第17話
Chap.17
玲は美術準備室にいた。
美術準備室には二つのドアがある。美術室に通じるドアと、廊下に通じるドア。両方とも上半分にガラス窓がついているけれど、ブラインドが下ろされている。
部活の時間で、美術室には部員たちがいる。竹山君も。ブラインドで見えないけれど、がやがやした楽しい雰囲気が美術室から伝わってくる。
自分も美術室に行こうとするのだけれど、ドアが開かない。鍵がかかっているらしい。必死にドアノブをガチャガチャさせる。回らない。ドアを押したり引いたりしてみる。びくともしない。
どうしよう。いつ二谷先生がここに来るかしれない。怖い。早くここから逃げなくちゃ。
しばらく必死でドアと格闘したあと、気がついた。そうだ、ブラインドを上げれば、きっと竹山君が気がついてくれる!
ブラインドを上げようとして気がつく。ブラインドはこちら側ではなく、美術室側にかかっている。
上げられない。誰にも気づいてもらえない。みんなには私が見えない。竹山君にも私が見えない。
廊下側のドアを開ければ、防犯アラームが鳴るのが玲にはわかっていた。二谷先生に私の居場所がわかってしまう。そうしたら二谷先生がどこまでも私を追いかけてくる。だからできれば美術室に逃れたかったけれど、やむを得ない。
廊下側のドアに駆けよって、できるだけそうっとドアノブを回そうとする。回らない。動かない。どうして?!
絶望して顔を上げると、これもドアの向こう側にかかっているブラインドがするすると半分ほど上がって、斉藤さんの顔が覗いた。
「斉藤さん!開けて!ドアを開けて!」
斉藤さんは困ったように小さく笑う。首を振って、手を耳のそばに上げ、聞こえないというジェスチュアをする。
「ドアを開けて!」
ドアノブをガチャガチャいわせながら大声で言う。
「鍵がかかってるの!開けて!先生が来ちゃう!」
斉藤さんが、ああ、と納得した顔をする。玲の言っていることが通じたのだ。細い指でつまんだ鈍い銀色に光る鍵を顔の高さに上げてみせて、これ?と目顔で玲に訊く。
「それ!その鍵!早く開けて!」
斉藤さんは泣きそうな顔をする。
「でも…先生に…言われたの…。大宮さんを出しちゃいけないって…。『大宮を連れてこないと、お前はこれからもずっと俺の奴隷のままだからなー』」
斉藤さんの声がいきなり二谷先生の声になる。恐怖で総毛立つ。
「やだ!開けて!開けて!早く開けて!!ここから出して!!」
先生が来るのがわかる。
泣きながら、半狂乱になってドアに体当たりする。
そばにあったメディチの石膏像を両手で掴んで、それをガラス窓に思い切り叩きつける。
メディチは粉々になったけれどガラス窓はびくともしない。
斉藤さんが、危ない、というように目を見開いて、するするとブラインドを下ろしてしまう。
先生がそこまで来ている。
もうだめだ…!
はっと目が覚めて辺りを見回す。
真っ暗だ。
だんだん目が慣れてくる。
よかった。夢だったんだ…。
怖かった…。
肩で息をしながら、硬い床の上に起き上がり、頬に張りついた髪を後ろにかき上げる。
途端に、ここにいるのは自分一人ではないと気がついた。
身体が硬直する。
誰かいる。暗闇に誰かいる。いくつもの本棚の向こうに、誰かがいる。
二谷先生だ。ゆっくりと本棚の間を歩き回っている。
身動きをしたら見つかる。
ここは学校の図書室。声を上げたらすぐに誰かが来てくれる。竹山君が来てくれる。里奈も。水島先生も。前川先生も加藤先生も。
大声を出そうとする。
声が出ない。
大きく息を吸って、懸命に声を絞り出そうとする。
なんの音も出てこない。
二谷先生がどんどん近づいてくる。
助けを呼ばなきゃ。早く。
渾身の力を込める。喉から出てくるのは息の音だけ。
なんとかしなきゃ!叫ばなきゃ!
「…あ…」
ようやく蚊の鳴くような声が出た。
「う…うう…」
そんな声じゃだめだ。みんなに聞こえない。
二谷先生がすぐ隣の本棚まで来た。
助けて!!
「…うううっ」
自分の声にぎょっとなって目が覚めた。
小さな呻き声だったけれど、現実の声は、喉から絞り出されて鼓膜を揺らした。
枕の感触。布団の感触。シーツの感触。しんとした部屋の空気。
横になったまま震える息をつく。
耳の奥で心臓がどきどき音をさせている。
息が苦しい。息がうまくできないような感覚。
怖くなって起き上がる。喉と胸の間がどくんどくんと暴れている。
進路指導室で、駆けつけた小林先生が斉藤さんに言っていた言葉を思い出す。
大丈夫よ。ゆっくり息を吐いて…ゆっくり…。はい、今度はゆっくり吸って…。…大丈夫…大丈夫…
大きく息をつく。
大丈夫。ちゃんと息はできる。私はちゃんと呼吸している。落ち着いて。
ぼんやりと薄明るい部屋を見回す。スツールや椅子のシルエット。
ナイトスタンドの上の、小さなボールのような目覚まし時計に触れると、淡い卵色の光の中に、時刻がぽうっと浮かび上がる。02:10。
パジャマが汗でじっとり身体に張りついていて気持ちが悪い。着替えなきゃ。
目覚まし時計の隣の明かりをつけて、そっとベッドから降りた。まだ少し呼吸が引っかかるような感じがする。部屋はひんやりしていて、汗に濡れた身体が冷えてくる。
そっとクローゼットを開けて、引き出しからお気に入りのラブラドール模様のパジャマを引っぱり出して着替える。くっきりした赤にイエローラブがいっぱい。これを着ると、りんが一緒にいてくれるような気がする。傷んで着られなくなってしまうと悲しいので、時々しか着ない。特別なパジャマだ。
足音を忍ばせて急いでベッドの温もりの中に戻る。足先が冷たい。身体を丸める。
なんて嫌な夢。
頭のあちこちの隅に、まださっきの恐怖感がこびりついている。明かりを消してしまいたくなくて、そのまま目を閉じた。
楽しいことを考えよう。幸せなこと。
すぐに竹山君の笑顔が浮かぶ。
いつも斜め上からふわりと降ってくる優しい微笑み。綺麗な横顔。つないだ手の温もり。絡まった長い指。
「羨ましいな。大きな手」
『歓喜の白路』からの帰り際、ドアの前でつないでいた手を離した時、照れ隠しにそんなことを言ってみた。
「ピアノ弾かないなんてもったいない」
「そんなに違う?大きさ」
竹山君が左手を広げて掲げる。玲は右手を広げて合わせる。
竹山君が微笑む。
「ほんとだ、結構違うね」
思い出すだけで、心も身体も魂もふんわりする。竹山君の掌の記憶の残る右手をそっと頬に当ててみる。
竹山君の存在は明かりのようだ、とふと思う。
明かりのあるところは、暗闇じゃない。
明かりがあるだけで、そこは暗闇じゃなくなる。怖くなくなる。
明かりがあれば、怖くない。
「竹山君」
口の中で小さくつぶやくと、なんだか魔法の言葉のような気がした。怖いものから守ってくれる魔法の言葉。
竹山君がいてくれるから、怖くない。
竹山君は今頃あの部屋で眠っているはずだ。
どんな夢を見てるのかな…。
夢の中で会いたいな…。
学校がなんだか騒然としている。
朝礼があるらしく、廊下に並ばされる。
香澄が泣いている。他にも泣いている女の子たちが何人かいる。河野君が、制服の袖で顔を隠しておいおい泣いていた。
体育館に入ると、壇上はまるで『歓喜の白路』のように白いりんごの花で埋め尽くされていて、竹山君の大きな遺影がこちらを見て柔らかく微笑んでいる。
献花をする生徒たちの長い長い列の後ろに玲もつく。悲しくて悲しくて悲しくて、信じられない。どうして死んじゃったの。死なないでって言ったのに。約束したのに。
近くに並んでいた図書委員の萩谷君が、一緒にいる友達と、明るい声でおしゃべりしているのが聞こえる。
「ねえねえ、竹山先輩って、なんで死んじゃったの?」
泣き腫らした顔の香澄が大声で叫ぶ。
「玲ちゃんのせいに決まってるでしょ!玲ちゃんのせいで、竹山君は死んじゃったのよ!」
里奈がため息をついて首を振る。
「まあ、竹山君は玲のこと好きだったからねえ。仕方ないよ」
壇上に上がる手前に、会議用テーブルがあって、前川先生と加藤先生が座っている。テーブルの上にはガラガラ回す福引抽選器があって、ここで白い玉が出ないと壇上には上がれない。香澄は白い玉。里奈は赤い玉。玲は青い玉。
「残念だけど」
加藤先生が、ラベンダー色のハンカチで涙を拭きながら玲に首を振る。
「でも、竹山君の好きな色はブルーなんですよ!」
玲は青い玉を握りしめて必死に抗議する。
「竹山君にこれを渡さなきゃ!」
涙が出る。どうしてわかってくれないんだろう。
「これをあげないと、竹山君は戻って来られないんです!竹山君のお兄さんが、youtubeに上げる動画を撮影をするから、竹山君はそれに間に合うように戻って来なきゃいけないのに」
泣きながら竹山君の遺影を振り仰ぐ。
もう会えない。
なんで死んじゃったの。
こんなのやだ。戻ってきて。戻ってきて。
目が覚めてからも、夢だったと気づくのにしばらく時間がかかった。胸が痛くて震えが止まらない。ベッドの中でぎゅうっと体を丸める。パジャマの袖に涙で濡れた顔を押しつけながら、必死に自分に言い聞かせる。
大丈夫。今のは夢。竹山君は死んだりしてない。ちゃんと生きてて、明日また会える。
目覚まし時計を見る。03:00。こんなことは初めてだ。こんな時間に、立て続けにこんな嫌な夢を見てしまうなんて。
怖くてもう眠りたくない。でも、明日も学校がある。できれば眠った方がいいに決まっている。
「そうだ」
ナイトスタンドの引き出しを開けて中を見る。
「…あった」
『地下室からの不思議な旅』を引っ張り出す。
大丈夫。これを読めば、きっともう嫌な夢は見ない。
寝転んだまま、大好きな表紙の絵をしばらく眺める。だんだん気持ちが落ち着いてくる。
すごいな、タケカワこうさん。こんなふうに絵が描けたら楽しいだろうな。
小学生の頃、物語の色々な場面を想像して絵を描くのに凝った時期があった。でも『地下室からの不思議な旅』と『霧のむこうの不思議な町』の絵は一枚も描かなかった。既に素晴らしい挿絵がついているのだから、描く気にならなかったのだ。
挿絵というのは、ついていなければいいのにと思うくらいひどいものの時もある。
表紙の絵は大抵カラーなのでなお悪い。
例えば、一度、『小公女』の表紙で、セーラの髪の色が黄色になっているものを見て大憤慨したことがある。
これを描いた人は、物語を読まずに描いたの?セーラが黒い髪をしていることははっきり書いてあるのに!こんなのセーラじゃない。
そうかと思うと、なんと赤毛のアンの髪が金髪に描かれていたこともある。お母さんと本屋で見つけて、「アンが喜ぶよね」と皮肉まじりに話したものだ。
お母さんに下手の横好きと言われるまでは、将来挿絵画家になるのが玲の夢だった。物語を読んで、その世界を想像して、それを絵に描く。素敵な仕事だな、そんなことができる人になりたいな、と思っていたのだ。
お母さんに下手と言われるようでは、とても画家になんてなれないに決まっていると思って一度は諦めたけれど、竹山君が褒めてくれたことでその気持ちが少し変わってきていた。
もしかしたらなれるかもしれない、諦めなくてもいいかもしれない、と思えるようになっていた。
どうやったらなれるのかな。やっぱり美術大学とかに行くのかな。今度ちゃんと調べてみなくちゃ。
本を開く。しずく切りの儀式のところから読み始めた。すぐに物語の中に引き込まれる。
普段なら、物語の中にいる間は、現実世界は存在しない。心地よい、物語の中の空気を、美しい世界を、心ゆくまで楽しむだけだ。でも今夜は、本の中にいるにもかかわらず、現実世界のことが頭から離れなかった。
アカネたちと馬車の旅を楽しみながら、玲はぼんやりと考えた。
物語の世界と現実の世界の違いってどんなことだろう。
物語の中にだって悪者は登場する。陰謀や裏切りや殺人もある。脅迫も。いじめも。セクハラが出てくる物語は読んだことがないけれど、きっとそういう本もあるだろう。戦争の本だって山ほどある。人種差別の本だって。きっと、現実の世界にあるもので物語の世界に存在しないものなんて、ないんじゃないかな。
じゃあ、物語の世界にあるもので現実の世界にないものは?
魔法。妖精。小人…。
数えあげ始めて、玲はふと考えた。
もしかしたら、私が知らないだけで、魔法だって現実の世界にあるのかもしれない。妖精だって小人だっているのかもしれない。サンタクロースは絶対にいるし。
私は現実の世界の隅々まで知っているわけじゃないんだから、何がない、なんて言い切れない。
それじゃ、物語の世界と現実の世界の違いって?
進路指導室で、斉藤さんの話を聞いていた時に考えたことを思い出す。
——これが物語なら、本を閉じてしまえるのに。
現実はそうはいかない。現実を閉じてしまうわけにはいかない。逃げられない。そこが物語の世界と違う。
現実逃避という言葉はあるけれど、本当に逃避できるわけではない。気を紛らせることはできるけれど、考えないようにすることもできるけれど、忘れられるわけではない。なかったことにもできない。逃げられない。
——逃げられると思うなよー。
物語の中にいるのに、二谷先生の声が聞こえたような気がして思わず身を縮めた。
お母さんは安心しなさいと言った。指一本触れさせないからと。でも私と四六時中一緒にいて守ってくれるわけじゃない。
二谷先生がクビになったら…。クビになったのは私が学校側に何か言ったからだと、先生にはきっとわかるだろうし、一緒に美術準備室に行ってもらったんだから、竹山君だって恨まれてしまうに違いない。
クビになって仕事のない先生には、暇な時間がいっぱいあるんじゃないだろうか。学校の帰り道に待ち伏せされてナイフか何かで襲われたら?竹山君も私も刺されたら?
家で待ち伏せされるということもある。
昔そういう事件があった。ストーカーが、昔つきあっていた女の子の家に忍び込んで、クローゼットの中に隠れていた。その女の子が帰ってきたところに襲いかかって、道路まで逃げた女の子を追いかけて刺して殺したのだ。
二谷先生が竹山君の家や私の家に忍び込んで、待ち伏せしていたら?
斉藤さんが話していたことを次々に思い出す。前川先生は、できるだけ考えないようにと言ったけれど、色々な場面が——もちろん想像ではあるけれど——頭の中に次々と浮かんでくるのを止めることはできなかった。そして、美術準備室での会見のあった金曜日の夜に、二谷先生が斉藤さんに言ったという言葉。
だめ。考えちゃだめ。
心の手綱をぎゅうっと引いて、物語に集中する。アカネ達との馬車の旅に戻る。
ぼたん雪の国から木の芽時の国へ。やわらかな緑色。春の香り。ダブった地所についての取り決め。
みんなの会話を聞いていると、うふふと笑ってしまう。いいなあ。ヒポクラテスもチイおばさんもアカネもピポも、みんな大好き。
本の中に本当に入って何回も会ううちに、こっちの存在に気づいてくれるようになると竹山君が言っていた。いつかみんなと話せるようになれるといいな。「ちょっと妙な感じのコミュニケーション」と竹山君は言っていたけれど…どんなふうなんだろう。友達みたいになれるのかな。
二色の城の中に入る。城といっても、白い岩山の中が洞窟になっている場所で、床にはクローバーを編んだ綺麗な緑色の絨毯が敷いてある。あちこちにある窓は、岩山に空いている穴で、ガラスなどは入っていない。壁が白いからだろうか、城の中は心地よく明るい。
窓の一つから顔を出してみる。この窓からは一面に広がるタンポポの原が見える。心地いいそよ風に思わず目を閉じると、閉じた瞼に温かな春の日差しが当たる。ああ、いい気持ち…。
安心のため息がもれる。
ここにいれば安全。ここにいれば大丈夫。嫌なことは起こらない。二谷先生みたいな悪い人は、本の中になんて入ってこられないに決まっているし、この物語には悪い人はいないもの。カマドウマだって、そりゃちょっと悪役みたいに見えるところもあるけど、全然悪い人じゃないよね。友達になりたいくらい。
しばらくそうしていて、ふと気がついた。
あれ?
ごつごつした白い壁のひんやりした手触り。素足の下の美しい緑の敷物の、やわらかだけれど少し筋張った肌触り。あたりに満ちている清々しい草花の混ざった香り。少し肌寒い。
しまった。
慌てて辺りを見回す。上の方から声がし、やがてしんと静かになった。アカネ達が向こうの世界に帰ったのだろう。
普通に本を読んでいる時には、こういうことは起こらない。登場人物達と——または物語の進行と——離れてしまうことはない。
気づかないうちに、本当に本の中に入ってしまったのだ。
ドアは?
ない。
…あるはずがない。
玲は呆然としながら考えた。
ベッドに横になって読んでいたのだ。腹這いになっていたならまだしも、横向きに寝転んで。本は閉じてしまっているに決まっている。
——僕がちゃんと迎えにくるから。
記憶の中で竹山君の声が聞こえた。
——だからいつもノートにちゃんと行き先を書いておいて。
どうしよう。行き先、書かないで来ちゃったよ、竹山君。
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