第11話

Chap.11


 土曜日の午後は雨が降っていた。太い銀色の糸のような秋の雨の中、ベージュのタータンチェックの傘とダークグリーンのタータンチェックの傘をさして、玲と竹山君は英語の先生の家の門を出た。

「ね?前川先生を優しくしたような先生でしょ」

 竹山君が笑って頷く。

「そうだね」 

 そしてちょっと気がかりそうに玲を見る。

「本当にいいの?一緒で」

「もちろん!竹山君さえよければ」

「そりゃ僕は願ったりだけど」

「わ・た・し・も」

 二人で一緒に授業を受けることになったのだ。竹山君がおどけた調子で、

「ライバルに塩送っていいの?」

 玲はうふふと笑った。

「これでおあいこだもん」

 少し古風な感じの洋間で、よく磨き込まれた、がっしりとした木のテーブルに、先生を挟んで竹山君と向かい合わせに座る。近くのコーヒーテーブルに生けられている薔薇の微かな香り。部屋の向こう側にかかっている柱時計の振り子の音。向かいに座る竹山君のキリリとした集中力。負けてられない、とこちらも自然キリッとなる。心地いい緊張感。 

 実は——自分でもよくわからないのだけれど——心の五分の三くらいはどうも恋する乙女のそれであるようで、気を抜くと時折、目の前の竹山君にぽやんと見惚れてしまって辺りが桜色になるのだけれど、でも、さらさらとノートをとる竹山君の手元や授業に集中している顔を見ると、すぐにハッと我に返る。高い集中力。さすがだなと思う。私も竹山君みたいになりたい、頑張ろう、と思う。

 それにしても、あの距離で向かい合って座るとなると、鼻をかまなきゃいけない事態になったらちょっと困るなと思う。これからは絶対に——少なくとも土曜日には——風邪をひかないようにしなくては。

 二人で、授業の後で先生と話したばかりの、『Harry Potter』のイギリス英語版とアメリカ英語版の違いについて、楽しく喋りながら歩いていると、向こうから、パッと目を引く明るい黄色と水色の水玉模様の傘をさした人が歩いてきた。街灯に照らされた顔に見覚えがあった。

 同じ学年の女の子。確か正木さん、だったかな…。

 向こうもこっちを見てはっとした顔をし、ちょっとぎこちない笑顔になる。お互いに笑顔で頷きあって通り過ぎる。

「誰だっけ」 

 と竹山君。

「確か、正木さん…っていったと思う。B組だったかな。あ、見て見て」

 目の前の十字路を、レインスーツを着たチョコレート色の犬が、嬉しそうにニコニコして通り過ぎて行った。飼い主さんのレインコートとお揃いの、明るいピンク色のレインスーツ。

「かわいいー」

「ラブだね」

 竹山君も目を細める。

「うちもね、ああやって雨の日も散歩してた」

「うちもだよ。年取ってからも、散歩が大好きだった」

 お互いに過去のことであるのがわかって、少し悲しい空気が漂う。

「うちの子もラブだったの。イエローラブ。りんって名前」

「うちのはゴールデン。フレディって呼んでたけど、正式にはフレデリック」

「もしかしてショパン?」

 竹山君が微笑む。

「あたり。母がつけたんだって。母はフレディが大好きで…。だからなのかはわからないけど、フレディは母が亡くなったのと同じ年に逝っちゃった」

 玲は思わず涙ぐんだ。

 フレディもきっとお母さんが大好きだったんだろうな…。お母さんが突然いなくなって、どんなに悲しかっただろう。

 そして、お母さんがいなくなって、フレディもいなくなって、竹山君にとってそれはどんなに辛い年だっただろう。

「…りんはね、去年。十五歳だった。お母さんが、よく私とりんを間違えて呼んでた。『りんちゃん!じゃなかった、玲ちゃん!』とか『玲ちゃーん、お散歩行くわよー』とかって。そんな似た名前つけなきゃいいのにね」

 ぼやいてみせると、竹山君がくすくす笑った。

「りんのほうがお姉さんだったんだね」

「そう。だからほんとは私は大宮家の次女。…咲はね、またわんこと暮らしたいって言ってるんだけど、私はとてもそんなふうに思えなくて」

 玲がため息をつくと、竹山君も頷いた。

「僕もそう。少なくとも、今はまだとてもそんなふうに思えないよ。大人になったら、もしかしたらまた犬と暮らそうって思えるかもしれないけど」

 大人になったら…。

 玲は想像してみた。

 わんこと遊べる芝生のお庭がある家。さんさんと暖かい陽射しが降り注ぐ緑の芝生に、りんみたいなラブがいて、フレディみたいなゴールデンがいて、大人になった私と竹山君がいて…って、何を考えてるのだ、何を。ひとりで赤くなる。

 ちょっと遠回りになるのに、竹山君はやっぱり玲を家まで送ってくれた。二人が家の近くまで来た時、向こうから、黒い傘をさした男の人が緩い坂を上ってきた。お父さんだ。家の門の前でちょうど鉢合わせ。

「お帰り」

「お帰りなさい」

 なんだか変だけど、双方帰ってきたのだから仕方がない。 

「はじめまして」

 そう言って会釈しただけなのに、素晴らしく礼儀正しく見えるのは竹山君ならではだ。

「はじめまして。いつも娘がお世話になって、ありがとうございます」

 お父さんも、大人に対するように挨拶する。

 昨夜竹山君が送ってくれた、例の二谷先生との会話の録音を聞いて、お父さんもお母さんもすっかり竹山君のファンになってしまったらしい。

「これからも娘をどうぞよろしくお願いします」

「ちょっと、お父さんっ」

 猛烈に恥ずかしくなって、玲はお父さんのレインコートの袖を引っ張った。

 竹山君はちょっと笑って、でもビシッと礼儀正しく、

「はい」

 と頷いた。お父さんはにこにこすると、

「じゃ、僕はこれで」

 と言って、なんだか妙に浮き浮きした様子で、そそくさと門の中へ消えた。いかにも、邪魔するような無粋な父親じゃありませんよ、という感じだ。

「もう、なんなの」

 顔が熱い。湯気が出そうだ。竹山君が微笑む。

「優しそうなお父さんだね。大宮さんと雰囲気が似てる」

「えっ、そう?」

 玲は目を丸くした。そんなことを言われたのは初めてだ。

「うん。やわらかい雰囲気がね、すごくよく似てるよ」

 そんなことを言われると、お父さんの袖を引っ張ったりしたのも忘れて、花の精になったかのように頬を染めて微笑んでしまう。恋する乙女は変幻自在。

「じゃ、」昨日と同じように声を潜めて「また後で」

「うん、また後で。送ってくれてありがとう」

「どういたしまして。保田先生のこと、ありがとう。あと本も」

「どういたしまして。竹山君に負けないように頑張る」

「僕も大宮さんに負けないように頑張るよ」

 じゃあ、と微笑んで手を振り合う。

 今日もロマンティックな気持ちで初恋の君の後ろ姿を見送っていると、邪魔が入った。

「あら、遅かったか、残念」

 お母さんが、咲のピンクのキャンディ模様の傘をさして玄関から出てきた。そのまま玲の横に並ぶ。

「…なに、お母さん」

「私からも竹山君にお礼を言おうかと思って。うーん、いい後ろ姿。姿勢がいいわねやっぱり、剣道やってると」

「…そうだね」

 一人で見送っていたいのに…。

 ちょっと苛々して傘を揺らす。

 早く家に入ってくれればいいのに。お母さんだって昔恋愛したことがあるはずなんだから、わかってくれたっていいんじゃないの?鈍感なんだから。…それとももしかして、わざと邪魔してる?

 そのうち竹山君は曲がり角のところまで来て、ちょっと振り返った。

 あ、と思って笑顔で小さく手を振ると、玲の横でお母さんも遠慮なく手を振っていた。

 ちょっとお母さんたら何するのよ!

 竹山君は少し驚いたような笑顔を浮かべ、小さく手を振り返しながらお母さんに会釈した。お母さんも更に大きく手を振りながら、大ニコニコで会釈を返している。玲は憮然としてしまった。信じられない。

「もう、お母さんたら、恥ずかしいじゃない」

 玄関に向かいながらつっけんどんに言う。お母さんは平気の平左だ。

「あーらシツレイ」

 ほほと笑ってみせてから、

「授業はどうだった?」

「よかったよ」

「一緒にできそう?」

「うん」

「それはよかった。お月謝もちょっと助かるし。竹山君のレベルについていけるように頑張らないとね」

 これは聞き捨てならない。

「英語なら互角だもん」

「その意気その意気。それでこそ我が娘」

 それもなんだか嬉しくない。

 

 お風呂の後、部屋でもう一度『Anne of Green Gables』の今夜のデート箇所を読んでみる。

 今日の午前中、辞書を使い何度も何度も読んだ。音読も何度もしてみた。知らない言葉が結構あったけれど、発音記号の読み方は保田先生のところで教わっているので、問題ない。ちょっと自信のない言葉は、今日の授業で先生に一応確認した。

 モンゴメリの本は、景色の描写がたくさん出てくる。日本語で読んでももちろん綺麗だけれど、英語で何度も音読しているうちに、だんだん情景がクリアに——日本語で読んでいた時よりももっとクリアに——浮かんでくるようになったのは不思議だった。

 きれい…。途中で思わず目を閉じる。rustleなんていう言葉を読むと、それだけで本当に木々の葉擦れの音がが聞こえてくるようだ。

 「入る」のに必要な箇所の先の方も読む。アンとギルバートの仲直りの会話。

 机に頬杖をついて考える。

 私と竹山君って、こういう感じなのかな。

 good friendsってギルバートが言っている。でもギルバートはアンのことを好きっていう感じ——友達以上に——がするし、次の巻ではアンのことを恋愛の対象として好きなのがバレバレだし、何年か後で、結婚式の前日に、あの仲直りの時以来、自分は明日という日をずっと待っていたんだ、って言うんだけどな。

 good friends。いい友人。

 そういえば、木曜日、進路指導室で竹山君が「友人として当然のことをしただけです」って言ってくれた時、嬉しかったな。

 でもお母さんに「ただの友達なの?」って訊かれた時はあんまり嬉しくなかった。

 友達と恋人の違いってなんだろう。告白。デート。学校から一緒に帰る。誕生日。クリスマス。バレンタインデー。手をつないで歩く。ハグとかキス。

 竹山君とは学校から二回一緒に帰ったけど、でも両方とも状況的にそうなっただけだし、本の中でデートはしてるけど、あれは普通のいわゆるデートっていうのとは違うし。

 ため息をつく。

 よくわからない。

 二谷先生から守ってくれたり、家まで送ってくれたり、スクールバッグを持ってくれたり、あんなに優しくしてくれて、褒めてくれて、おまけに物語のヒロインはみんな私と重なる、なんて言ってくれて。でもだからって、イコール私のことを恋愛の対象として好きってことにはならない…んだろうな、きっと。

 自分で言うのも図々しいけど、好意は持ってくれていると思う。でも、昨日里奈に言ったように、竹山君は、告白だの付き合うだの恋愛だの、そういうことが好きじゃないような気がする。

 もう一度ため息をついて本を閉じる。 

 誰かを好きになると、その人が自分をどう思ってるのかが知りたくなるけれど、知ることができない。

 こういうのを片想いっていうわけだ。なるほど。

「でも、友達だって、友達じゃないよりずっと嬉しいもん。贅沢言わないこと」

 声に出して言って、一応けりをつけた。

 さ、デートの時間まで、数学やろう。


 九時二十分に、居間に行って竹山君からメッセージがあるか確認する。今日は変更がある場合にだけ連絡し合おうということにしてあった。メッセージはなし。デートだ。

 昨夜のように、ノートに行き先を書き込み、スケッチブックに書いたメッセージを机に置く。ブックスタンドに本をセットし、着替えて、靴を履き、腕時計をする。今日は英語なので、十分な時間をとって読み始めた。

 美しい夕暮れの中、アンと一緒に、丘を下る長い道をゆっくりと歩いていく。爽やかな風。下の方には家々の灯が瞬いている。遠くにぼんやりと見える海。微かな波の音。日が沈んだ後の美しい西の空。その空を映す池。アンが「Dear old world, you are very lovely, and I am glad to be alive in you.」と呟いた時、玲も心からそう思った。

「Half-way down a hill a tall lad came whistling out of a gate before the Blythe homestead.」

 ギルバートが口笛を吹きながらブライス家の農場の門を開けて出てきた。ぎいっと木の軋む音がして、カタン、と門を閉める音が聞こえた。すらりと背が高い。アンに気がつく。口笛が止む。礼儀正しく帽子を取ってアンに挨拶して行き過ぎようとした時、今まで、どこで会おうともずっとギルバートを無視し続けてきたアンが立ち止まり、思い切った様子でギルバートに手を差し出し、話しかけた。

 玲は二人から少しだけしか離れていない道の脇に立っていた。もちろん二人の言っていることがはっきり聞こえる。今日何度も読んだところだ。夢中になって耳を澄ます。玲の立っている所からはアンの顔のほうがよく見えた。頬が可憐に染まって、大きな目が嬉しそうに輝いている。

 二人は話を続けながら丘を下っていった。ついて行ってみたいけれど、グリーンゲイブルズまで行かれるわけないしな…と残念に思っていると、

「できたね」

 後ろから声がしてびっくり仰天した。振り向くとすぐ近くに竹山君が微笑んで立っていた。

「竹山君!ああびっくりした…」

 胸に手を当てて大きく息をつく。本当に驚いた。

「大宮さんがあんまり夢中になって聞いてるから、邪魔しちゃいけないと思って」

 いたずらっぽく笑って、

「ドア、見てみた?」

「あ、まだだった」

 玲は慌てて辺りを見回す。

 白いドアが、昨夜のように仲良く並んで草むらに立っている。 

 昨夜は、竹山君が左、玲が右のドアを選び、二人一緒にそうっとドアを開けてみるという方法をとった。結果、向こうを覗いてみるということは不可能で、開けた途端、一気にドアの向こう、つまり現実の世界に戻ってしまうということがわかった。幸運なことにそれぞれ自分の家に帰れたが、今夜はどうか…。

「大丈夫だよ。すぐに本の中に戻ればいいだけだから」

 玲の気持ちを読んだように竹山君が言う。

「そうね」

 くすっと笑う。

「…お父さんかお母さんが竹山君を私の部屋で見たら」

 びっくり仰天だろう。

「気まずいなあ」

 竹山君もちょっと困ったように笑う。

「夕方はごめんね。お母さんまで出てきちゃって。お礼を言おうと思ったけど一足遅かったって言って、一緒に見送ってたの」

「かわいいピンクの傘さしてたね」

「あれは妹のね」

 一応弁解しておく。

「僕のところは、兄貴には話してあるから大丈夫だけど、父だったら驚くだろうな」

「…なんて説明しよう」

 想像しただけで緊張する。

「黙ってにっこりして本の中に消えれば、幻だったと思うよ、きっと」

「でも、魔法使いみたいに、呪文を唱えてふっと消えられるわけじゃないもの。本を読まなきゃいけないでしょ。ドキドキしてちゃんと読めなかったら…」

 笑いごとではないけれど、その場面を想像したらなんだかおかしくなってしまった。

 部屋の入り口で、目を点にして立ち尽くしている竹山君のお父さん。

 焦って本を読むけれど、なかなか本の中に入れない玲。

 竹山君も同じような想像をしたらしい。笑いながら、

「コメディみたいだね」

「ほんと」 

 くすくす笑いながら、素晴らしい風景に目をやる。ため息が出るくらい綺麗だ。竹山君が目を細めて言う。

「すごいね…。やっぱり『絵のように美しい』って言いたくなっちゃうな」

「…ああ、こないだのテストのね」

「そうそう」

 国語の学力テストに使われていた問題文に、景色を見て「絵のように美しい」と言うのは実はおかしいのだと書いてあったのだ。本物を模したものが絵なのだから。

「ちょっと座る?」

「そうね」

 なだらかなスロープになっている道端の草の上に腰を下ろす。

「勉強しなくていいの?」

 言ってみると、竹山君は苦笑した。

「僕だって勉強ばっかりしてるわけじゃないんだから」

 しかしさらりと付け加える。

「今日の分はもうやっちゃったし」

 さすがだ。玲はこっそり首を縮める。

「こんな綺麗な景色をゆっくり見ないで帰るなんてもったいないよ」

 気持ちよさそうに大きく息をついてから、あ、と言って玲を見る。

「ごめん。帰って勉強したい?」

「ううん、ぜーんぜん」

 竹山君のように今日の分はもうやっちゃったし、と言えないところが辛い。

「せっかくこんな素敵なとこに来てるんだし」

 そう言うと、竹山君がにこりとして玲を見た。

「勉強した?今日」

 あいたた。

「…数学だけ、ちょっと。あとは英語読んだだけ」

「余裕あるなあ、大宮さん」

「竹山君、意地悪も言うんだ」

 ちょっと睨む真似をしてから、

「…今日はついサボっちゃって」

 問一。大宮玲は勉強をサボって誰のことを考えていたでしょう。

「大宮さんは塾行ってないの?英語以外」

「行ってない」

 ええい、言ってしまえ。

「実は、二学期から竹山君の真似してX会始めたんだけどね…」

 竹山君、ちょっと驚いた顔をする。

「僕がX会やってるって知ってたんだ」

「学年一の秀才が塾に行かずX会やってるってことは、学年中みーんな知ってます」

「そうなんだ。知らなかった。X会いいでしょ」

「んーと…」

 竹山君がにやりとする。

「あんまりやってないんだ」

「実はあんまり…ついサボっちゃって」

 サボってばかり。言ってしまって自分で焦る。

「せっかく始めたんだから、やらないともったいないよ。X会はテキストがすごくいいと思うし、解答集の解説もいいこと書いてあってなるほどって思うこと多いし」

 竹山君が言ってくれると、俄然やる気になるから不思議だ。

「これからはちゃんと頑張る。ね、竹山君は特に好きな教科ってあるの?」

「うーん、やってて一番楽しいって思えるのはやっぱり英語かな。でも、数学も、英語の楽しさとはちょっと違うけど、すごく好きだよ」

 すごく、がつく。数学に。

「数学かあ…」

「嫌い?」

「苦手。あ、でもね、証明は好き」

「楽しいよね、証明」

「理科と社会は?」

「特に好きでも嫌いでもないかな」

 玲はため息をついてみせた。

「なのにできるのはなぜ?勉強してて楽しい?」

 竹山君が苦笑混じりに言う。

「楽しいってわけでもないけど。それに、理科とか社会はそんなに勉強しなくても…」

「しなくてもできちゃうのね」

 またため息をついてみせると、竹山君が頬杖の上の顔をちょっと傾けて玲を見た。

「本を読むのとおんなじように教科書を読めばいいんだよ」

 驚き呆れて、竹山君の目を至近距離でまじまじと見つめてしまった

「教科書を、本を読むのと同じように読むの?」

「そう。そりゃ、中には入り込めないと思うけど、でもそれくらいの…intentionで」

 と、今日英語の授業で出てきた言葉を使って、

「読むっていうこと」

「…だって…だって、教科書でしょ。『ミミズの生活とからだのつくり』とかっていうのを…」

 玲が言いだすと、竹山君が吹き出した。

 昨年、理科の先生がしばらく入院した時期があった。代わりに来たのは、若林先生という太った白髪のおじいさん先生で、いつも授業時間の半分くらいを費やして、生徒たちの机の間をのっしのっしと歩きながら、ちょっと変なアクセントをつけて、大柄な身体に似合わないやや甲高い声で、ゆっくりと教科書を朗読した。

 若林先生の初めての朗読が「ミミズの生活とからだのつくり」という章だったので、そのタイトルは生徒たちに強烈なインパクトを与え、しばらくはそのおかしなアクセントを真似する生徒が続出し、「ミミーズノーセーカツトッ、カラーダノーツクーリッ」があちこちで聞かれた。

 授業中に抑えなくてはならなかった笑いというのは、生徒たちの中で二倍にも三倍にもなるものだ。

 竹山君は額を片手で支えて、肩を揺らして笑っている。

「あれは……おかしかったよね……」

 笑いながら言う竹山君の声は、当然だけれど笑いをいっぱいに含んだ声で、一緒に笑いながら玲は目を細めた。竹山君も、こんなふうに笑ったりするんだ…。また新しい竹山君を発見した。

 ひとしきり笑ったあと、

「…そう、そういうのを、教科書をね、本を読むときくらいの集中力で読むと、うまく頭に入ってくるよ」

 竹山君が真面目な顔で言った。玲は今ひとつ信じきれない。

 だって、教科書だよ…。

「入ってきた後ですぐ出ていっちゃわない?」

「しっかり読めば出ていかない。本の中のエピソードやセリフを忘れないのとおんなじ。試してごらんよ。大宮さんならできるよ」

 好きな人にそんなことを言われて、やってみない女の子はいない。

「…やってみる。ありがとう。ついでに訊いちゃうけど、数学は?どうしたらいい?」

「うーん、そうだな…」

 竹山君が眉を寄せる。玲はたちまち後悔した。もともとできる人には、却ってどうしたらいいかなんてわからないのかもしれない。悪いこと聞いちゃったな。

「…さっき、苦手って言ってたけど、その『苦手』っていう意識をなくせばいいんじゃないかな。どうして苦手って思うの?」

「うーん」

 今度は玲が眉を寄せる。

「…答えを間違うから」

「じゃ、間違えないようにすればいいんだよ」

 冗談を言っているのかと思って口を尖らせて見上げたら、竹山君はごく真面目だった。

「それにはたくさん問題を解いて慣れるしかない。ピアノの練習と似てるんじゃない?」

 言われて玲は、目から鱗が落ちたような気がした。

 ある曲を苦手だと思うのは、間違う箇所が多いから。間違う箇所を何度も繰り返して練習して、間違わずに弾けるようになると、苦手な曲じゃなくなる。それ以前に、まず音取りの段階で丁寧に時間をかけて何度も繰り返すと、間違う箇所というものを作ってしまわずにすむ。

 数学もそうすればいいのか!

「なるほど…」

 深く深く頷くと、竹山君はいたずらっぽく笑って、

「まずはX会のテキストを一問も残さずにやって、添削問題もちゃんと送るようにすること」

「はい。ありがとうございます、竹山先輩」

「どういたしまして」

 二人はしばらく黙って景色を眺めた。

 竹山君が前に言っていたように、辺りの様子に変化は起こっていない。日が暮れてどんどん暗くなっていく、ということはなく、アンとギルバートが行ってしまった時のままの、美しい黄昏の明るさが続いている。

 柔らかい、淡いすみれ色の空気。

 それでいて、時が止まってしまっているわけではないのは、頬を撫でていくそよ風や、遠く微かに聞こえる波の音でもわかる。

 時折少し強い風が吹いて、あちらこちらに集まっておしゃべりをしているように見える木々がざわめく。そのざわめきが、風の吹いてくる方向から順々に聞こえてくるので、風の動きがわかる。

 当たり前のことなのだけれど、でもそれが面白くて、玲はしばらく、強い風が吹くたびに風の動きを耳で追っていた。

 眼下にはアヴォンリーの家々の灯がちらちらと瞬いている。あの一つ一つに、人々がいて、それぞれの生活があって、それぞれの思いがあって、その数だけ物語がある。

 夕暮れ時に家々の灯や建物の窓の灯を眺めると、いつもそんなふうに思う。

 そしてどうしてだかさっぱりわからないのだけれど、どこかに帰りたくなって、でもそれがどこなのかわからなくて、自分には帰るところがないような気がして、寂しくなる。ちゃんと家も大好きな家族も友達もいるのに。

 どれくらいそうして座っていたのかわからないけれど、ふと、物思いから覚めて竹山君の方を見ると、竹山君もちょうど玲のほうに顔を向けたところだった。

 柔らかく風が吹き抜ける。

 小さく微笑み合う。

「これで、何語に訳されていようと一つの物語の世界は一つなんだってわかったね」

「そうね」

 そうだった。そういえばその実験のために来たんだった。

「でもじゃあどうして他の誰にも会わないんだろう…」

 竹山君が眉を寄せてため息をついた。

「六年生の秋から、もう何百回も本の中に入ってきたけど、他の『訪問者』の気配すらしたことがなかった。だから、僕が入ってるのは、一冊の、自分が今読んでる本の中の世界なんだって思ってたのに」

「『はてしない物語』にあったみたいなことなのかな…。ファンタージェンを訪れる人が少なくなった、っていう」

「本を読む人が少なくなった…か。でもそれにしたって…」

「こういう本を読む人が少なくなった、っていうことじゃないのかな。みんなもっと現代的な本の方が好きなのかも。あと漫画とか、ラノベとか。図書室にラノベを置いて欲しいって要望があったじゃない?」

 学校側が——というか、おそらくは前川先生が——却下したけれど。

 竹山君はまたため息をついた。

「そうなのかな…。なんだか…」

「うん…なんだか…ね」

 なんて表現したらいいのかわからない。悲しい?寂しい?もったいない?

「時代が違うんだろうなあ」

 竹山君がしんみりと言ったので、玲はくすっと笑ってしまった。

「おじいさんみたい」

「ほんとだ」

 竹山君もちょっと笑った。

「…あのね、今考えたんだけど…。本の中にずっといたら、ずーっと何年もいたら、どうなるんだろう。年取らないのかな」

「年は取るんじゃないのかな。だって腕時計は現実世界の時間通りに動いてるんだもの。だったら僕たちだって、現実世界の時間の流れの中にいるんだと思うよ」

「そっか。そうよね」

 残念、とため息をつきながら言うと、竹山君が眉を上げた。

「どうして?本の中にいて、いつまでも十三歳のままでいたいの?」

「ううん、そうじゃなくて。あのね、例えば戦争中とかに本の中に入っちゃった子がいたとしたら、って考えたの。戦争をやり過ごして、まだ子供のままで現実の世界に今帰ってきたら…あ」

 頭の中で、一連の映像が流れた。

 本に入っている間に、空襲があって、本も、その子のお家も、家族も…。

「…戦争をやり過ごして、まだ子供のままで現実の世界に今帰ってきたら、昔と違ってすごく自由で、どんな本も読めて、戦争もないし、嬉しいだろうなって言おうと思ったんだけど」

「『木かげの家の小人たち』だね」

「そう。でも、そんなはずないよね。家族も友達もいなくなっちゃってて」

 竹山君が遠い目をする。

「そんな人が本当にいるとしたら…、生きていられたとしても、もうかなりの高齢だね。ずっと本の中でひとりで…」

 玲を見る。

「そんなこと、今まで考えたこともなかったけど、でももしかしたらそういう人が本当にいたかもしれないよね。すごく辛い時代だったんだし、現実が辛くて本の中の世界に入りたいって思ってもちっとも不思議じゃない。…そして入ったまま、例えば本が焼けてしまって出られなくなって…」

「そういう人に本の中で会ったら、どうしてあげればいいんだろう」

「大宮さんだったら、どうしたい?外の世界ではもう何十年も経っていて、家族も友達も生きているかわからない。それでも帰りたいと思う?」

 玲はちょっと考えた。

 目の前の美しい黄昏に沈む景色を眺め、それから竹山君をちらりと見た。

「うん。帰りたいと思う」

 竹山君にもう一度会いたいと思うから。

 私がおばあさんになっていて、竹山君がおじいさんになっていても、もし生きているならもう一度会いたいと思うから。 

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