第15話

Chap.15


 今日は時間も少し遅いので、一緒に本の中に行くのは夜だけにすることにした。

「どこに行こうか」

 玲は、今朝、朝礼の後で考えたことをぱっと思い出した。

「あっ、あのね、あそこ!『歓喜の白路』は?」

 竹山君が目を細めて頷く。

「いいね!そういえばまだ行ったことなかったな」

「じゃ、いつもと同じ時間?」

「そうしよう」

 からかうように玲を見て、

「その前にちゃんと勉強すませなきゃね」

「もちろんちゃんとすませます」

「X会、もう出した?」

 玲はうふふと笑ってみせた。待ってましたという気持ちになる。

「昨日やりました。今日お母さんが出してくれてるはず」

 すまして言うと、竹山君は楽しそうに笑った。

「先越されたな。僕は今日やる予定」

「テキストもね、昨日ちゃんとやってみたの。今までやらなかったのも掘り出してやってみるつもり」

「掘り出して?」

「うん…封も切らないで、深い引き出しの中にたまってるから」

「それさ、じゃあ今までは、特に何も勉強やってなかったってこと?」

「んー、一応問題集ちょっとやったりはしてたけど」

「それであれくらいの成績を維持してたのか。すごいね」

 変な感心のされ方をしてしまった。

「その大宮さんがX会を真面目にやり出したら…まずいな」

 竹山君が舌打ちしてみせる。

「アンとギルバートみたいに、学年トップを争う?」

 ないない、と思いながら言ってみる。

「いいね、それ」 

 にやりとする竹山君。

「負けないよ」

 こっちだって、と言いたくても言えなくて、ため息をついてしまう。

「英語と国語だけならなあ」

「数学と理社も上げて、一緒に雲居くもいに行こう」

 雲居くもい高校。公立トップ校。

「ええー…」

 思わず情けない声が出る。

「北か緑野みどりのにしない?」

 二番手と三番手の高校を挙げてみる。竹山君が笑う。

「だめ。雲居」

「だって、それ…。竹山君だけ受かって、私が落ちたらどうするの?」

「だめだよ落ちちゃ。一緒に行くんだから」

 ここで、「僕が落ちて大宮さんが受かるかもしれないよ」なんて、間違っても言わないところが竹山君らしい。

 やっぱりホームズさんだ。素敵。

「頑張ってみるけど」

 一緒にいたいもん。

「大宮さんなら大丈夫。まだ十分時間あるしね」

「そうだね。頑張る」

 昨日は、教科書を本のように読む、というのにも挑戦してみた。まだなんだかしっくりこないけれど、なんとなく、竹山君の言っていた意味がわかるような気がした。

 教科書の中に入り込むくらいのintentionで。本を読む時くらいの集中力で。

 今日もやってみるつもりだ。継続は力なり。

 だんだん夜の色が濃くなってくる住宅街を、二人並んでゆっくり歩いていく。西の空は、夕焼けの名残りの華やかなタペストリー。黄金色、茜色、橙色、潤珠うるみしゅ不言いわぬ色…。

「不言色って聞いたことある?」

 竹山くんに訊いてみる。

「イワヌイロ?」

「ああいう…」

 と、西の空の一隅を指差して、

「ちょっと赤味のかった黄色。クチナシの実で染めるから、口が無い、言わない、で不言実行の『不言』と『色』で不言色」

「へえ…、いいね。好きだなそういうの」

「日本の色の名前ってすごく素敵なの。ものすごくたくさんあって、なかなか覚えられないんだけど」

 竹山君が微笑む。

「西洋寄りかと思えば、和風のものも好きなんだね」

「うん。ドレスも着物も好き」

「着るの?ドレスとか着物とか」

「ドレスはまだ着る機会がないけど…『風と共に去りぬ』読んだことある?」

「いや、あれはまだ」

「私も全部はまだ読んでないの。でもね、初めの方に、スカーレットがドレスを選ぶところがあって、そこにドレスの描写が色々出てくるの。そこ読むのが好き。小学生の頃から、そこばっかり読んでる」

 どうもスカーレットに共感できないので、なかなか楽しめない物語だ。もう少し大人になったら、スカーレットの気持ちがもっとよくわかるようになるのかな…。

「着物は?」

「着物はね、お正月に着る。おばあちゃんのところにお母さんや伯母さんの昔の着物があって、それを着せてもらうの。伯母さんのところは男の子だけだし、咲はまだ小さいから、おばあちゃんは私が着物着るのが嬉しいみたい。一日に何度も着替えるの。着せ替え人形みたいに」

「そうなんだ。…見てみたいな、着物姿。写真ある?」

 しまった、喋りすぎた。赤くなる。

「あるけど、でも…。いつも『着物に着られてる』って言われるから」

 あんまり見られたくないのだ。

 竹山君がため息をつく。

「またお母さん?」

 竹山君も、だんだん大宮家の事情通になってきた。

「そう。『着物は美人じゃないとやっぱりちょっとねえ、着物に着られちゃうわねえ』って」

「美人だよ」

「ううん。美人じゃないのはわかってるからそれはいいの、別に」

 美人というのはおばあちゃんみたいな人のこと。小さい頃から、おばあちゃんの若い頃の写真をお母さんに見せられては、

「綺麗でしょう、おばあちゃん。こういうのを美人っていうの。玲ちゃんもおばあちゃんに似たらよかったのに。残念ねえ」

 と言われて育ってきたのだ。

 アルバムの中のおばあちゃんは本当にすごい美人。女優さんみたいだ。私は全然似ていない。自分の顔もそう酷くはないと思っているけれど、でも美人じゃないのはよくわかっている。

「大宮さんは美人だよ」

 竹山君がもう一度さらりと言う。

「僕は面食いだから、美人じゃなきゃ好きにならないもの」

 玲はびっくりした。

「竹山君、面食いなの?」

「そう。だから自信持っていいよ」

「でもそれって…」

 love is blind。恋は盲目。

 …いや、それを言うのはやっぱり恥ずかしいから、

「…蓼食う虫も好き好き?」

 憮然とした顔をしてみせる竹山君。

「虫?失礼な」

「じゃあ…あばたもえくぼ」

「頑固だなあ」

 竹山君がちょっと気落ちしたようにため息をつく。

「そりゃ、たかが十三歳の物知らずの僕なんかの言うことより、ちゃんとした大人のお母さんの言うことを信じたい気持ちはわかるけど…」

「えっ、ううん、そんなことない」

 慌てて言ってから笑ってしまった。

「操縦するぅ」

 自分のことを美人だなんてやっぱり思えないけど、でも竹山君がそう思ってくれるならそういうことにしちゃってもいいな。

 そう考えたら、なんだか気持ちがキラキラして楽しくなる。

 今度お母さんにまたおばあちゃんの写真を見せられて、こういうのが美人なんだ、って言われたら、私のことを美人って言ってくれる人もいるもん、って言っちゃおうかな。

 十三歳の、ささやかな反撃。

 

 「たっだいまー」

 歌うように言ってしまって、はっとなる。

 だめだめ。浮かれちゃ。お母さんに気づかれてしまう。

 お母さんの、悪気はない、しかし無神経な言葉で、幸せな気持ちを台無しにされた経験が少なからずあるため、嬉しいことや楽しいことがあると、お母さんの前では慎重になる癖がついている。

「おかえり。どうだった?」

 キッチンからお母さんが顔を覗かせる。

「え?」

「アンケートやったの?」

 途端に、ざあっと音を立てんばかりにして、学校での出来事が玲の周りに戻ってきた。

 いきなり強い風が吹いて、綺麗に散り敷いたふかふかの金色の落ち葉の絨毯を、みんな吹き飛ばしてしまったような感覚。下には濡れた黒いアスファルトがぬらぬらと光っている。

「…うん」

「みんなちゃんと書いてるようだった?」

「と思うよ」

「そう。どんなアンケートだったの?」

「簡単なの。セクハラにあったことがあるか、または目撃したことがあるか、それはどんなことか書けっていうようなの」

「ふうん…本当にずいぶん簡単だわね。でもまあ、他にやりようもないか…」

 お母さんは顎に指を当ててぶつぶつ言っている。

 幸せだった気分は木っ端微塵になって、どこかへ飛んでいってしまった。温かくてふわんふわんと踊っていた心も身体も、冷えて硬くなって動かなくなる。

「あのね、加藤先生からまた今夜電話があるから」

「あらそう…」

 軽く答えてキッチンに戻ろうとしていたお母さんが、はっとしたように玲を見やった。

「…また何かあったの」

 うん、と言おうと思ったのに、ため息だけが出た。目の前が涙でうっすらぼやける。

「何があったの」

 お母さんの声が険しくなる。

「…着替えてくる」

 もうなんだかうんざりだ。

「ちゃんと話しなさい」

「着替えてから!」

 言い捨てて、階段をバタバタ駆け上がる。

 洗面所で手を洗っていたらお母さんが階段を上ってきた。

 着替えてからって言ったのに。怒りがこみ上げる。

「玲ちゃん。ちゃんと話しなさい」

「着替えてから話すって言ってるでしょ!」

 いつもならここで喧嘩になるところだ。

「…じゃ早く着替えてらっしゃい」

 怒りを抑えたような口調でお母さんが言った。

 玲は返事をせずにお母さんの横をすり抜けて、部屋のドアを音を立てて閉めた。ドアの外からお母さんの声。

「キッチンにいるから。早く降りてらっしゃいよ」

 お母さんの足音が遠ざかっていく。ため息が出る。カーテンを閉めていない、深い藍色に沈んだ部屋の床に座り込む。

 竹山君と一緒にいた時は、あんなに嬉しくて楽しくて幸せだったのに。

 竹山君が、どんなヒロインよりも私が好きだって言ってくれたのに。

 人生で一番嬉しい日だったのに。

 どうしてまたこんな嫌な気持ちにならなきゃいけないの。

 なんだか、あの幸せな時間は遠い昔の夢だったような気がしてしまう。坂道を下りていく竹山くんを見送ったのは、ほんの二、三分前のことなのに。

 滲んできた涙を乱暴に拭う。

 まるで違う世界に連れてこられてしまったみたいだと思った。


 かぼちゃの煮物の美味しそうな匂いが漂うキッチンで、お母さんに、学校での出来事を話した。泣くまいと思ったのにやっぱりちょっと涙が出てしまって、悔しかった。

 斉藤さんは、あんな話をする時でさえ、話の途中で泣いたりしなかったのに。私って泣き虫なんだろうか。泣き虫なんて嫌だ。泣き虫、毛虫、挟んで捨てろ、っていう歌がなかったっけ。

 玲が話し終わると、お母さんは眉間にシワをよせ、ため息をついて首を振り、もう一度ため息をついて腕組みをし、椅子の背に寄りかかった。

「…警察に話す方がいいかもしれないわね」

「…警察?」

「学校側がどうするつもりか知らないけど、そんな奴をただクビにしましたーで終わりにされちゃたまらないわ。危険じゃないの、そんな奴がこの辺をうろうろしたら。何されるかわからない」

 玲はぎょっとして目を見開いた。

 何されるかわからない、って、私がってこと?

 この辺をうろうろって、二谷先生が?

 少しの沈黙の後、お母さんがためらいがちに口を開いた。

「その…斉藤さんがどんなことされたか、詳しいことを玲ちゃんも聞いたの?」

「うん」

「…どんなことされたの」

「言わないっ」

 お母さんの質問を遮るように言い放ったら、なんだかまた泣けてきた。

「私だったら…そんなこと、あちこちで…いろんな人に…話されたくないから。だから絶対言わないっ」

 ティッシュで涙を押さえながら言うと、お母さんは気を呑まれたように黙った。驚いたことに、お母さんの目にもうっすらと涙が浮かんだ。

「わかったわ」

 お母さんはテーブルの上で両手を組み合わせて、静かに息をついた。しばらく自分の両手を見つめたまま黙っていたけれど、やがて玲の目を見て言った。

「玲ちゃんを絶対にそんな目に遭わせないから。安心しなさい。大丈夫だから。そんな奴に指一本触れさせないから」

「…うん」

 また涙が出てきて、玲はもう自分がどうして泣いているのかわからなくなった。怖いのか、辛いのか、腹が立っているのか、ただ疲れているのか。もう、本当に、何もわからない。

 かちゃんと門が開く音がして、自転車の入ってくる音がした。咲がピアノのレッスンから帰ってきたのだ。玲は、慌てて新たに溢れ出てきた涙を拭いて、鼻をかんだ。咲には見られないほうがいいような気がした。立ち上がる。

「あのね、加藤先生に私がこんなに泣いたって言わないで。先生、すごく落ち込んで参ってるみたいだから。斉藤さん、去年も先生のクラスだったの。だから…」

 お母さんは黙って頷いた。


 夕食の後、部屋で勉強していると、遠慮がちなノックの音がした。

「玲、ちょっといいかな」

「はーい。どうぞ」

 お父さんがこんなふうに部屋に来るなんて珍しい。

 考え込んだような顔で部屋に入ってきたお父さんは、元はお母さんのだった小さいドレッサーの前のスツールに前屈みに座ってため息をついてから、はっとしたように、

「あ、勉強してたの。悪かったね」

「ううん」

「…お母さんから、聞いたよ」

「…うん」

「先生に、脅されたんだって」

「うん、まあ」

 お父さんが眉根を寄せて大きなため息をつく。

 お父さんが相手だと、ついこっちが慰めたくなってしまう。

「でもね、大丈夫。あんなひどいことしてるんだもの、きっとすぐに学校辞めさせられるよ」

「それはまあそうかもしれないけど、でもね…」

 お父さんはまたため息をついてから、思い切ったように、

「竹山君とは付き合ってないの」

 どうしてそんな話になるのだ。不意をつかれて慌てる。

「そんな、うーん、ていうか、なんでそんなこと訊くの?」

「いや…もし付き合ってるとかそういうことなら、学校でも、下校の時も、一緒にいてもらえるから安全かなと思って」

 そういうことか…。幸せな記憶が甦って思わず微笑む。

「今日もうちまで送ってくれたし、ちゃんと一緒にいてくれるから大丈夫」

 言ってからものすごく恥ずかしくなって、慌ててつけ加える。

「それにほら、朝はいつも里奈と行くし、学校でも里奈が一緒にいてくれるし」

「…そう」

 わかっちゃったかな。

 お父さんの顔を観察する。

 微笑みの影すら浮かんでいない。

「そう…」

 気がかりそうな表情のままもう一度言って頷くと、

「英語も、竹山君と一緒に行って帰るんだよね?」

「うん」

「他に出かけるところは。ピアノは?」

「そんな…どこにでも竹山君についてきてもらうってわけにはいかないよ」

「それはそうだけど」

 お父さんはまた心配そうにため息をついた。

 玲は想像してみた。

 もし自分が父親で、娘がいて、その子が学校の先生にセクハラされた挙句、「逃げられると思うなよ」なんて言われたら。

 確かにものすごく心配だ。どこにでもついていって守りたくなる。でも仕事があっていつも一緒にはいられない。守れない。心配でたまらない。どうしたらいいかな…。

「そうだ、あのね、防犯ブザーとか、ペッパースプレーとか、ああいうのをいつも持ち歩くようにすればいいかも」

 お父さんの表情が動く。

「持ってるの?そういうの」

「ううん」

「じゃすぐ買わないと」

 急いで立ち上がって、

「ピアノはいつだっけ」

「水曜日」

「そう、じゃあ間に合うね。よかった。ちょっとネットで見てみるよ」

 頷きながら足早に部屋を出ていった。

 ありがたいけど、でも心配かけて申し訳ないなあとため息が出る。

 お父さん、ありがとう。ごめんね。…でも私が悪いんじゃないんだけど。

 ふと思った。

 私も悪いのかな。

 先生にターゲットにされたのには、何か理由があるんじゃないだろうか。

 隙があったから?

 触られても、やめてくださいって言わなかったから?

 でも他の女の子たちだって、触られても何も言わないのに。

 そこへ、お父さんと入れ違いにお母さんがやってきた。

「玲ちゃん、お風呂に入りなさい」

「はあい」

「お父さん、どうしたの」

「うん、防犯ブザーとかペッパースプレーとか、ネットで調べてみるって」

 心配性なんだからと笑うかと思いきや、お母さんは真面目な顔で頷いた。

「そうね。そういうのを持ってる方がいいわね」

 なんだか怖くなる。

「…二谷先生が私のこと待ち伏せたり、襲ったりすると思う?」

「そんな心配しなくていいの。でもね、備えあれば憂いなしって言うでしょ。こんな世の中だもの、家族全員持ってる方がいいかも」

「お父さんも?」

 茶化した玲に向かって、お母さんが眉を上げる。

「最近はね、男の人だけを狙ってデートレイプドラッグ盛ってレイプしたりする人もいるのよ。イギリスで190人の男の人をレイプした男だっていたんだから。男だからって油断はできないの。お風呂早く入ってね」

 驚きのあまり声も出ない玲を置いて、お母さんのスリッパの音がパタパタ遠ざかっていく。

「……はあい」

 遅すぎる返事をしてから、竹山君が言った言葉を思い出して頭の中でつぶやいた。

 なんて世の中だろうね。

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