第16話

Chap.16


 「竹山君の好きな色ってなに?」

 花紫の夕闇の迫る中、アンとマシュウを乗せた馬車を見送りつつ、白い花びらがちらりちらりと舞い降りてくる『歓喜の白路』——英語ではthe White Way of Delightとなっていた——をゆっくりと歩きながら訊いてみた。

「ブルー」

 竹山君が即答する。

「大宮さんは?」

「私もブルー」

 隣を歩く竹山君を見上げる。ふんわりとぼかしたような淡いグレイのセーターが、とてもよく似合っている。

「グリーンが好きなのかと思った」

 竹山君が笑う。

「部屋の色?」

「そう。それと傘も」

「うちではブルーは兄貴の色なんだ。兄貴がブルーで僕がグリーン。小さい時からなぜかそう決まってて。別に強制されたわけじゃないし、ブルーがいいって訴えて却下されたわけでもないけど、ずっとそれできてるから、そのまま。グリーンも嫌いじゃないしね。それに……母がそう決めたのかもなって思うと、なんとなく…変えたくなくて。でも本当はブルーが好きかな」

「そうなんだ…」

 なんだかじんとした。

 ショパンが好きだった竹山君のお母さん。どんな人だったのかな…。ドライアドのようにすらりとして柔らかな、理知的な瞳の人が心に浮かぶ。

「誕生日は?」

「三月二日」

 びっくり。

「私も三月!三月…」

「三月七日」

 二度びっくりする。

「どうして知ってるの?」

「さあ」

 竹山君が澄まして言って、玲は頬を染めた。

 いつから知ってたのかな。

「じゃあね…好きな音楽は?」

 竹山君が笑う。

「質問タイム?」

「だって、竹山君のこと、そういえば色々知らないこと多いなって思って」

「そういえばそうだね。お互いにね」

 目を合わせてにこりとする。

 今ピーターが妖精の粉を振りかけてくれたら、りんごの木の梢よりも高く身体が浮かび上がってしまいそうだ。

 誰かを好きっていう気持ちって、エネルギーに溢れている。

「音楽は、そうだな…、一番よく聴くのは多分Oasisかな。最近はThe1975も。あとはビートルズとか。それから兄貴の影響でStone Temple Pilots。父の影響で氷室京介。母の影響でショパン」

 玲は目を丸くした。

「あ、驚いてる」

 竹山君が笑う。

「うん…、氷室京介っていうのがびっくり。うちのお父さんも好きだから」

 今度は竹山君が目を丸くした。

「へえ、なんだか…意外だなあ。クラシックとか好きそうな感じだけど、大宮さんのお父さんて」

「ううん。クラシックはお母さん。お父さんはね、氷室京介とか、あと、氷室京介が昔いたバンド…ボーイズ・なんとか?」

「BOOWY」

「そうそれ。あとは…そうそう、Green Dayとか、The Offspringとか」

「ほんとに意外…。うちの父と似た感じだな。話が合うかもね」

 玲はふと考えた。

 うちのお父さんと竹山君のお父さんが会うってどんな時だろう。

 両家の初顔合わせ。婚約パーティとか、そういうのかな。婚約パーティ…着物じゃなくてドレスがいいな。どんなの着よう。竹山君もブルーが好きだから、やわらかい水色のシフォンのドレスとか…

「大宮さんは?」

「えっ」 

 大慌てで桜色の綿菓子のような空想から戻ってくる。

「えーとね、よく聴くのはTaylor Swiftとか、Haimとか。ビートルズも好き。Gilbert O'Sullivanも。あと、クラシックではショパンとモーツァルトが一番好き」

「邦楽は聞かないんだ」

「あんまり聞かない。嫌いなわけじゃないんだけど、日本語の歌だと聞きながら勉強できないから、あんまり聴く時間がないっていうか」

「同じ!」

 二人で頷き合う。

「気が散っちゃうんだよね。日本語だと」

「そうそう。でもそれね、前に保田先生に言ったら、英語が上達すると、英語の歌でも気が散るようになるわよって言われた」

「ああ、それ少しわかるな。英語で本を読んでる時は、英語の歌詞がちょっと邪魔に感じるもの」

 むむっ。

「あ、今悔しいって思った?」

「…思ってないもん」

「気のせいかな。何かビシッと痛い視線が飛んできたような」

「そんなことないもん。失礼しちゃう」

 頬のあたりを痛そうに抑えてみせる竹山君の、茶目っ気たっぷりの顔がおかしくて嬉しくて、笑いがこみ上げる。

 大好き。

 その時、竹山君がすっと左の手を差し出した。どきっとしたのに自分で気がつく前に、玲の右手が吸い寄せられるように自然に竹山君の手に触れる。指が絡まる。

 胸が痛くなるくらい、大好きだと思った。


 白い花のトンネルを恋人つなぎをしたまま歩きながら、質問タイムは続いた。好きな食べ物。嫌いな食べ物。好きな映画。好きな画家。行きたい国。

「じゃあ次の質問。竹山君の苦手なものは?」

「えー…と…」

 言い淀む竹山君。その顔を見上げる玲。竹山君の綺麗な顔が、心なしかちょっと引きつっている。

「…ある種の…生き物」

「生き物?…虫?」

 竹山君が驚いたように苦笑する。

「あたり。なんでわかったの」

「私も虫苦手だから。虫全部だめ?」

「いや、ある種の虫だけ」

 竹山君の苦手そうな虫というと…

「…もしかしてゴのつくアレ?」

 竹山君、前を向いたまま苦渋の表情で頷く。

「そうか…アレか…」

 玲がつぶやくと、 

「アレは絶対に、絶対にだめなんだ。絶対に」

 ものすごく真剣な顔をして竹山君は言った。つないでいる手に力が入る。

「絶対にだめだからね」

 玲に向かって、宣言するようにきっぱり言う。

「?」

「ジョークのつもりで、アレのおもちゃとかそういうの僕のところに持ってきたら、絶対だめだから」

 心外だ。

「そんなことしないよ。私だってアレ大嫌いだもの。アレのおもちゃなんて触りたくない」

 想像してしまって思わず身震いして言うと、竹山君がほっとしたように笑った。

「そうか、そうだよね」

 もちろん訊いてみたくなる。

「誰かにされたの?それ」

「…兄貴に」

 竹山君が憮然としてため息をつく。

「五年生の時。日曜日の朝、顔の上を何かが動いてる感じがして目が覚めて、そうしたら目の前、枕の上にアレが」

「いやあん」

 想像しただけで鳥肌が立つ。二人揃って身体をよじる。

「もちろんおもちゃだけど、すごいよくできたおもちゃで、絶対本物にしか見えなかったんだ。誰が見たって本物にしか見えないに決まってる」

 竹山君が力説する。

「それでどうしたの?」

「…頭のてっぺんから悲鳴が出た」

 悪いと思いながらも、吹き出して爆笑してしまった。

「止められなかったんだ。気づいたら叫んでて」

 竹山君は顔を赤らめてため息をついた。

「夏の初めで、あちこちの窓がちょっと開けてあったりしたから、近所にもしっかり聞こえて、電話が何本かかかってきた。『奥さん大丈夫ですか?!』って」

「奥さん…?」

「甲高い悲鳴だったから、母と間違えられた」

 笑いすぎて涙が出てしまった。

「…お兄さん、なんでそんなことしたの」

 涙を拭きながら言うと、竹山君がまたため息をついた。

「もちろん、動画のためだよ」

「撮ったの?」

「そう」

「youtube?」

「いや。両親が止めてくれた」

 まあそれはそうだろう。

「お兄さんだって、本当にネットに上げようなんて思ってなかったよね、きっと」

「いや、兄貴だったらやるよ」

 竹山君、いやにきっぱり言う。

「その動画、まだあるの?」

「…多分」

「見たあい」

「絶対だめ」

「今度お兄さんに会ったら頼んでみるもん。見せてくださいって」

「絶対に見せないように言っとく」

 二人でくすくす笑う。

「大宮さんは?苦手なもの」

「虫もすごく苦手なんだけど…虫全部、蝶もね。でもね、もっと苦手なものがあるの。苦手っていうか、怖いの」

 竹山君が真顔になる。

「何?」

「…猿」

 竹山君がぷっと吹き出した。

「なんで笑うの!」

 赤くなって口を尖らせる。

「ごめん。思わず想像しちゃって。猿に食べ物をねだられて固まってるところ」

 玲は目を見張った。

「あたり。まさにそれ。それで怖くなったの」

「そうなんだ」

「小学一年生の時」

 竹山君の顔から笑いが消えて、同情するように玲を見る。

「そんな小さい時か…。それは怖かっただろうね」

「うん。しかも一匹じゃなくて、何匹かに囲まれたみたいになっちゃって。お母さんは咲を抱っこしてて、お父さんが私の写真を撮ってて、でも私が泣き出したから慌てて助けてくれたんだけど」

 今でもあの時の恐怖をまざまざと思い出すことができる。

 話の通じない相手にじっと見つめられて、じりじりと寄ってこられて、囲まれる。こちらを凝視する、見開かれたガラス玉のような目。

「猿って、犬よりも人間に近いはずなのに…。犬のことは怖いって思ったことないし、言葉が通じるような気がするのに、猿はなに言っても絶対にわかってくれないような感じがして、すごく怖かった」

 竹山君が微かに身震いした。

「…不思議だな。僕はそういう経験全然したことがないのに、大宮さんが話すのを聞いてると、小さい時の大宮さんが見たものが見えるみたいな感じがする。怖いね、猿」

 玲はそっと微笑んだ。それは竹山君がうんと優しい人だからなんだろうな。そういうの、エンパシーっていうんだっけ。

「それじゃ、小さい時、ジョージとかだめだったんじゃない?」

「ううん、ジョージは絵が可愛いから平気だった。目が猿みたいじゃないでしょ」

「目か…。なるほどね」

「でも例えば『はてしない物語』に出てくる猿はちょっと怖かった。想像しちゃうから」

「ああ、元帝王たちの都だね」

「そう。そういえば、ゴのつくアレは本に出てきたりしないよね」

「いや、昔の名前で出てくるよたまに」

「昔の?……ああ!油…」

「言わないでっ」

 竹山君が真剣な顔で叫んだので、玲はびくっとした。

「ご、ごめん…」

「僕こそごめん…。つい…」

 竹山君が赤くなって謝る。 

 本当に大嫌いなんだ。気をつけよう。

 心の中で微笑んで、つないでいる手にそっと力を込める。

 私だってゴのつくアレは結構苦手だけど、でもアレが襲ってきたりしたら絶対竹山君を守ってあげる。

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