第12話

Chap.12


 月曜の朝、待ち合わせの角の近くまで来ると、ちょうど右側の道から里奈もやってきたところだった。

「おはよう!」

「おはよう!」

 秋の曇り空の下、声が重なる。気温は少し低め。里奈は、シャンティクリームのようなふわふわした白いマフラーを巻いている。玲のマフラーは今日の空の色のような明るいグレイだ。

「ねえ玲、」

 待ちかねたような早口で里奈が言う。

「玲と竹山君が付き合ってるって噂がLINEで流れてるみたいだよ」

「えっ」

「私は昨日の夜、希美きみちゃんから聞いたんだけどさ」

 大沢希美。里奈が合唱部で仲良くしている子だ。二年B組。

「私服で一緒に歩いてるのを誰かが見たって」

「…ああ」

 英語の授業の帰りだ。

「もう寝るところだったから、玲には送らなかったけど」

 里奈が問いかけるように玲を見る。

「土曜の英語の授業をね、一緒に受けることになったの。その帰りにB組の正木さんとすれ違って。それでだよ」

「なんだ、そうなの…。っていうか、ええーそうなんだ!」

 里奈の目が丸くなる。

「なんだか、…ずいぶん急に仲良くなったもんだねえ。一緒に授業受けるなんて」

「たまたま英語塾の話になって、それで。前はお母さんの友達のところの子供と一緒にやってたんだけど、その子が辞めちゃって今は私一人だったから」

「ああーそういえばそんなこと言ってたよね。そうかあ、よかったじゃん」

 里奈がにやりと笑って肩をぶつける。

「うん、結構…すごく嬉しい」

「おおお、素直ー!うーん、玲が恋する女子の顔をしてるぅ」

「あ、でもね、付き合ってるとかいうんじゃないよ、全然」

 慌てて言う。

 ちょっと困ったなと思う。

 そんな噂を聞いたら、竹山君がなんて思うだろう。

「そういうの、どうしたらいいと思う?」

「噂?無視してればいいよ」

 里奈が手をひらひらさせる。

「竹山君、男子たちに何か言われたりしないかな…」

「おや、心配している」

「だって、竹山君、そういうのすごく嫌いだと思うんだ。冷やかされたりとか、からかわれたりとか」

「大丈夫だよ。竹山君にそんなことする度胸のある男子なんていないよ」

「そう?」

「そうだよ。軽蔑するような微笑と共に『それが何か?』とか言われておしまいって感じするもん。だから誰も何も言わないって」

「そうかなあ…」

 例えば河野君なんかは、竹山君のことを「竹やん」なんて呼んで結構普通に話しているから、あの大きい声で何か言ったりしそうだけど。

「竹やーん、大宮さんと付き合ってんのー?」

 竹山君がどんな顔をするか、想像するだけで気が重い。


 「あっ、玲ちゃん玲ちゃん!里奈ちゃんもおはよう!」

 教室に入った途端、田代香澄が駆け寄ってきた。女子バレー部の、賑やかな子だ。里奈と玲の間に割って入って、玲に腕を絡める。

「玲ちゃん今日も可愛いー。ねえなんで髪はねないの?いっつも綺麗に内巻きになってるー。つやつやですごいきれいー。どうやったらこんなふうになるのー?朝なんかつけてくるー?」

 早口の甲高い声に思わず苦笑する。

「ううん、別に何もつけないけど」

「あのねあのね、」

 窓際の玲の席までついて来ながら香澄は声を潜めた。

「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いい?」

 嫌な予感がする。でももちろん、にこやかにこう答えるしかない。

「うん、何?」

「あのね、ちょっとこっち来て」

 教室の後ろのすみに玲を引っ張っていく。もうすぐチャイムが鳴る時間なので、教室にはクラスの大部分がいてがやがやしている。それにもかかわらず、香澄はうんと声を潜めた。

「あのね、玲ちゃんて、竹山君と付き合ってるの?」

 やっぱり。

「ううん」

 香澄が媚びるような笑いを浮かべる。

「またまたー。照れなくっていいよ、本当のこと教えて」

「本当だよ。付き合ってないよ」

「だってマサキンがー、土曜に、二人が一緒に歩いてるの見たって言ってたよ。付き合ってるんでしょ?」

 マサキンというのは正木さんのことだろう。

「ただ一緒に歩いてただけ。付き合ったりしてないよ」

 英語塾が一緒、なんて話す必要はないと思ったので、言わなかった。

「ほんとにー?」

「ほんとに」

 だんだん笑顔を保つのが難しくなってくる。香澄のほうは、まだ媚びるような笑顔を浮かべている。

「じゃあー、ただの友達ってこと?」

 またか。友達。これを言われるとなんだか腹が立つ。

「うん、そうだね」

「そっかー。…うーん、あのね、じゃあ、お願いがあるんだけどー」

 お願い?竹山君のサインでもほしいのかな?

「あのね、私の友達でー、竹山君のことを真剣に好きな子がいてー。その子が可哀想だからね、ちょっと遠慮してあげてくれるかなーって思ってー」

 遠慮?

 思わずむっとした。自分の目元がきつくなったのがわかった。

「遠慮ってどういうこと?」

 声も尖っている。香澄がちょっと怯んだように見えた。

「んーと、だから、なんていうかー、竹山君とあんまり仲良くしないであげてほしいっていうかー」

「誰と仲良くしようと私の自由じゃない?」

 思わず声が大きくなってしまった。香澄が慌てた顔をして、静かにしてと言うように人差し指を口の前に立てる。

「うんうん、そうだけどー、でもね、玲ちゃんだってー、自分の好きな人と他の女の子が仲良くしてたら、嫌でしょ?」

 竹山君と他の女の子が仲良くしてたら。

「嫌だけど、でもだからって、私だったらその女の子に竹…私の好きな人と仲良くしないでなんて言わないよ」

「ええー…そうかなあー」

 媚びた笑いを浮かべた香澄にねっとりと言われて、玲はきっとなった。

 なんて嫌な言い方。イブリン・ブレイクと話してるみたいだ。

「その子だって、竹山君と仲良くしたいならすればいいじゃない」

「そうだけどー、でもその子、おとなしい子だからー。それにさー、玲ちゃんが竹山君と仲良くしてたらー、余計近づきにくいじゃない?」

「だったら諦めて近づかなきゃいいでしょ」

 頭にきて言い放つと、香澄の顔色が変わった。

 そこでチャイムが鳴り、まるで廊下で待ち構えていたのかと思うくらいのタイミングで、加藤先生が足早に教室に入ってきた。

「起立ーっ」

 学級委員の渡辺君が言い、教室のあちこちで椅子の音。立っていた者たちは急いで自分の席に戻る。玲と香澄も慌てて各自の席に戻った。

 席に行く途中で里奈と目が合う。なんだったの、と里奈の眉が上がる。後で、と玲も頷く。

 頬が上気しているのがわかる。すごく嫌な気分。香澄にも自分にも腹が立った。

 またやってしまった。淡々とできなかった。

 竹山君だったら、どんなに嫌なことを言われても、もっと大人な対応をするに決まっている。私ってどうしてこう子供なんだろう。


 月曜日なので、体育館で朝礼がある。廊下に背の順で並びながら、すぐ後ろの里奈がこそこそっと玲の耳元で囁いた。

「どうしたの」

 香澄は玲よりも三人前にいる。あたりはざわざわしているし、聞こえはしないだろう。

 体育館に行く道すがら、玲は香澄に言われたことを里奈に話した。誰にも言わないで、とは言われていないのだから、構わないはずだ。

 里奈は鼻で笑った。

「自分のことなんじゃないの」

「まさか。おとなしい子だって言ってたよ」

 天地がひっくり返ったって、あの香澄がおとなしいなんて誰も言えない。

「だから、そこは嘘なんだよ」

「変なの。でも私もちょっときつく言い過ぎたかもしれない…」

 いざこざは嫌なものだ。無視だとか陰口だとか。だから、そういうのを避けるために、敵を作らないために、やっぱりもっと落ち着いて淡々と対処するべきだったのに、できなかった。失敗した。ため息が出る。

「気にすることないよ。大丈夫だって」

「謝っとこうかな」

「何言ってんの!悪いのはむこうでしょ」

「そうだけど…」

 体育館で整列すると、ある程度の間隔を開けて並ばされるので、前後の人とのおしゃべりはできなくなる。隣に並んでいる人となら、朝礼の始まる前なら、少しは言葉を交わすことができる。玲の右隣は同じクラスの松井君。左側はD組の男子。竹山君は背が高いので一番後ろか後ろから二番目くらいだろう。玲は後ろから五番目だ。隣が竹山君だったらよかったのにな…。

 朝礼が始まった。香澄に謝ろうか、謝るならなんて言って謝ろうか、いつが一番タイミングがいいだろう、とあれこれ考えていた玲は、校長先生の話を聞くともなしに聞いていたのだが、ある時点ではっと気がついた。校長先生が話しているのは、セクハラのアンケートのことじゃないだろうか。

 間違ったことをしている人がいたら、たとえそれが先輩や先生であっても、それを指摘する勇気、告発する勇気を持とう。間違ったことをされて困っている人がいたら、その人を助ける勇気と優しさを持とう。見て見ぬふりをしてはいけない。力のあるもの、権力のある者が、その立場を利用して、自分より弱い者を自分の思い通りにしようとするなど、けしからんことで、断固として許してはならない…。

 朝礼の後、ホームルームでセクハラのアンケートがあるはずだ。その準備のつもりだろうか。自意識過剰かもしれないけれど、体育館のあちこちで自分のことが考えられているような気がして、なんだかいたたまれない気持ちだった。

 朝礼が終わると、回れ右をして、A組から、背の高い順に退出する。竹山君の斜め後ろ姿が視界に入る。昨日は現実世界でも本の中でも会わなかったからか、なんだか吸い寄せられるようにその姿に見惚れてしまって、ドキドキする。通り過ぎる時に目が合った。

「おはよう」

 小さい声で言い合って微笑み合う。

 嬉しくて幸せで、世界がぱっと桜色になる。すれ違った後も嬉しさの余韻が続いて、桜の花びらがちらりちらりと舞い降りる小道を歩いているような気分だ。

 そうだ!『歓喜の白路』にまだ行っていない!行きたいな。できたら竹山君と一緒に。

 体育館を出た後も、二人で『歓喜の白路』を歩くところを想像してぽわんとしていると、里奈がふっふっふと言いながら、玲の横に並んだ。

「順調なようですねえお二人さん」

 玲はちょっと慌てた。低い声で言う。

「田代さんに聞こえるよ」

「おんなじことだよ。見てただろうし、ばっちり」

「…そっか」

 それはそうだ。見られていたに決まっている。

「気にすることないよ。なんの遠慮することもないんだからさ」

「そうだけど…」

 香澄を敵に回すと、女子バレー部全員を敵に回すことになりはしないだろうか。それはちょっとしんどい。

「いっそのこと付き合っちゃえばいいのに。そうしたら誰も何も言えなくなるよ」

「そんな…そんな簡単にはいかないよ」

 ため息混じりにいうと、里奈も肩を落とした。

「そうだよねえ…」

 里奈が片想い中の松岡先輩は、来年の三月には卒業してしまう。その前に想いを伝えたいけれど、でも先輩は受験生でこれから忙しくなる。勉強の邪魔はしたくない。どうしたものか…というのが、目下のところの里奈の悩みだ。

 大人は、こんなふうに悩まなくてすむんだろうな、きっと。受験も卒業も学年別なんてものもないし、その人のことを好きな女の子がいるから、仲良くするのは遠慮しろ、なんて言う人もいないだろうし。早く大人になりたい。


 アンケートは、ホームルームの時間を使ってごく簡単に行われた。朝礼の時間が(おそらくはアンケートのために)短縮されたので、アンケートのために使われた時間は二十分ほど。セクハラにあったことがあるか、または目撃したことがあるか、ある場合はそれを具体的に記せ、というごくシンプルなものだった。セクハラの定義というものも書いてあり、これに該当しないものでも、セクハラではないかと感じたことがあったらなんでも書くようにと推奨されていた。

 玲は、今更また自分のことを書くのも変な気がしたけれど、何も書かずに一人ぼうっとしているわけにもいかないので、二谷先生のことについて簡潔に書いておいた。

 一時間目は体育だった。体育はCD組合同だけれど、残念ながら男女は別なので、竹山君には会えない。

 女子更衣室。着替えるときのがやがやした雰囲気の中で、玲はうまく香澄をつかまえて、スパッと謝った。

「さっきはごめんね。きついこと言っちゃって」

 香澄はちょっと意外だという顔をしてから、すぐに笑顔になり、

「ううん!こっちこそごめんねー。変なこと言ってー」

 これで一応——表面上は——一件落着だ。しかしこの後どうなるかはわからない。安心は全くできない。

 大人にはわかるまい、このネチネチした、面倒くさい、危険な世界。

「ねえ、それよりさー、さっきのセクハラのアンケート」

 香澄が続ける。

「玲ちゃんが二谷先生にキスされたからなんでしょー?」

 近くにいた女子達が、聞き耳を立てるように静かになったのがわかった。

「だからってわけでもないんじゃない?確かにタイミングは合ってたけど」

 里奈がさりげなく言ってくれる。

「先生も言ってたじゃん、全国で問題になってることだから、って」

「私、二谷先生のこと書いちゃった」

 近くで着替えていたD組の原さんという子が言う。

「私もー!」

「私も!」

 いくつも声が上がった。

「この学校でセクハラ教師って言ったら、やっぱり二谷先生だよねー」

「触りすぎ!」

「何がスキンシップだよねえ」

「ねえねえ、盗撮とかもしてたらどうする?」

「この更衣室とか?やだー!」 

「トイレとか?」

「ええー!やだサイテー!!」

 話が自分のことから逸れてくれてほっとしながらも、玲は思わず更衣室を見回してしまった。盗撮。あの先生ならやりかねない。


 その日は何事もなく過ぎていき——どこへ行くにも、教室内でも、里奈がずっと一緒にいてくれた——、清掃の時間になった。

 里奈の班は今週は下駄箱の掃除担当。玲の班は休みだ。教室にいれば安全なので、とりあえず、しばらく教室にいることにする。

「玲、放課後はどうするの?」

 里奈がにやりと笑って声をひそめる。

「今日も竹山君と一緒?」

「ん…わかんない。何も言われてないし」

「受け身だなあ。一緒に帰ろ!って誘ってごらんよ」

「えっそんな…」 

「モリちゃん、行こうー」

 里奈と同じ班の武井さんが呼びに来る。

「とにかく、一人で帰ったらダメだよ。危ないからね」

 手を振って、里奈は教室を出て行った。

 誘ってごらんよ、か…。どうしようかな…。竹山君、お隣にいるかな。

 D組を覗きに行ってみようかな、と寄りかかっていた壁から身を起こしかけた時、

「あの…大宮さん」

 おずおずと声をかけられた。斉藤さんだ。金曜日のことがあるので、思わず身構える。また二谷先生から伝言?

「あの、ちょっと…時間ある?」

「…うん」

 緊張する。どこかへ連れて行かれるのだろうか。二谷先生のところに。

「あのね、あの…」

 斉藤さんは言い淀んで目を伏せた。きゅっと唇を引き結ぶ。右手にハンカチを握りしめている。その手が微かに震えている。

 なんだか変だ。

「…どうしたの?」

 もしかして。

「…私、」

 斉藤さんは絞り出すように言った。

「…アンケートに、書けなかったんだけど、私、…私も、」

 言葉が途切れる。

「…セクハラされたの?」

 そっと言ってみた。

 斉藤さんが下を向いたまま頷く。

「…二谷先生?」

 斉藤さんがもう一度頷く。

 やっぱり。

 心臓がどきどきしだした。

 どうしよう。どうしてあげればいい?

「…加藤先生か、前川先生に話しに行く?」

 女の先生の名前だけを挙げてみる。斉藤さんは俯いたままこくりと頷いた。

「じゃ、行こう」

 竹山君が言ってくれたことを思い出して、言い直した。

「一緒に行こう」

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