第9話
Chap.9
あれやこれやと時間をかけて、色々な本の色々な場面を覗いてみた結果、『カスピアン王子のつのぶえ』でデートすることに決まった。待ち合わせは今夜九時半。念の為、事前にLINEで確認を取り合うことにした。
秋の日は釣瓶落としだ。あっという間に日が沈んでしまった後の藍色の空の下、竹山君は玲を家まで送ってくれた。
「きれいな色」
まだ日の名残の残っている空には、瑠璃紺、ネイビー、プルシアンブルー、青黛、青藍、コバルトブルー、濃藍…たくさんの「濃い青」がある。思わず見惚れてしまう。
「これも、僕と大宮さんでは、完全に同じ色に見えてるわけじゃないんだろうね、きっと」
「そうね」
二人で空を見上げながらぽっくりぽっくり歩いていると、近くの家からピアノの音が聞こえてきた。クレメンティのソナチネ。懐かしいな、と玲は頬を緩める。
「大宮さん、ピアノやってるんだよね」
「うん、でももうやめようかなって思ってるの」
「そうなんだ。どうして?」
「あんまり上手じゃないから」
竹山君が怪訝な顔をしたのが、見なくてもわかった。
「…上手じゃないからやめるの?」
「そう」
格好いい話ではない。でも竹山君には話してしまいたくなった。
「ピアノはね、好きなんだけど、でもピアニストになりたいとか音大に行きたいとか思ってるわけじゃないから…。私、小三の妹がいるんだけど、妹はね、ピアニストになりたいって言って、すごく真剣に練習してるの。我が妹ながら、歳にしてはかなり上手だと思う。そしたら、この前、妹のピアノを聞きながらお母さんが言ったの。『やっぱり、玲ちゃんと咲ちゃんじゃ、音が全然違うわね。ピアノに向かう真剣さが違うからかしら』。そして更に、『咲ちゃんのおかげでピアノが無駄にならなくてすんでよかったわー』って」
玲は、その時の気持ちを思い出して短いため息をついた。話を続ける。
「夕食前で、お父さんとお母さんと私でダイニングにいたの。お父さんが、ちょっと慌てて、『そんな言い方はないよね』とかなんとか言ってくれたんだけど、そしたらお母さんが『あら、だってやっぱりピアノは上手な人に弾いてもらうほうがいいじゃない?』って」
今度は竹山君がため息をついた。玲は明るい口調で続けた。
「悪気はね、ないんだと思うの。でも、ちょっとひどくない?」
「…ひどいね」
「でしょ。お母さんってそういうところあるの。たまにちょっと無神経っていうか。それでなんだか…、あんまり家で弾きたくなくなっちゃって。妹だって私が弾かなければもっと練習できるわけだし。もともと私も、三年生になったらやめようって思ってたから、だからいっそのこと、十一月の発表会を最後にやめようかなって」
「何弾くの」
「ショパンのベルスーズ」
竹山君が、へえと感心したような声をあげる。
「すごいね。あれ結構難しいじゃない?」
玲は竹山君を睨む真似をした。
「…竹山君て、どうしてそうやってなんでも知ってるの?」
「いや、なんでもなんてことないけど」
「ショパンのベルスーズ、なんて言ってわかる人、そうはいないと思うよ。ピアノやってたの?」
「まさか。…母がショパンのピアノ曲が好きで、うちでよくかけてたから」
「…そうなんだ」
「あれいい曲だよね」
「ね。いかにも愛がいっぱいの子守唄って感じで」
「聴いてみたいな。大宮さんの弾くベルスーズ」
玲は照れくさくて笑った。竹山君は本当に優しい人だ。
「上手じゃないから。絵とおんなじ」
竹山君がまたため息をつく。
「…もしかして、お母さんに絵のことも何か言われたとか?」
しまった、と玲は心の中で唇を噛んだ。口が滑ってしまった。
「さすが竹山君。大正解!」
茶化してみる。しかし対する竹山君は真剣そのものだ。
「なんて言われたの」
「『まあ玲ちゃんのは下手の横好きだけど、でも本人が楽しめるっていうのが一番大事なことよねー』」
お母さんの声色を真似て言ってから、玲は自分でびっくりした。
こんなふうに一言一句、声の高低まで覚えているなんて。私って執念深いのかな。
「それは、お母さん一人だけの個人的な評価であって、お母さんがそう言ったからって大宮さんが上手じゃないってことにはならないよ」
竹山君が静かに言う。
「うん、わかってる。あんまり気にしないようにしてる」
にこりとして言った。本当は気にしているし、竹山君もそれを見抜いているだろうなと思ったけれど。
家の前まで来ると、咲が練習しているのが聞こえてきた。バッハのイタリア協奏曲。
「ピアノだけどさ、本の中で弾けるかもしれないよ」
スクールバッグを渡してくれながら、竹山君が言った。
「本の中で?」
玲は目を丸くした。
「食べたり飲んだりできるんだから、楽器だって弾けるはずだと思う。試してみたら?」
それはすごい!
「うん!やってみる!ピアノだと…あ、『スウ姉さん』とかね」
竹山君が微笑む。
「『若草物語』って言おうと思ったけど、そうだね、『スウ姉さん』のほうがいいかもしれない。ちゃんと調律してありそうだもんね」
「音出るのかな」
「食べ物とか飲み物の味がちゃんとするんだから、音だって出るんじゃないかな」
「そうだよね。やってみる!」
嬉しさに心がわくわくする。誰にも聞かれずに、思う存分ピアノが弾けるかもしれないなんて!
「…あ」
竹山君が苦笑した。
「絵、忘れてきちゃったね」
「ああ…」
美術室から持って帰ってきた絵のことだ。すっかり忘れていた。
「どうしようか。週末に描くつもりだった?」
「ううん。だってモチーフないし」
「ああ、そうか、そうだね…。じゃ、預かっとくよ。クリップ外して乾かしておく」
クリップを外すということは、あの絵が人目に晒されるということで、ちょっと恥ずかしいけれど仕方がない。
「うん、ありがとう」
「じゃ、…また後で」
また後で、を秘密めかしてうんと小さい声で言う。微笑み合う。秘密基地を共有する子供同士の微笑み。
「うん。ありがとう、送ってくれて」
「どうしたしまして。じゃ」
笑顔で手を振り合って二人は別れた。
街灯の灯るなだらかな坂を下りていく竹山君の後ろ姿を見送る。咲の弾く、どちらかというときんきんした感じのイタリア協奏曲が、あまり雰囲気に合っていなくて残念だけれど、ああ、なんだか、心が桜色。
アンもこんな気持ちでギルバートを見送ったことがあったのかな。エミリーはテディを。ローラはアルマンゾを。
夕食のテーブルでお父さんに、
「今日は学校はどうだった」
と訊かれるまで、あの嫌な出来事は、頭の隅っこの方に押しやられて、小さく小さくなっていた。あの後はずっと竹山君と一緒だったし、家に帰ってきてからは今夜の「デート」の準備をしたり、ほんの短い時間だけだったけれどピアノを弾いたりしていたし——本の中で!——、思い出さずにすんでいたのだ。
「ああ、あのね…」
一呼吸して心の準備をする。ふと心配になって、ちらりと咲を見た。
「…後で話すよ」
無論、その言葉だけで、何か悪いことがあったと知らせることになってしまった。お父さんとお母さんの顔つきが変わる。お母さんが咲に言う。
「咲ちゃん、ちょっと向こうに行ってて」
「ええー」
お箸を握りしめて口を尖らせる咲に、
「言うこと聞いて。テレビつけていいから」
苛々した声で言うお母さん。
「ご飯の後でいいじゃない」
玲が言っても、
「いいから。咲ちゃん、早く!」
聞く耳持たないとはこのことだ。
「ごめんね、咲」
玲が言うと、咲は
「まあいいけど別にー」
と大人ぶってため息をつきながら、居間へ移動した。
「それで?」
お母さんが声を潜めて言う。
玲はきちんと間違いがないように思い出そうと努めながら、放課後のことを話した。心の隅で小さくなっていた黒いものが、みるみるうちに魔鳥が翼を広げたように大きくなって、辺りを暗くする。
玲が話し終わっても、お父さんもお母さんもしばらく無言だった。さすがのお母さんも、眉間に深い皺を寄せたまま言葉がない。ようやくお父さんが低い声で言った。
「…それで、その会話の録音は、水島先生が他の先生たちに聞かせるんだね?」
「そうだと思う」
「一体なんだってそんな教師を雇ったのかしらね」
鼻息荒くお母さんが言う。
「いつからいるの?」
「知らない。少なくとも去年はもういたけど」
「まったく!まるでヤクザじゃないの」
お母さんの目がつり上がっている。
「ほんと、そんな感じ。竹山君がね、あの様子だと、もしかしたら他にも悪いことしてるんじゃないかって言ってた。脅し慣れてるような感じだって。私もそう思った。すごく怖かった」
「竹山君には悪いことしちゃったわね…」
「うん。あんなことになるって思わなくて…。竹山君が一緒なの見たら、先生がそのまま帰してくれるだろうって思ったの。竹山君を追い払おうとするなんて思いもしなかった」
「その録音は、誰が持ってるの?」
とお父さん。
「竹山君と水島先生」
「玲は持ってないの?」
お母さんが割って入る。
「竹山君に、送ってもらってくれる?」
親に聞かれたいような録音ではない。でももちろん親なら聞きたいに決まっている。
「わかった」
「ねえ、まあだあ?」
居間から咲が声をあげる。
「はいはい。もうちょっと待ってね」
「その先生からLINEがきたりしてないの」
「そうそう、そういうことが多いんですって?」
「それは大丈夫」
「そういうことがあったらすぐ言うのよ。返信なんてしちゃ絶対だめよ」
「もちろん」
「お腹すいたー」
もう一度咲の声。
「はいはい!もういいわよ、来て」
お父さんに確認もせずに言うお母さん。玲がお父さんを見ると、お父さんは深刻な顔をしてため息をついていた。お父さんのそんな顔を見ると、慰めたくなる。
「大丈夫だよ。アンケートで、もし他にも何かやってるってわかったら、もしかしてクビになるかもしれないもの」
「そうだね…」
まだ深刻な顔をしているお父さんに、バッサリ袈裟懸けにしたい気持ち?と言って笑わせようかと思ったけれど、やめておいた。
その夜ほど、「スマホは居間に置いておく」というルールを変えてほしいと思ったことはなかった。しかし泣き言を言っても仕方がないので、さっさとお風呂に入って髪を乾かし、居間のソファに座り込んで、どきどきしながら『ハリーポッター』ならぬ『Harry Potter』を開く。もちろん傍には辞書。英和辞典と英英辞典だ。電子辞書も持っているけれど、ほとんど使わない。
英英辞典は、週に一度通っている英語塾の先生が勧めてくれたので買ってもらった。おお、かっこいい!と思って、最初は使う気満々だったのだけれど、あまり使えず、本棚の隅で埃をかぶっていたのを、引っ張り出してきたのだ。今度こそ、使いこなしてみせる。
「あら、英語で読んでるの?」
通りかかったお母さんが、後ろから覗き込む。
「うん」
「学校にこんなの置いてあるの?時代だわねえ」
「ううん。…友達が貸してくれたの」
「へえ。誰?」
やっぱり訊かれてしまった。
「…竹山君」
「あらあ。さすがねえ、こんなの読めちゃうんだ」
急いで話題の方向を修正する。
「お母さんも英語の本持ってる?」
お母さんは一応大学の英文科を卒業している。
「持ってるわよ。玲ちゃんも読んでみたい?」
「うん!」
「じゃ、今持ってきてあげる」
お母さんはなんだか弾んだ声でそう言うと、いそいそと居間を出て行った。
「うん」とは言ったものの、大学の授業でやったなんていう難しいオトナの文学を持ってこられても、絶対読めないと思うんだけどな、困ったな、と思いつつ、ゆっくりゆっくり『Harry Potter』を読んでいると、ぱたぱたと急ぎ足でお母さんが戻ってきた。
「はい。玲ちゃんが好きそうなのだとこの辺かな」
抱えてきた本をソファの前のテーブルに置く。
ハードカバーの本が五冊。
Anne of Green Gables(赤毛のアン)
The Story Girl(ストーリーガール)
Little Women(若草物語)
The Secret Garden(秘密の花園)
Little Town on the Prairie(大草原の小さな町)
玲は目を見張った。『Harry Potter』を注意深く傍に置いて、お母さんの持ってきてくれた本に手を伸ばす。
「すごぉい!」
宝の山を差し出されたような気持ちだ。どれもかなり古そうに見えるけれど、ちゃんとつやつやした透明のカバーがかけられている。
「お母さん、これみんな読んだの?」
「まさか」
お母さんが笑う。
「読みたいなーと思って買ったんだけどね、もう全然そんな時間なくて。だから玲ちゃんに貸したげる。あげるんじゃないわよ。老後はこういうのゆっくり読んで過ごすのが夢なんだから、その時は返してもらうからね」
「…ありがとう」
お母さんらしいなと思いながら、『The Story Girl』を手に取る。まだ日本語で読んでいないのは、この中ではこれだけだ。
即座に決心する。よし、これは絶対に日本語では読むまい。竹山君が『黄金の羅針盤』を読まずに『The Golden Compass』を読んだように、私も『ストーリーガール』を読まずに『Tha Story Girl』を読もう!
本を開いて中を見る。急に弱気になって心の中でつけ加える。
…英語を読むのにもうちょっと慣れてから、ね。
そこではっと思いついて、お母さんに訊いてみた。
「あのね、竹山君が読みたいって言ったら、貸してあげてもいい?」
お母さんはちょっと驚いた顔をした。
「そりゃいいけど…、でもこんな女の子の本読むかしら」
「竹山君は、この辺りのは全部読んでるみたい」
「へえ、さすが秀才は違うわねえ。じゃ、他にも何冊かあるから、リストを作ってあげる。ディケンズとか、キプリングとか、トウェインとか、スタインベックとか…ああ、トールキンもあるから」
「トールキン?『指輪物語』?」
「そう。玲ちゃんには難しいだろうと思って持ってこなかったけど、竹山君なら読めるでしょうから」
玲は口を尖らせた。失礼しちゃうな、もう。
「あ、そうそう、さっき玲ちゃんがお風呂に入ってる間に、加藤先生から電話があったのよ」
「えっ。なんて?」
「玲ちゃんから聞いたのと同じこと。先生も録音を聞いたんだって。本当に申し訳ございませんって謝ってたわ。加藤先生が悪いわけじゃないのにねえ。先生もずいぶんショック受けてるみたいよ。玲ちゃんは大丈夫かって訊かれたから、怖かったとは言ってましたけど、食欲もありますし、まあ大丈夫なようですって言っておいたけど」
お母さんが問いかけるように玲を見る。
「うん、大丈夫。でも二谷先生がこの先もずっと学校にいるってなると、ちょっと…嫌だなって思うけど」
「心配しなくていいわ。もし学校があの先生を追い出さないなら、親たちで追い出してみせるから」
「えっ」
「当たり前でしょ。そんなチンピラが学校にいるなんて冗談じゃないわ」
鼻息荒く言ってから、お母さんはにこりとした。
「ところで玲ちゃん、竹山君と付き合ってるの?」
いきなり訊かれて本を取り落としそうになる。
「う、ううん」
「本当?」
お父さんと違って、お母さんは追及する。
「本当」
言葉数を少なくするのがコツだ。
「ふうん。じゃ、ただの友達なの?」
ただの、が引っかかるけれど、そこは聞き流す。
「うん」
「家まで送ってくれたり、セクハラ教師から守ってくれたり、本を貸してくれたりするのに、ただの友達?」
しつこい。しかし挑発に乗ってはならない。
「うん」
お母さんはにやりと笑った。
「へえーえ。じゃ、ま、そういうことにしておきましょうかね」
そして、座っていたソファのアームレストから立ち上がると、
「お互い、勉強の邪魔にならないようにしなさいよ」
思わず「はーい」と言いかけて、いや、しらばっくれなくては、それにそもそも付き合ってるわけじゃないし、と思ったら、どんな顔をしていいかわからなくなって口元がもぐもぐしてしまった。お母さんはおかしそうに笑って居間を出ていった。
やれやれと思いながら、また『Harry Potter』を手に取って眺める。
竹山君も読んだ本。竹山君が貸してくれた竹山君の本。もちろんこれは本であって竹山君じゃないけれど、でも、なんだか竹山君の雰囲気が漂っているみたいな感じがする。
玲は頬を緩めてそっとページを開いた。
ただの友達とは、ちょっと違うよね。
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