第13話

Chap.13


  「失礼します」

 そう言って保健室のドアを閉めた玲は、廊下に背を向けたまま、身体全体で大きく息をついた。

 身体中がぐったりと疲れていた。頭が痛い。

 今すぐベッドに横になって、丸まって、泣きたいような気持ちだった。

 階段の方へ向かってゆっくり歩き出す。三階まで行って、教室に置きっぱなしの荷物を取ってこなければいけない。ついでに斉藤さんの荷物も持ってくることになっている。

 吹奏楽部が練習しているのが聞こえる。『宝島』。大好きな曲だけれど、明るくまとわりついてくる音達に今は「そっとしておいて」と言いたくなる。保健室のベッドに横たわって、まだ少し苦しそうに震えるような呼吸をしていた斎藤さんの、目をきつく閉じた顔が頭から離れない。あの苦しそうな顔と、この明るい曲のギャップが激しすぎて、なんだか目眩がする。自分がどこにいるのだかわからないような気持ちになる。

 ふと顔を上げて息が止まりそうになった。

 向こうからのんびりした様子で歩いてくるのは、二谷先生だ。

 しかしその少し後ろを、巻いた模造紙をいくつも抱えた一年生の女の子二人が、楽しそうにおしゃべりしながら歩いてくる。

 廊下に先生と二人きりというわけではない。

 落ち着け。大丈夫。

 そう自分に言い聞かせながらも、玲は呼吸がうまくできないような感じがした。どきどきする。苦しい。怖い。

 俯いたまま歩を進める。

 先生が近づいてくる。あと数歩の距離。

 先生の顔を見ずに会釈する。

 独り言のようなのんびりとしたつぶやきが、頭の上を通り過ぎていった。

「逃げられると思うなよー」

 びくっとして、足元がもつれそうになった。

 明るいお喋りの声が近づいてくる。一年生が、二人揃ってぴょこんと会釈をする。懸命に何気ない表情を保ちながら、玲も会釈を返した。

 廊下を歩き続ける。

 どうしよう。どうしよう。

 逃げられると思うなよ?どういう意味?どうしたらいいの?

 心臓が不安で膨れ上がって破れそうだ。

 ようやく階段までたどり着いた。階段脇には大きな窓があって、廊下よりもずっと明るい。背の高い観葉植物の鉢植えと、背もたれのついた木のベンチが置いてある。そこに座って本を読んでいる人がいた。

「…竹山君…」

 力が抜けて、その場にへたり込みそうになる。泣きださないように心の手綱を思い切り引き締める。だめ、こんなところで泣いちゃ。

 竹山君が本から顔を上げ、労るように微笑む。 

「お疲れ様…」

 言いかけて微笑が消えた。さっと立ち上がる。

「どうしたの」 

「…今、そこで、二谷先生とすれ違って…。先生が、『逃げられると思うなよ』って…」

 竹山君の目が見開かれる。

「あいつがそう言ったの?今?」

「うん。すれ違いながら、独り言みたいにそう言って…」

 竹山君が唇を噛む。寄せた眉の下の目がぎらりと光った。

「行こう」

 自分のリュックと玲のスクールバッグを素早く肩にかけ、本を掴み、玲を促して足早に階段へ向かう。玲はなんだかぼうっとしたまま、竹山君の後に続いた。

 どこに行くんだろう。職員室かな…。そういえば、竹山君、どうして私のバッグ持ってるんだろう…。

「大丈夫?」

 数歩先で竹山君が振り返る。

「うん」

 慌てて階段を上るスピードを上げる。

 着いた先はやっぱり職員室だった。

 ちょうど、水島先生と前川先生が窓の近くの書類棚の前に立ち、何やら低い声で話しているところだった。

 竹山君は、入り口でろくに挨拶もせず、つかつかと遠慮のない速度で二人に近寄った。竹山君を見た二人の顔が、さっと緊張したのが玲にもわかった。

「どうした?!」

「大宮さんが二谷に脅されましたっ」

 いつもの礼儀正しい竹山君の声ではなかった。しかも二谷先生を呼び捨てにしている。

「どうしてあいつがまだ校内を、誰の監視を受けることもなくうろうろしてるんですか?!」

「竹山、落ち着け」

 水島先生が慌てたように手をぱたぱたさせた。竹山くんの声が大きいので、何人かの先生たちがこちらを見ている。

 前川先生が玲を見る。

「何をされたの」

「『逃げられると思うなよ』って言われました。すれ違った時に、独り言のような言い方で…」

「学校側はどういうつもりなんですか。あんな奴をいつまで野放しにしておくつもりなんですか!」

「ま、落ち着け、竹山」

 水島先生がもう一度言った。

「どこへ行くところだったの」

 前川先生が静かに尋ねる。

「教室へ…斉藤さんの鞄を取りに」

 前川先生が竹山君に目を移した。

「竹山君、教室まで一緒に行ってあげてくれますか。できれば今日は、帰りも大宮さんと一緒に帰ってあげてください。今日は…大宮さんにとって大変ストレスフルな日でした。よく気をつけてあげてほしいんです」

「言われなくてもそうします」 

 憮然として竹山くんが言うと、前川先生は頷いた。

「二谷先生のことは心配しなくてよろしい。すぐに対処します」

 一拍おいて、竹山君が小さく息をついた。

「…わかりました。…すみません。言葉が過ぎました」

 前川先生がもう一度頷いた。

「大宮さんを頼みますよ」

「はい」

 前川先生は両手で玲の左手を取った。節くれだった温かい手。少し身を屈めるようにして玲をじっと見つめる。

「大宮さん、今日聞いたことは、できるだけ…考えないようにしてください。できれば忘れてしまったほうがいい。あなたに聞かせてしまったのは間違いだった。同席させるべきではありませんでした。本当に申し訳ないことをしたと思っています。それから今言った通り、二谷先生のことはすぐに対処するので、心配しないで。難しいとは思うけれど、できるだけ他のことを考えて過ごすようにしてください」

「はい」

 玲は頷いた。前川先生が心配してくれているのが痛いほどわかった。先生の顔が涙でぼやけた。

 職員室を出る。その辺に二谷先生がいるような気がしてしまって、身体が緊張する。竹山君の肩にかかっている自分のスクールバッグが目に入った。

「あ、バッグ…ありがとう」

「森崎さんが部活に行かなきゃいけなかったから、僕が預かってたんだ」

「持てるよ」

「いいから」

「ありがとう」

 並んでゆっくりと階段を上る。

「ごめん。あんな大声出して…。つい…」

 竹山君が低い声で謝った。

「ううん。ありがとう。私もああ言いたかった」

「僕がもっと気をつけてれば…。あいつ、僕の目の前を通っていったはずなのに…ちっとも気がつかなかった。止められたかもしれなかったのに」

「そんな」

 玲は慌てて首を振った。

「待っててくれて、すごく嬉しかった。どうしてあそこにいたの?」

「掃除が終わって、C組に行ってみたんだ。今日も一緒に帰れるかなと思って」

 竹山君はさらりと言った。

「そうしたら森崎さんが、大宮さんがどこに行ったかわからないってすごく心配してた。鞄はあるのに…って。僕もそれを聞いてぎょっとなったんだけど、その時教室に戻ってきた河野君が、大宮さんと斉藤さんが職員室から出てきて、前川先生と一緒に進路指導室に入っていったって教えてくれた。それで僕も森崎さんもピンときて。

 そのうち教室に戻ってくるだろうって待ってたんだけど、なかなか戻ってこないし、森崎さんも部活に行かなきゃいけないしで、僕が大宮さんの鞄を預かって進路指導室の前まで行ったんだ。そこへ、中にいると思ってた前川先生が廊下をせかせか歩いてきて、僕を見つけて、大宮さんなら今保健室にいるけど、少し時間がかかるかもしれない、って…」

 竹山君は苦笑して、

「保健室なんて聞いて気が動転しちゃって…。先生に笑われちゃったよ」 

「…心配してくれたんだ」

「そりゃするよ。先生が『大丈夫。大宮さんは付き添いだから』って言ってくれて、ほっとした。で、時間がかかるっていうから、あそこに陣取って本を読んで待ってたんだ」

「ありがとう…」

 暖かい。

 竹山君の隣で玲はそっと息をついた。

 寒い日に温かいお湯に浸かった時みたいに、身体がほぐれていく。そういう時、気づかないうちにずいぶん身体が冷えていたんだなとわかる。

 あの時あそこに竹山君がいてくれなかったら、今頃心も身体も恐怖で冷え切ってしまっていたかもしれない。

 

 二人で三階の廊下を歩いていくと、いくつもの目が二人を好奇心もあらわに眺めた。

 そうだった。そういえば私たちが付き合ってるって噂が流れてるんだっけ。竹山君、知ってるのかな…。

 教室に入ると、何人かの生徒がまだ残っていた。香澄もいる。玲は内心顔をしかめながら、急ぎ足で斉藤さんの席に向かった。

 斉藤さんの席は教室の真ん中あたりだ。机の横にかけてあったスクールバッグを机の上に置き、何を選んだらいいかわからないので、とりあえず机の中のものを全部入れる。

「あれ、玲ちゃん、斉藤さんどうしたのー?」

 案の定、香澄が訊いてきた。

「うん、具合悪いみたいで、今保健室で寝てる。お母さんが迎えにくるって」

「えーそうなんだー。風邪かなあ」

「わからないけど…。頭が痛いって」

「そっかー。なんか病気じゃないといいねー」

「そうだね。じゃ、また明日ね」

「バイバーイ」

「バイバイ」

 他の子達にも手を振って、斉藤さんのスクールバッグを肩に掛け、急ぎ足で廊下に出る。

 竹山君は、D組の外の廊下で男子三人と談笑していた。玲に気づいた男子たちが一様にニヤリとし、中の一人——昨年クラスメイトだった中川誠也君——が、

「お、噂のカノジョ登場!」

 思わず竹山君の顔色をチェックしてしまう。竹山君はごく普通に微笑んで、斉藤さんのバッグに目をやる。

「持とうか」

「ううん、大丈夫」

「じゃ行こう」

 おおーと男子三人、なんだか羨ましそうに、ため息混じりの冷やかし声を上げる。竹山君はにこりとして、

「じゃ」

 と三人に手を挙げると、玲と並んで歩き出した。三人から十分離れたところまで来てから、くすくす笑って言う。

「僕たちが付き合ってるってみんなが噂してるって、知ってた?」

「うん、今朝聞いた」

 身体中の神経を総動員して、竹山君を観察する。

 どう思ってるのかな。

「どうも、土曜日に一緒に歩いてたかららしいんだけど。あと、金曜日に一緒に帰ってたとか木曜日も一緒に帰ってたとか聞いたけど本当か、って訊かれたよ」

 竹山君はおかしそうに続ける。

「結構見られてるものなんだね。みんな人が何してるか結構見てるんだ。人が何してるか気になるんだね」

「竹山君は気にならないの?」

「そりゃ、例えば大宮さんのことはいつも見てるし、気になるよ」

 どっきり。

「でも、何曜日に他の人が誰と帰ってたとか、そんなの僕は全然見てないし、気になったりなんてしないから…」

 またくすくす笑う。

「なんだか、あんなふうに色々反応されてちょっと驚いたよ」

 そして玲のほうを見ると、

「大宮さんは、何か言われた?」

「うん…LINEで私たちが付き合ってるって噂が流れてるってことと…あと、」

 言わないほうがいいのかも、と一瞬思ったけれど、言葉が先に出てしまった。

「竹山君のことを好きな女の子がいるから、遠慮してあげてほしいって言われた。私が竹山君と仲良くしてると、その子が竹山君に近づけないから、って」

 竹山君は綺麗な顔をわずかにしかめた。

「女の子って——ああ、ごめん、もちろん大宮さんは別だけど——なんていうか意地の悪いこと言うよね、そうやって」

 思わず首を縦にぶんぶん振ってしまう。

「そう!ネチネチしてて…。イブリン・ブレイクと話してるみたいだった」

 わかるかな、とちらりと思ったけれど、さすがは竹山君。

「『エミリー』だっけ」

「そう。それかアイリーン・ハワードとか、ネリー・オルソンとかね。…そういえば物語の中でも、そういうネチネチしたのは女の子ばっかりね、ほんとに。古今東西、女子はネチネチして意地が悪くて面倒ってことなのか…やだなあ」

 思わず肩を落としてため息をつく。

「みんながそうってわけじゃないでしょ」

 竹山君が慰め顔に言う。

「でもそういう性格って、男子より女子に圧倒的に多いと思う。あーあ、私、男だったらよかったな」

「僕は大宮さんが女の子でよかったけど」

 ふわりと言われて、玲は赤くなった。それって…。なんて応えたらいいのかな。

「…ありがとう」

 とりあえず言ってみる。竹山君がにこりとする。

「どういたしまして」

 男子が女子に向かって「君が女の子でよかった」と言った時、その男子の気持ちに最も近いと思われるものを次から選びなさい。

 (ア) その女子に恋愛の対象として好意を持っている  

 (イ)その女子に友達として好意を持っている   

 (ウ)会話の流れで言っただけで特に意味はない

 正解がわかればいいのになと思う。

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