Epilogue
「それ、持とうか」
廊下を歩きながら、玲が下げている大きな黒い紙の手提げ袋を見て竹山君が言った。
「ううん、大丈夫」
「そう?なんだか重そうだけど」
「平気平気」
言いたくて口がむずむずするのを懸命に抑えて答えたけれど、笑みは抑えることができなかった。
「…なに笑ってるの」
「えへへー。まだ内緒」
紙袋を意味ありげに揺らす。それだけで、秘密を半分くらい暴露してしまったも同然だ。竹山君が楽しそうに玲を見る。
「いつ教えてくれるの」
「竹山君のお部屋に着いたら」
今日は水曜日で六時間目がない。部活もないし、もうピアノのレッスンもないので、毎週水曜日は竹山君の家に寄って、二人一緒に勉強する。
竹山君がくすくす笑う。
「絶対その前に言っちゃうよね」
「言わないもん。ね、他のこと話そう」
「いいよ。そうだなあ、期末の結果とか?」
途端に、にこにこ顔から一転、むっとした顔になった玲を見て、竹山君が吹き出す。
「百面相」
「すっごく悔しい」
「でも、総合、むちゃくちゃ上がったじゃない。すごいよ」
「それは嬉しいけど。でも英語で負けたなんて信じられない」
「たった一点だよ」
「一点でも負けは負けだもん。悔しい」
「僕も国語は悔しかったな」
「一教科だけじゃない。あとはぜーんぶ竹山君の勝ち」
ちょうど昇降口の近くの大きな掲示板まで来た。今朝から期末試験の順位が貼ってある。休み時間に一度見たけれど、立ち止まってもう一度眺める。
各学年の五教科総合は大きい紙に、科目別はそれよりも小さい紙に、それぞれ五十位までが点数とともに印刷されている。
二年生の五教科総合、光り輝く一位はもちろん竹山海斗。四位に大宮玲。そのすぐ下に貼ってある英語の順位表のトップも竹山海斗。100点。そのすぐ下に大宮玲。99点。
「ほんっと悔しい」
口を尖らせて言いながらも、実は嬉しい気持ちもかなり大きい。総合で十位以内に入れたのは初めてだ。
「すごい勢いで上げてきたよね。うかうかしてられないな」
竹山君がにこりとして玲を見る。
「さすがだよ」
「竹山君のアドバイスのおかげ。ライバルに塩送っちゃって後悔してる?」
「してないよ。これなら一緒に雲居に行ける。嬉しいよ」
「引き続き頑張ります」
ずっと一緒にいたいもん。
「大宮さんこそ、保田先生をライバルに紹介しちゃって、後悔してる?」
「ううん。一緒に授業受けられて嬉しいし」
「ならよかった」
「次は負けないもん」
「次は全教科で勝つからね」
さらりと言って歩き出す竹山君。
むむう、と思いながらも、「それはこっちのセリフ!」とは残念ながらまだちょっと言えない気分の玲であった。
「訊こうと思ってたんだけど、」
竹山君が玲を見る。
「英語のマイナス1点はなんだったの」
「字」
無念さと恥ずかしさで、玲はぶっきらぼうに呟いた。
「ジ?」
「dをちょっと筆記体風に書いて雑になっちゃったところが一箇所あって…。cとlに見えるって。それでマイナス1点」
竹山君、うーんと唸る。
「なるほどね…そういうこともあるわけか。気をつけないとね。大宮さん、急いでる時に字がちょっと雑…いや、個性的な感じになるから」
個性的だって。赤くなって首を縮める。竹山君はほんとに優しい。
「雑なの。わかってる。気をつけないとって思ってるんだけど…。普段からちゃんと書くようにしないとだめよね」
入試でこんなことで減点されて落ちたら、取り返しがつかない。これからはきちんとした字を書くように心がけよう。
靴を履き替えている時、竹山君が床に置かれた黒い紙袋を持ち上げてみて、驚いた顔をした。
「ほんとに重いね。手、大丈夫?」
「大丈夫」
「なんなの?これ」
「これはねえ、」
うふふと笑って、
「中にはあるものが二つ入っています。一つは竹山君ので、もう一つは私のでーす」
「へえ?」
「でも実は、私も中身が何か知らないの」
「…そうなの?」
「これ以上は内緒」
竹山君がおかしそうに言う。
「『これ以上は内緒』って、中身が何か知らないんだから、内緒もなにも…」
「中身のことは知らないけど、他に知ってることがあるもん。でも今は内緒」
「了解。でも、やっぱり僕が持つよ」
竹山君が紙袋を手に取る。玲も慌てて手を伸ばす。
「いいの。重いんだから」
「だからだよ」
「大丈夫、持てるから」
「だって、一つは僕のなんでしょ」
「そうだけど、でも私が勝手に持ってきたんだし」
「じゃ、道のりの半分、そうだな、大通りの信号のところまで僕が持つから」
爽やかに言って竹山君が歩き出し、玲は慌てて追いかける。
「ありがとう」
「どういたしまして」
騎士道精神は健在だ。
外に出ると、ひゅうっと風が吹きつけた。思わず首を縮める。十二月の風。真珠色の曇り空。
「さむーい」
体育館のドアは閉まっているけれど、中から剣道部の雄叫びが聞こえる。
「剣道って、冬でも裸足でするの?」
「そうだよ」
「足冷たそう…」
「そりゃ冷たいよ」
竹山君が笑う。
そこへ、体育館の方から、黒のジャージ姿の加藤先生が、渡り廊下を小走りにやってきた。先生はバドミントン部の顧問だ。今日は剣道部とバドミントン部が体育館を半分ずつ使っているのだろう。
「さようならー」
「さようなら。気をつけて帰ってね」
笑顔で挨拶を交わす。
「加藤先生、もうすっかりいいみたいだね」
「ほんと。よかった」
先月、加藤先生は二週間ほど学校を休んだ。学校側からは、体調を崩して入院したと説明があった。詳しいことは知らされていないけれど、斉藤さんのことで色々あったのが原因だろうなと、玲は思っている。
斉藤さんのお母さんは、昨年も今年も担任だった加藤先生が、一年もの間何も気づかなかったことにひどく腹を立てていて、同じような被害に遭いかけた生徒の母親として、お母さんにも一緒に加藤先生に対する処分を求める運動をしてほしいと言ってきたのだそうだ。お母さんは丁重に断った。
「斉藤さんのお母さんの気持ちはわかるけど…、でもね、私は加藤先生が悪いとは思わないから」
斉藤さんのお母さんとの長い長い電話の後で、お母さんがそう言っていた。
斉藤さんは、あのアンケートの日のあと二日間学校を休んだけれど、木曜日からはちゃんと学校に出てきた。
その日、玲の机の中に斉藤さんからの手紙が入っていた。隅にひっそりとすずらんが型押ししてある白い便箋に、丁寧な字が並んでいた。
月曜日は本当にありがとう。
たくさん迷惑をかけてしまってごめんなさい。
三学期から、お母さんの実家のある名古屋に転校します。
(誰にも言わないでください。)
お母さんは裁判をしたいと言っているけれど、
私はこの一年のこともこの学校のことも、
早く全部忘れて楽になりたいです。
逃げるだけなのはいくじなしと思われるかもしれないけど、
早く遠くに行って、新しい人生を生きたいです。
大宮さんがいてくれたから、本当のことを話すことができました。
本当にどうもありがとう。
斉藤さんが手紙に書いたとおり、斉藤さんのお母さんは、当然すぐにでも二谷先生を訴えるつもりでいたらしいけれど、まだ実現していないようだ。証拠が何もないし——二谷先生は斉藤さんにLINEをいつも削除させていたそうだ——、何より斉藤さん自身が、弁護士だの警察だのに、二谷先生にされてきたことを話したくないと言っているのが一番の理由らしい。
二谷先生の姿は、あの月曜日に廊下ですれ違って以来一度も見かけていない。次の週からは新しい美術の先生——五十代半ばくらいの女の先生で、高坂先生という——が来て授業を受け持ち、美術部の顧問になった。玲と竹山君も美術部に戻り、学芸発表会のための絵を仕上げることができた。
隣を歩く竹山君の背にあるリュックと、玲が肩にかけているスクールバッグからは、お揃いのブルーの防犯ブザーが仲良くぶら下がっている。幸いにも、まだ使う機会はない。
「今日はどこに行くか決めた?」
並木道を歩きながら、竹山くんが訊いた。
本の中のデートは毎晩している。大抵十分から二十分くらいで、勉強中の休み時間にちょうどいい。代わりばんこに行き先を決める。今日は玲の番だ。
「ニョロニョロの島に行きたいな」
竹山君が嬉しそうに目を細める。
「いいね。僕も行ってみたいなって思ってたとこ」
玲の予想通り、竹山君はムーミンがすっかりお気に入りになった。玲から借りた全九冊を、試験前だというのにあっという間に読んでしまって、早速デートに使えるように自分も全巻を買い揃えた。
「どの場面?」
「嵐が過ぎた後の、朝の浜辺。夜明けのところじゃなくて、みんなが水浴びしてるところ」
「了解。今日は転ばないように気をつけないとね」
竹山君の口元がおかしそうに歪む。
この前ローラたちと一緒にプラム川に遊びに行った時、浅瀬で足が滑って、咄嗟に支えようとした竹山君もろとも、見事にひっくり返ってしまったのだ。そして転んだ鼻先に現れた、想像していたよりもずっと大きかったザリガニを見て、ものすごい悲鳴をあげて飛び退き、反対側にひっくり返ってしまった。竹山くんが笑ったこと!思い出すだけで顔から火が出る。
「気をつけます。あ、ねえ、あとでまたちょっとだけチョコレートケーキ食べに行こう?」
『魔法使いのチョコレートケーキ』に出てくるチョコレートケーキだ。あんなに美味しいケーキは食べたことがない。それに、きらきら光る木漏れ日の降ってくる美しい緑の森は、うっとりしてしまうほど心地いい空間だった。
「いいね!そうだ、それで思い出したんだけど、クリスマスが近くなったら『クリスマス•キャロル』に行かない?あちこち見て、味見もしようよ。多分一回じゃ足りないと思うから、何回かに分けて」
「わあ大賛成!いっつもね、読むたびに、美味しそうだなあ、行ってみたいなあって思ってたの!」
嬉しいな、と心の底から息をつく。
確かめるように、もう一度大きく息を吸って吐いてみる。
ちゃんと深呼吸ができる。
あのアンケートのあった日から四日目の金曜日、玲は、学校側の勧めでスクールカウンセラーと話をした。
真柴先生という、四十代くらいに見える理知的な目をした女の先生で、本が大好きらしく、まずは本の話ですっかり意気投合してしまった。
そのうち、自然と話題が斉藤さんのことになったので、玲は前の晩から考えて言おうと決めていたことを話した。
斉藤さんから聞いた話の内容は、プライベートなことなので、相手が誰であろうと——医者であろうとスクールカウンセラーであろうと——絶対に話すべきではないと思っていること。でも、斉藤さんの話を聞いて以来、胸の奥が重いような感じがしていて少し辛いので、それをなんとかしたいこと。そして、斉藤さんのために何か自分にできることがあれば教えて欲しいと思っていること。
真柴先生はまず、斉藤さんの話の内容を話してくれなくても全く構わないから、安心していいと言ってくれた。友達のプライバシーを守ろうという思いは尊いものだ、とも。そして、玲が斉藤さんのためにできることは、そっとしておいてあげることだと言った。
「斉藤さんとは仲良しなの?」
「いえ。今回のことがあるまでは、ほとんど話したこともありませんでした」
「そう。斉藤さんは大宮さんと仲良しになりたそうかしら?大宮さんともっと話したそうにしている?」
「…いいえ。少なくとも、表向きはそんなふうには。でも、もしかして心の中では仲良くなりたいと思っていて、それなのに私がそれを気づいてあげられなかったとしたら…申し訳ないなって」
「人が心の中で思っていることは、わかりようがないわ。魔法使いでも超能力者でもないんだから。気にかけていてあげるのはいいことだと思う。でも、気づいてあげられないと申し訳ない、なんて気負わなくてもいいんじゃないかな。『いつでも力になるから、遠慮しないで声かけてね』って伝えておくだけでいいと思うわ。もちろん、大宮さんが本当にそう思うならということだけど」
そして真柴先生は、斉藤さんの話の内容や、それに対する自分の気持ちを、物語の中の登場人物への手紙として書いてみたらどうかと提案してくれた。
紙でもパソコンでもいい、書きたいだけ書いてしまって、そのあとそれをその登場人物に送った「つもり」になってから、細かく切って捨ててもいいし、埋めてもいいし、燃やしてもいい。パソコンなら削除してしまえばいい。そうすれば現実世界の誰にも知られない。
「『王様の耳はロバの耳』っていうお話があるでしょう。あの理髪師と同じね。誰にも話せない秘密を持っていると、心にも身体にもよくないから」
そしてにこりとして、
「大宮さんのように本が大好きで想像力のある人なら、この方法できっとずっと楽になれると思うわ」
と言ってくれた。
その提案が大いに気に入った玲は、誰を選ぼうかあれこれ考えた末に、『若草物語』のマーチ夫人に手紙を書いた。クリーム色の少し古風な感じの便箋に、ガラスペンを使って黒いインクで——筆記体の英語で書ければなおよかったのだけれど、残念ながら日本語で——、覚えていること、感じたことを、余すところなく、細かいことまで、ところどころで泣きながら、書きに書いた。
書き終えた時は、今までやったどんな宿題や勉強の後とも比べものにならないほど、ぐったり疲れていたけれど、頭と胸の奥のどこか深い場所にあった、重い、詰まったような感じが嘘のように消え去っていた。
数日ぶりに、本当に身体の底の底から、深々と深呼吸ができた。「胸のつかえが取れる」とか「心の重石が取れる」とかいうのはこういうことなんだと、身をもって知った夜だった。
手紙はきちんと封筒に入れ、封筒にはちゃんと「Mrs. Margaret March」と宛名を書き、封をした。その夜はそれをお母さんに貸してもらっている『Little Women』の下に置いて寝て、眠っている間に物語の中のマーチ家に手紙が届いた「つもり」になった。そして翌朝、手紙をシュレッダーにかけた。でもここにあるのは手紙の抜け殻で、「本当の」手紙は本の中のマーチ夫人の元に届いていると、玲は信じることができた。
次の週、真柴先生ともう一度会った時、玲は先生に手紙のことを報告し、気分がずっとよくなったと話した。
「でも、なんていうか…。自分だけ大丈夫になっていいのかなって思ってしまって。斉藤さんはきっとまだすごく辛いと思うし…。私があんな経験をしたら、一体どんなことをしたら立ち直れるのか、想像もつきません。斉藤さんはちゃんと大丈夫になれるんですか?」
真柴先生は微笑んで言った。
「アスランが言ったように、私も、その人にはその人自身の話しかしないのよ。斉藤さんが大丈夫になるかどうか、それは斉藤さんの物語であって、大宮さんの物語ではないわ。大宮さんにとって大事なことは、自分が大丈夫になることであって、『自分だけ大丈夫になっていいのか』なんて考える必要はまったくないのよ」
校門を出て少し行ったところの角で、楽しそうに立ち話をしている二人の生徒がいた。里奈と松岡先輩だ。邪魔をしては悪いので、道の反対側でもあるし、里奈が気づかなければそっと通り過ぎようと思っていたけれど、里奈が気がついて手を振ったので、玲も振り返した。
「あれ、今の森崎さんだよね」
通り過ぎてから竹山君が言う。
「うん」
「もう一人は三年生だったね。部活か委員会の用事かな。あんなところで寒いのに」
ずっこけそうになる。
「付き合ってるのよ、あの二人」
竹山君が目を丸くした。
「へえ、そうなの?そういうことって本当にあるんだ」
「そういうことって?」
「先輩と後輩が付き合うっていうの」
ホームズさんと同じで、カイト•シャーロック•タケヤマ君も、興味のないことについてはあまり知らない。
「結構あるよ。ないって思ってた?」
「だって、知り合う機会があんまりないじゃない。クラスも違うし、体育も一緒にならない。委員会とか部活は一緒になるかもしれないけど、それでも学年が違うとあまり話さないし」
竹山君がどんな反応をするだろうと思いながら、
「あの二人、部活も委員会も一緒だったことないのよ。去年里奈が一目惚れして、ずっと先輩のこと好きで、この前、学芸発表会の時に告白して付き合うことになったの」
と言うと、竹山君は案の定びっくりした。
「へえ…!本当にそんなふうに人を好きになったりすることもあるんだ。相手と話したこともないのに…」
そしてふと思い出したように、
「そういえば、兄貴のことを好きだって言って、女の子がバレンタインデーにチョコレート持ってうちに来たことがあって…。兄貴が、『お前と同じ学年の女の子だ』って言ってたっけ」
玲も、竹山君のお兄さんとはもう顔見知りになっている。やっぱり背が高くて、きりりとした感じの、なかなかのイケメンだ。竹山君と違って、どちらかというと派手な雰囲気の持ち主。確かにモテそうだ。
「それでどうなったの?」
「別にどうもならないよ。兄貴だってその子のこと全然知らないって言ってたし、ホワイトデーにお返しくらいはしただろうけど。相手と話したこともなくて、どうして好きになれるんだろう」
「うーん、そうね…」
考え込んでからふと気がついて、玲はちょっと照れながら訊いてみた。
「竹山君は、いつ、どうして、私のこと好きになったの?」
「それは…」
言いさして竹山君が赤くなったので、訊いた玲も赤くなった。
「…内緒」
「えーどうして」
「いいから」
竹山君の部屋のローテーブルは今はこたつになっている。こたつ布団はやっぱり落ち着いたダークグリーン。その傍に重い紙袋をやれやれと置く。結局、半分どころか、もうすぐ家に着くというあたりまで、竹山君に持たせてしまった(おしゃべりに夢中になっていて、紙袋のことをすっかり忘れていたのだ)。
中身が見えないように紙袋の上にのせておいた黒いストールをのけて、二つの重くて四角い包みをそうっと取り出して、こたつの上に置く。
ほぼ真四角で約六十cm四方。厚さは七cmくらい。つや消しの銀色のラッピングペーパーには、きらきら光るクリスマスツリーがたくさん並んでいる。
「クリスマスプレゼント?」
「そう。ちょっと早いけど、お父さんから私たちに」
「お父さんから?」
「うん。別々のリボンとカードがついてるけど、中身は同じなんだって。だから一緒に開けたいなって思って持ってきたの」
竹山君のは瑠璃紺のリボン。玲のは天色のリボン。それぞれ小さな封筒に入ったカードがついている。
「カードが先?プレゼントが先?」
「うーん、じゃあ、カード」
それぞれクリーム色の封筒を開ける。
玲のカードは、暖炉の前でくつろいでいる小さな男の子と女の子の絵柄だった。暖炉には気持ちのよさそうな火が燃えていて、マントルピースから、いくつものクリスマスソックスがぶら下がっている。暖炉のそばには、飾りをつけたクリスマスツリー。あぐらをかいた男の子の膝には絵本がのっていて、女の子に絵本を読んであげているようだ。二人の間にはポップコーンらしきものが山盛りになったボウルが一つと、ゴブレットが二つ。女の子は男の子の読んでくれている物語を聞きながら、ポップコーンらしきものを食べている。
ぴったりのカードだ。玲は感動してしまった。
女の子の方が食いしん坊らしきところまで合っている。
お父さん、よくこんなカード見つけたなあ。すごい。
中には、短いメッセージがお父さんの丁寧な字で書いてあった。
「これからも、たくさんの素敵な冒険を!行き先を書いていくのをくれぐれも忘れないようにしてください。」
ちらりと目を上げると、竹山君も目を上げたところだった。お互いのカードに目がいく。
「あ、違う絵だ」
竹山君のは、玲のカードと同じ男の子と女の子だったけれど、一緒にソファの上に座って、開いた大きな絵本を膝にのせたまま、眠ってしまっている絵だった。少し離れたところに、玲のカードに描かれていたのと同じクリスマスツリーがあって、そして二人が座っているソファの脚元には、二匹の犬が寝そべっている。なんと一匹はゴールデンで、もう一匹はイエローラブだ。
「わあ、かわいい!りんとフレディみたい!」
「大宮さんのお父さん、すごいなあ。よく見つけたよね、こんなぴったりのカード」
竹山君が感心したように言う。
「ほんと。お父さんのこういうところがね、好きなの」
素直に口に出したらなんだか少し恥ずかしくなって、
「開けようか!」
「了解!」
シールやセロテープを剥がしながら、
「外国の映画とかで、こういう時、みんなバリバリ包み紙を破って開けるでしょう。あれ、どうしてなんだろう」
竹山君が笑う。
「僕もそう思ってた。いとも簡単に破るじゃない?包み紙がもっと薄いんだろうね」
銀色の包み紙の下から、厚手の黒い箱が現れた。二人でワクワクする目を合わせてから、それぞれのふたを取る。エアマットをのけ、その下の和紙のような紙をのけると、しっかりした木の額縁に入った絵が現れた。
少し暗めの照明に照らされた細長い部屋。壁に沿って棚があり、そこにたくさんの本が、陳列されるように、表紙を前に向けて一冊ずつ間隔をあけて並べられている。高い本棚に届くように梯子も置かれている。
空間の描き方のトリックによって、向かって左側の棚の前では人々が普通に陳列された本を見ているのに、右側の棚では本はドアになっていて、人々がドアを開けて、その中の世界へ入っていっている。
あるドアの向こうには宇宙、あるドアの向こうには海、またあるドアの向こうには森の中の小道が見える。象がいたり、空に浮かぶ気球があったり、水の中から剣の柄を握った手が出ていたり。
様々な物語の世界。
名刺くらいの大きさの小さなカードが入っていて、こう印刷されていた。
Written Worlds by Rob Gonsalves
「Written Worlds…」
二人同時につぶやく。しばし黙って絵を眺める。
「Rob Gonsalves…。知ってる?」
「ううん」
「調べてみよう」
竹山君が立ち上がって、机の上からノートパソコンを持ってくる。
玲は絵に見惚れていた。
これからもたくさんの素敵な冒険を。
胸がじいんと熱くなる。
お父さん、やるぅ。
「あった」
竹山君がディスプレイを玲にも見えるように回してくれる。
「マジックリアリズム…」
「カナダの人なんだ。あ、もう亡くなってるんだね」
Wikipediaの記事は短いものだった。
「自殺だって。何があったのかな…」
玲は絵を眺めた。こんな素敵な絵を描いてくれた人が自ら命を絶ってしまったなんて。悲しい。
「本当に、こういう感じだよね、本の表紙を開ける時って。他の世界への扉を開いて、その中に入っていく。本の数だけ扉がある」
竹山君がつぶやいて、微笑んだ。
「大宮さんのお父さん、どうやって見つけたんだろう、この絵。まるで魔法みたいだ…」
「推測するに…、多分ね、私たちがやってることを…本の中に入るっていうことをネットであれこれ調べようとしてるうちに、見つけたんじゃないかな」
玲はくすっと笑った。
難しい顔をしてパソコンの前に座り、「本の中に入る」なんてキーワードを入れて検索しているお父さんの姿が目に見えるようだ。
最近ではお父さんも、ようやく本当に本の中に入れるということがあるのだという事実に慣れてきたらしく、たまに玲にこそこそっと
「今日もどこか行くの?」
とか
「アラビアンナイトには入ったことある?」
とか訊くようになった。それどころか、
「古典の世界には入れないの?面白いと思うよ」
などと提案してくる。お父さんは大学で国文学を教えているのだ。
「色んなとこ行ったね…」
絵を見ながら幸せなため息をつくと、竹山君がにこりとする。
「これからも、まだまだもっと色んなとこに行こう」
「うん!一緒だとね、どこでも行かれる気がする。怖いとこでも」
竹山君が意外そうに玲を見る。
「怖いところで行きたいところなんてあるの」
「例えばほら、朝びらき丸に出てくる『くらやみ島』とか」
竹山君の目が丸くなる。
「ほんとに?勇気あるなあ」
えへっと首をすくめる。
「勇気っていうより、怖いもの見たさ、かな。もちろん、うんと怖くなる前に帰ってくるの。あとはイグラムールのところも行ってみたいし、『鏡の中の鏡』にも、一人じゃちょっと怖いけど行きたいところがいくつもある。あの電車とか」
「ああ!あれは僕も乗ってみたいな。多分最初から最後までいられるだろうし。ずっと同じ電車の中だからね。じゃ、明日はそこにしようか」
「賛成!あ、あとね、近いうちに『地底旅行』にも行ってみたいな。それからノーチラス号にも乗ってみたい」
たくさんたくさん、行ってみたいところがある。
竹山君と一緒に。
「でね、そのうちどこかで、誰か他の『訪問者』にばったり出くわすの」
ワクワクしながら言うと、竹山君がため息をついた。
「どうかな…。六年生の時から今まで一度もそんなことがなかったし…。『Harry Potter』の中でさえ誰にも会わなかったじゃない?あれだけ世界中で読まれてるのに」
玲はちょっと考えた。
「タイミングの問題ってこともあるよね、きっと。私たち、いつも夜の九時半に行くでしょう?あとは水曜日のこの時間にちょこっと行くことがあるくらいで。本をゆっくり読むのって大抵夜だと思うから…」
竹山くんが指をぱちんと鳴らす。
「そうか、時差のこと考えてなかったな。じゃ、今度、全然違う時間帯に行ってみようか。例えば、アメリカとかヨーロッパが夜の時とか。えーと、ニューヨークなら…」
キーボードを叩く。
「今だと冬時間で十四時間差だって。ということは、向こうの夜十時が日本の正午。ロンドンなら…九時間差。だから向こうの夜十時は日本の朝七時。できなくはないね」
「なんだかドキドキしちゃう。アメリカとかイギリスの人達と会ったら、英語で会話するのね。会話の練習しとかなきゃ」
「気が早いなあ」
竹山君が笑う。
「でももうすぐ冬休みだし、チャンスだね。午前中にも実験を兼ねて『デート』できるよ」
「嬉しい!」
ハートマークつきで言うと、竹山君が頬杖をついて笑った。
「大宮さんて、ほんとにすごく嬉しそうな顔するよね」
しみじみ見つめられて、顔が赤くなる。
「だってほんとにすごく嬉しいんだもん」
竹山君と一緒だから。
「そうだ!ちゃんとしたお礼は後でするとして、今この絵と一緒にセルフィ撮って、お父さんに送らない?」
「それいいー!」
さすが竹山君。
お父さん、感激屋さんだからきっとうるうるしちゃうだろうな。学生さんたちの前で泣いちゃったりしないといいけど。
想像してうふふと笑う。
各々絵を胸の前に抱えて、 肩を寄せ合って座る。
「ガラスが反射しちゃって絵が見えないね」
「絵の角度をもうちょっと下にしてみて。そうそう」
竹山君の長い腕の先に、スマホに映っている二人がいる。
スマホの中の自分があんまり幸せそうな顔をしていて、「こいつぅ」と言って指でつつきたくなる。
どんなに嫌なことがあっても、どんなに怖いことがあっても、竹山君と一緒にいられるなら大丈夫。
ずっとずっと一緒にいる。
スマホから目を逸らせて、すぐそばにある竹山君の顔を見上げた。目が合う。
——これからも、たくさんの素敵な冒険を。
——あなたと一緒に。
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