと薄紅色と淡い黄色を塗ったようだ。部屋は明るくて、まあまあ我慢できるくらいに暖かい。

 昼のままなのがありがたい、と玲は心から思った。もし夜になってしまったら、この部屋だってうんと寒くなって、こんな格好では凍えてしまうに違いない。

 四角というよりは楕円形に近い部屋は、そう小さくもなく、窓の反対側の壁際にはやなぎ細工のゆったりした寝椅子が一つと、これもやなぎ細工のオットマンがあった。

 寝椅子にそっと腰を下ろす。冷えた両足も椅子の上に上げて横になり、丸まってみた。大きなため息が出る。なんだかとても疲れた。

 寝椅子の高さからだと、二つの窓から見えるのは淡い水色の春の空だ。雲雀だろうか、小鳥の歌声が聞こえてくる。平和な空気。穏やかな世界。

 もしも竹山君が来てくれるとしても、学校が終わったあとだから、今三時半時頃として、十三時間、いや十四時間後くらいだ。でもそれも、もしお父さんとお母さんがその頃に竹山君に連絡してくれればの話。竹山君が今夜、もしかしたら明日までこのことを知らなければ、二十四時間かもっとここにいることになる。

「…お水、探しにいかないと」

 呟くと、天井の低い白い部屋で、声がなんだか奇妙な具合に響いた。

 それからトイレもないと困る。食べ物は諦めるとして、やっぱり毛布か何かもある方がいいかな。

「本もあるといいんだけど」

 ため息混じりにそう言ってから、玲はおかしくなった。せっかく本の中に来ているのに、本の中でも本を読みたいなんて、変な私。

 ちょっとだけ休んだら、お水と毛布とトイレを探しに行こう。もし外にも出られるようだったら、食べられそうな植物なんかがないかどうか、探してみようかな。でも靴を履いていないから、外を歩くのはちょっと辛そうだ。

 重ねた両腕の上に頬をのせ、窓の外の春の空を眺める。白いふわふわした雲の下端が水色の窓の中をゆっくり通り過ぎていく。冷たかった足もだんだん温まってきた。時折入ってくる風は甘く清々しく、花々の咲きみだれる野原を通ってきたのだとわかる。小鳥たちの声。風が木々や草花を渡るときの微かなささやき。瞼がだんだん重くなってくる。

 お父さんとお母さんは、何時ごろ私がいなくなったのに気がつくだろう。二人が——特にお父さんが——どんなに心配するかと思うと、胸がキリキリする。

 ごめんなさい、お父さん、お母さん。

 パジャマの袖でニコニコしているイエローラブに頬を寄せ、目を閉じる。

 りん。お願い。お父さんとお母さんに私は無事だって伝えて。竹山君に連絡とってみて、って。そうしたらきっと竹山君が、二人を安心させてくれるから。それからね、フレディから竹山君に伝えてもらって。私は二色の城のてっぺんの部屋にいます、って。

 竹山君…学校で私の姿が見えなくて心配するかな…。里奈にはもしかしたらお母さんが朝に本当のことを話すかもしれない——いなくなった、って。そうしたら里奈は竹山君に話す…かなあ。ああ里奈にも心配かけてしまう…。ごめんね里奈。

 竹山君…ごめんなさい。もっと気をつけるべきでした。

 ごめんなさい。

 これからはもっと気をつけるから…迷惑かけないように…寝転んだまま本を読んだりしないように…

 ゆらゆらと遠のいていく意識のなかで、そっと差し出した手を、竹山君の手が包んでくれたような気がした。 

 


 額に何かがふわっと触れて、玲はびくりとして目を半分開けた。眩しい。窓からの光を背にして屈みこんだ誰かが、笑みを含んだ声で言った。

「おはよう、眠り姫」

 その声だけで幸せな気持ちになる。頬が緩む。夢うつつでつぶやいた。

「…竹山君…来てくれたの…」

「ご覧の通り」

「…ありがとう…」

 大好き。

「どういたしまして。眠い?」

「うん…。今何時?」

 竹山君が腕時計を見る。

「五時四十三分」

「えっ」

 一気に目が覚めて、玲はがばっと起き上がった。首が痛い。

「私ずっと寝てたの?!」

 紺色の剣道着姿の竹山君が笑う。

「朝の五時四十三分だよ」

「……」

 玲は呆気に取られて竹山君を見つめた。

 一体どういうこと?

「お父さんが連絡くれたんだ、大宮さんがいないって。大宮さんのLINEで。五時半頃」

 玲は目をむいた。

「そんな早くに?」

「僕もいつもそれくらいに起きるんだ」

「そんな早くに?」

 鸚鵡のようだ。

「毎朝剣道の稽古するから」

「…そうなの…」

 惚れ直してしまう。

「それですぐ返信して事情を聞いて…。お父さんに、ベッドに本がなかったかって訊いたら、『地下室からの不思議な旅』があったって言うから、やっぱりなって思って、心当たりがないこともないので探してみますって言って、まずここに来てみたんだ」

「ごめんね、迷惑かけて…」

「迷惑なんかじゃないよ。無事でよかった」

 にこりとしてすらりと立ち上がる。

「話は後。お父さんが心配してるから、とりあえず早く帰ろう」

「でも…どうやって?」

「まず僕が帰って、お父さんにこの場面のページを開くように連絡するから。そうしたらドアが現れるから、それを通れば帰れるよ」

「わかった…あ、でもちょっと待って。私、どこで本に入っちゃったかわからないの」

 入った時の状況を話す。竹山君は頷いて、

「了解。任せといて」

 窓のそばの真っ白なドアへ足早に向かう。二、三歩遅れてついてきた玲を振り返って微笑むと、

「可愛いパジャマだね。大宮さんらしい」

「!!」

 パジャマに劣らず真っ赤になって絶句している玲ににこりと手を上げ、

「あとで学校で話そう。じゃ」

 ドアとともにすっと消えた。

「…信じられない…」

 竹山君にパジャマ姿を見られてしまった!!寝顔も!!

 中村紘子さんではないが、まさにアルゼンチンまでもぐりたいくらいの恥ずかしさだ。間違いなく今までの人生で一番恥ずかしい出来事。ああ…。

 この一週間に、人生で一番嫌なことと、一番素敵なことと、そして一番恥ずかしいことが起こった。What's next?!と天に向かって叫びたくなる。お次は何?!

 それにしても、さすがシャーロック・竹山君。なんという早技でありましょうか。五時半に起きて、お父さんから状況を聞いて、五時四十三分にもう迎えに来てくれたなんて…。すごい人。毎朝五時半起きで剣道の稽古してるなんて…知らなかった。

 窓辺に寄り、美しい景色を眺め、空を見上げる。

 神様。

 私、勉強も、他のことも、なんでも精一杯頑張りますから、どうか竹山君と釣り合うような女の子になれますように。

 竹山君とずっと一緒にいられますように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る