第10話

Chap.10


 九時二十分。竹山君と玲のLINE。

「2130で大丈夫?」

「大丈夫!」

「じゃ、十分後に」

「Roger!」


 六冊の本と二冊の辞書とノートとペンケースを抱えて、大急ぎで二階へ駆け上がる。ああ、やっぱり部屋でスマホを使えるようにしてほしい…。

 本はちゃんと机の上に用意してある。お母さんがキッチン用に買って、ほとんど使っていないブックスタンドも借りてある。

 ノートも、考えていた通り、大切にしまってあったロイヤルブルーのロイヒトトゥルムをおろして、夕食前に、お気に入りのガラスペンで、昨夜の『秘密の花園』の分と、今日竹山君と行った『朝びらき丸東の海へ』と『モモ』の分を書き記しておいた。今またガラスペンをブルーのインクに浸し、その下に、胸をわくわくさせながら、今日の日付と2130と書いた後に、

「『カスピアン王子のつのぶえ』165ページ。竹山君と、それぞれの家から。実験」

 と丁寧に書いた。

 そして小さめのスケッチブックの一ページを開く。

 さっき色とりどりのクレヨンで書いておいた、

「本を閉じないでください。 玲」

 という文字を眺め、よしと頷く。

 ブックスタンドの上に本をセットして、腕時計をつけて、体育館シューズを履いて、準備完了だ。ふと思いついて立ち上がり、クローゼットのドアについている等身大の鏡に自らを映してみてぎょっとなった。

 パジャマ!

 急いでジーンズとシャツとパーカーに着替える。気がついて本当によかった。本の中で竹山君に会った途端、自分がパジャマ姿なのに気づいたところを想像してしまい、顔から火が出る思いがした。そんなことがあったら恥ずかしくて死んでしまう。

 机の前に座る。なんだか緊張してきた。祈るように両手を握りしめる。 

 別々のところにある同じ物語の本から入った二人が、物語の中で会うことができるだろうか。

 竹山君に、会えるだろうか。

 時間を見計らって、少し前のところから読み始める。夜の森のシーンだ。

 木々の間から見える星たち。水面に映る月明かり。漂う不思議な気配。ひんやりした、さわやかな夜の空気。あまい香り。ナイチンゲールの声。

 「さきのほうがかなり明るくなりました。ルーシィは月あかりをめざしていきますと、今までより木がすくなくなり、そのあき地に月光がいっぱいにふりそそいでいるところに出ました。」

 あまい香りがふっと強くなった。肺に流れ込むひんやりした空気。魔法のような金色の月明かり。少し離れたところに、木々を見上げているルーシィがいる。

 その時、玲のすぐ後ろで、空気が、というより空間がふうっと揺れたような感じがして、玲は反射的に振り向いた。

 金色の光と影の中、ジーンズにオフホワイトのパーカを着た竹山君がすらりと立っていた。

「こんばんは」

 竹山君が微笑んで言う。

「こんばんは」

 ふふっと笑って玲も挨拶を返す。男の子と「こんばんは」なんて挨拶するのはたぶん初めてだ。なんだか照れてしまう。

「すごいね。できた」

「ね!」

「ドアは…」

 首をめぐらせて、

「あった」

 斜め後ろの方に二つのドアが仲良く並んでいる。玲は青くなった。

「…どっちがどっちかな」

「わからない?」

「私も竹山君が来た二、三秒くらい前に来たところだったから…。ちょっとだけ開けて、覗いてみることってできない?」

「どうかな。やってみたことないけど…」

 竹山君はくすくす笑い出した。

「お互い、違う家に帰っちゃったら面白いね。それだけで冒険だよ」

 玲は笑うどころではない。

「そうなっちゃったらどうしよう」

「そうなったら、また本の中に入ればいいよ」

「…そうか、そうね。…あ」 

 玲が息を呑んだので、竹山君が眉を上げる。

「どうしたの」

「…今ね、怖いこと考えちゃった」

 玲は、月明かりに半分照らされている竹山君の端正な顔を見上げた。

「もし、それができるんだとしたら…、つまり、自分のじゃないドアを通って、現実の世界に帰ることができるんだとしたら…。例えばね、本の中に誰か他の『訪問者』がいるとするでしょ。その人が自分のドアが見つからなくて、現実世界に帰れなくて、困っているとする。そこに偶然私が来たとしたら、その人はすかさず私のドアを使って向こうに帰っちゃって、私は帰れなくなっちゃうのよね、きっと」

 竹山君が安心させるように微笑む。

「そうしたら僕がちゃんと迎えにくるから。だからいつもノートにちゃんと行き先を書いておいて」

 心がふわりとする。

「…うん」

 そしてもし竹山君がそんな目に遭ったら、私が迎えにくるから。

「でも、そうか…。別々の本から入っても会えるっていうことは、もしかして本当に、大宮さんが言ってたように、一つの物語の世界は一つだけっていうことなのかな…。でもそれじゃどうして他の誰にも会わないんだろう」

「そうね…」

 二人はしばらく黙ってナイチンゲールの声を聴いていた。やがてルーシィが木々に話しかけている声がした。耳を澄ませる。やはり英語だ。木々がさらさらと囁くように揺らぎ、ナイチンゲールが歌うのをやめ、辺りがしんとなった。

 期待するように木々を見上げているルーシィを見ながら、そっと言った。

「そういえばね、ピアノ弾いてみたの」

「『スウ姉さん』?」

「そう。もうすぐご飯の時間だったから、五分しかいられなかったけど。でもちゃんと弾けた。ケンダルさんのところのピアノ」

「ああ、腕を怪我した時のね」

「そう…」

 玲はほとほと感心して竹山君を見上げた。

「竹山君て…ほんとにすごい記憶力ね」

「いや、たまたま覚えてただけだよ。いいシーンだし」

 もう、謙遜するんだからなあ。

「音はどうだった?」

「申し分なし!でもね、一つ発見したことが。こっちからも本の中に何も持っていかれないのね。身につけてるもの以外は」

「ああ…楽譜?」

「そう。持って入ろうと思ったんだけど…こうやって腕に抱えて。でも向こうに着いたら腕の中は空っぽだった。それがちょっと残念。でもとっても楽しかった。あとね、」

 なんだか幼稚園から帰ったばかりの小さい子供みたいだ。

 お母さん、あのね、聞いて聞いて。

「竹山君に貸してもらった『Harry Potter』読んでたら、お母さんが来てね、英語の本貸してくれたの。『若草物語』と、『大草原の小さな町』と、『秘密の花園』と、『赤毛のアン』と、『ストーリーガール』」

 竹山君が目を丸くする。

「へえ、すごいな。お母さんも英語の本読むんだ」

「ううん、読もうと思って買ったけどまだ読んでないんだって。老後に読むんだから後で返せって言われたの」

「読もうと思うところがすごいよ」

「だって一応英文科出てるんだもの。それでね、他にも何冊かあるから、よかったら竹山君もどうぞ、って。『指輪物語』もあるって」

 竹山君が目を輝かせた。

「ほんと!読んでみたいなって思ってたんだ、『指輪物語』。特に歌とか詩のところ」

 そんな嬉しそうな顔を見ると、こちらも心の底から嬉しくなる。

「了解。じゃ、月曜に学校に持ってくね」

「ありがとう」

 竹山君が微笑む。

「大宮さんが英語が得意なのは、お母さんのおかげかな」 

 むむむ。

「おかげって言われると…なんだか悔しいような」

 口を尖らせて言うと、竹山君の目が面白そうに瞬いた。

「大宮さんって、もしかして負けず嫌い?」

 あたり。笑って首を竦める。

「実はちょっと。竹山君は?」

「そうだね、やっぱり兄貴がいるから。小さい頃からなんとか兄貴に勝ちたくて、でも勝てなくて」

 竹山君のお兄さんは、昨年玲たちと同じ中学の三年生だったけれど、どんな人か玲は知らない。ただ、超難関私立高校に入ったということだけは、噂で聞いて知っていた。さすが竹山君のお兄さん、というわけだ。

「勉強も剣道も、勝てた試しがないんだ。せめてゲームでは勝ちたくて、ほら、小さい頃ってお正月にかるたとかゲームとかするじゃない?ああいう時に、ズルしてまで勝とうとしたこともあるんだ。それでも勝てなかったけど」

「そうなの?」

 想像して笑ってしまう。なんだか意外。

「竹山君て、『周りは関係ありません。自分に勝つことが目標です』みたいな感じかと思ってた」

 スポーツ選手のインタビュー風に言うと、竹山君はおかしそうに笑った。

「そんなふうに思えればいいんだけど。結構競争心あるよ。兄貴に勝てないから、せめて他の人には負けたくない、って思うようになっちゃったのかもね。だから負けると悔しい」

 玲をちらりと見る。

「大宮さんにも負けた時も悔しかったし」

「ああ…」

 もちろん五教科総合ではない。教科別だ。英語と国語では何回か玲の名前が上だったことがある。

「それなのに、『Harry Potter』貸してくれるなんて。いいの?ライバルに塩送って」

 いたずらっぽく言うと、竹山君はすまして言った。

「それとこれとは別」

 玲は頭の中で考えた。

 「それ」とは何か。「これ」とは何か。それぞれ二十字以内で答えなさい。

 ルーシィはとっくにみんなのいる寝場所に帰ってしまっている。ナイチンゲールが、歌ってはやめ、また歌っては黙りしている。

 二人はどちらからともなく木々の間を歩きだした。

「すごい月の光。なんだか眩しいくらい」

 そう言ってから、玲は気がついた。

「そうか、これも竹山君と私ではきっと違う感じの光に見えてるのね」

「そうだろうね。僕が見てるのは、明るいけどしんとした感じの…冴えた感じの白銀色の光かな」

「私のはちょっと金色がかってる感じ。現実的じゃないね」

 竹山君が笑う。

「だって、現実じゃないんだもの」

「そうだね。…なんだか不思議。現実じゃないのね」

 玲は深く息を吸った。ひんやりした甘い空気。物語の世界の空気が肺に流れ込んでくる。

 現実じゃない場所を、物語の中を、竹山君と歩いている。

 やがて、入江が見えるところまで来た。水面が月明かりをいっぱいに映している。

「きれい…」

 口の中でつぶやいてから、玲はさっきから考えていたことを言葉にした。

「大人は、本の中に入れないのかな」

「…さあ、どうだろう」

「もし、子供だけが入れるんだったら、それだけで『訪問者』の人数がぐっと減るよね」

「そうだね。そして『今時の子供たち』はあまり本を読まないから、それでさらに人数が減る…」

 竹山君が玲を振り向く。

「実験、してみようか。日本語訳の本と、英語の本で。それで本の中で会えたら、何語だろうと誰の訳だろうとどこの出版だろうと関係なく、一つの物語の世界は本当に一つだけっていうのがわかる」

「うん!どのお話にする?」

「『赤毛のアン』は?大宮さんが英語担当で。せっかくお母さんの本があるんだから」

「えっ」

「あの最後のシーン。ギルバートとアンが仲直りするところ」

 玲の大好きなシーンだ。でも、英語…。

「読めるかな…」

 竹山君がにこりと笑う。

「お母さんに教えてもらったら」

「教えてなんかもらわなくったってできるもん…」

 思わずムッとして言いかけて、笑ってしまった。

「うまい、竹山君。操縦術」

「大丈夫だよ。読める」

「うん…読めることは読めるだろうけど、中に入り込むように読めるかどうか…」

「いきなりだとちょっと難しいかもしれないけど、何回か読んでからならできるよ」

「竹山君、やったことあるんだ。『Harry Potter』?」

「いや、『The Golden Compass』で」

 日本語で読んだことのない本で。すごい。

 負けてられないぞ、玲。

「わかった。やってみる。いつにする?」

「明日の夜?」

「同じ時間?」

「…で大丈夫?」

「うん。ちょうどいい感じ」

「じゃ、そうしよう」

 明日は土曜日で学校が休みだ。本当なら竹山君に月曜日まで会えないはずなのに、明日の夜も会えるなんて。すごく嬉しい。

「明日は剣道なんでしょ?」

「そう。午前中ね」

「そっか。私は午後に英語」

「へえ」

 竹山君が興味深そうな目をする。

「英会話?」

「ううん。英語塾、っていうのかな。先生のお家に習いにいってるの。昔イギリスに留学してたことのある女の先生。保田先生っていうの」

「一対一?」

「今はね。去年はお母さんの友達の子供と一緒にやってたの。違う学校の男の子。でもその子がやめちゃったから、今は私一人」

「いい先生?」

「とっても!発音もちゃんとイギリス英語だし、学校では教えてくれない色んなこと教えてくれるし…。あのね、前川先生をもっと優しい感じにしたような先生」

 竹山君が「む?」という顔になって宙を見上げる。

「前川先生を優しい感じに…想像するのが難しいな」

 竹山君のそんなコミカルな表情を見たのは初めてだった。おかしくてくすくす笑ってしまう。なんだか嬉しい。

 こんな顔もするんだ。

 昨日の夕方まで玲が知っていた竹山君は、物静かで、落ち着いていて、少し近寄り難い雰囲気を持った人だった。陰気というわけではなくて、誰とでもにこやかに、時には楽しそうに話はするけれど、冗談を言ったり、はしゃいだり、声を上げて笑ったりはしない。まるで大人か、それとも別の時代から来た人のようで、みんなとの間に一定の距離が感じられた。里奈のように「お高くとまっている」と思っている人が多いだろうと思う。

 昨日、小学六年生の竹山君に何が起こったのかを聞いて、玲にはそれが何故なのかわかったような気がした。

 竹山君は、注意深く、気をつけて、誰とも仲良くしすぎないようにしている。もうあんなふうに傷つかなくてすむように、自分だけのお城を築いて、厚いガラスの窓越しにみんなと接している。

 でも、私を助けに、お城の中から出てきてくれた。

 お高くとまってなんかない。

 こんなに優しくて、温かくて、素敵な人だ。

 でも、そんなことは、とうの昔から知っていたような気がした。 

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