第6話

Chap.6


 準備室のドアの上半分は窓になっているけれど、そこにはブラインドが下ろされていた。先生が中にいるかはわからない。緊張はするけれど、怖くはなかった。

 竹山君がいてくれるから大丈夫。

 竹山君がスマホで録音を開始して、玲に頷いてみせる。玲はよしと覚悟を決め、ドアをノックした。

「はーい。どうぞー」

 先生の声。玲はドアノブを回した。

「失礼します」

「ああ、玲。待ってたよー」

 デスクチェアごと振り返った先生は、玲の後ろから入ってきた竹山君を見て怪訝な顔をした。

「なんだ、竹山」

「はい」

「何か用か」

「いえ。付き添いです」

「大宮と話があるから、美術室に行ってろ」

 玲はぎょっとなった。

 まさかそんなことを言われるとは思っていなかった。

 どうしよう。

 すると竹山君が静かに言った。

「それはできません。付き添いですから」

 先生は腕組みをして椅子の背にもたれた。椅子がギュギューッと音を立てる。

「お前なあ、プライバシーって言葉知ってるだろう」

「はい」

「それを尊重しろっていうんだよ。俺と大宮は、今、二人だけで話さなきゃいけないことがあるの。そもそもなんだ、付き添いって。俺は大宮だけを呼んだのに、なに勝手についてきて…」

「竹山君には私がお願いして一緒に来てもらったんですっ」

 玲は夢中で遮った。考えるより先に口が動いていた。先生が椅子にふんぞり返ったまま玲を見る。

「なんで?」

「昨日みたいなことをされると嫌だからです!先生のしたことはセクハラです!」

「ええー?」 

 先生はしょうがないなあというように笑った。

「ああいうのはね、スキンシップっていうの。あんなことくらいでそんなカリカリしちゃうなんて、玲も意外と子供なんだなあ。外国行ったら困るぞー」

「あなたがスキンシップと称してやっていることはセクハラです。いつまでも生徒側が黙っていると思ったら、大間違いですよ」

 竹山君が淡々と言った。

 先生は竹山君を一瞥すると、玲に視線を戻し、薄笑いを浮かべてわざとらしくため息をついた。

「あのさあ、こんなことは言いたくないけどさあ、これが最後のチャンスだよ。竹山は美術室に行く。玲はここに残って俺と話をする。ここは学校で、俺は教師で、お前たちは生徒だからね。よーく考えな」

「できません」

「嫌です!」

 二人の声が重なった。先生はぐるりとデスクチェアを回して、二人に背を向けた。

「出てけ」

「…失礼します」

 二人が言ってドアを開けかけると、向こうを向いたまま先生が言った。

「お前らもう部活に来なくていいからなー」

「…わかりました」

 竹山君がドアを開け、玲を先に通してくれる。廊下に出てドアを閉め、数歩無言で歩いたところで、竹山君がポケットからスマホを出して録音を止めた。

「大丈夫?」

「うん」

「行こう」

 急ぎ足で、渡り廊下の近くに立っている里奈と水島先生のところへ向かう。耳の奥がじんじんと鳴っていた。

 まさか、まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。

 竹山君が一緒なのを見たら、先生が「いや、特に大事な話があったわけでもないから。また今度話そう」とかなんとか言って、すんなり部活に行かせてくれるだろうと思っていたのだ。

 考えが甘かった。甘すぎた。

 竹山君ではなくて、先生のうちの誰かに一緒に来てもらえばよかったのだ。どうしてこうなるかもしれないって事前に考えなかったんだろう。竹山君まで退部させられてしまったではないか。しかも先生にあんな嫌なことを言われて。

「竹山君…ごめんね」

「こっちこそごめん。つい言いすぎちゃったな」

 竹山君が笑って言ったので、玲はびっくりして竹山君の顔を見上げた。なんだか楽しそうな顔をしている。

 水島先生と里奈のところに戻ると、竹山君は楽しそうな笑みを浮かべたまま、

「退部させられました」

 と報告した。

「えっ」

「嘘っ」

 驚く二人に、竹山君は昨日進路指導室でしたように、何があったかをてきぱきと説明した。先生は難しい顔をして、里奈は目を丸くして聞いていた。

「録音できたのか」

 先生が訊く。

「できたと思います」

 竹山君がスマホを取り出して会話を再生する。

「はーい。どうぞー」

「失礼します」

 自分の声を聞いて、玲は思わず顔をしかめた。録音された自分の声を聞くのは好きじゃない。

「結構クリアですね」

「それは、あれか、俺のスマホに送れるのか?」

「はい。今しますか」

「ここでできるのか」

 頭を寄せ合って二つのスマホを覗き込んでいる先生と竹山君の隣で、里奈と玲はひそひそ話した。

「信じられない。なんて奴なの」

「ほんと。なんか…普通じゃないよ、あの先生。怖かった…」

 世の中に悪い人がいるということは、知識としてはもちろん知っていたけれど、身近に本当にあんな人がいるなんて。セクハラだけでも十分悪いのに、あんなふうに脅してくるなんて。

 あんな口調で誰かにものを言われたのは、生まれて初めてだった。

 怖い。

 世の中にはああいう人が本当にいるんだ。

「大丈夫だよ。こんな会話録音されたんだもの。学校にいられなくなるよきっと」

「そうかな…そうだといいけど」

 でもこんなことでクビになるだろうか。生徒に暴力を振るって、全治何ヶ月の怪我を負わせたとかいうわけではない。せいぜいしばらく謹慎になって、また戻ってくるんじゃないだろうか。そうしたら…どうしたらいいんだろう。

「こんにちはー」

 明るく声をかけられてびくっとした。美術部の一年生が二人通り過ぎていく。 

 挨拶を返しながら、ぼんやり考えた。

 そうだ。絵を美術室から取ってこなくちゃ。

 竹山君の方を見ると、竹山君もこっちを見ていた。

「絵、取りに行ってこようか」

 以心伝心。

「うん、今なら多分まだ大丈夫だと思うし」

 先生は、いつも部活が始まってだいぶしてから美術室に現れる。

「そんなことしなくていい。退部にはさせないから」

 水島先生がきっぱりと言う。

「でも、嫌がらせをされる可能性もあります。絵に傷をつけられたりするかもしれません」

 竹山君が言って、玲も強く頷いた。あの先生のことだ。何をされるかわからない。

 水島先生は眉をよせてため息をついた。

「…そうだな。今取ってこられるか」

「はい」

「じゃあ一緒に行こう。森崎は、部活はいいのか」

 里奈が頷く。

「大丈夫です」

 四人で美術室へ向かう。

「大宮さん、キャンバスクリップ持ってる?」

「うん、教室にある」

「よかった。僕、家に置きっぱなしにしてて。頼める?」

「もちろん。サイズ同じだよね」

 キャンバスクリップは、まだ絵の具の乾いていないキャンバスを持ち運ぶときに便利な道具だ。二枚のキャンバスを向かい合わせにして、1cmくらいの間を開けて固定することできる。

 四人が美術室に入ると、あちらこちらで準備をしたりおしゃべりをしたりしていた部員たちが、みんなこちらを見た。やはり教師の存在というのは異質なもので、自然とみんなが注目し、静かになる。水島先生は、気にするなというように手を振って、みんなに作業を続けるように伝えた。

 玲と竹山君は荷物を水島先生と里奈の近くに残して、美術室前方の隅にある絵画乾燥棚に直行し、すぐ近くにある準備室に通じるドアを気にしながら、注意深くそれぞれのキャンバスを引き出した。近くにいた、玲と同じクラスの河野 そう君が、声をひそめて訊く。

「何、竹やん、どしたの」

「ちょっとね。退部させられたんだ」

 竹山君がにこりとして囁き返す。河野君が目を丸くする。

「まじ?もしかして昨日のセクハラのこと?抗議したの?」

 ああ、やっぱりもう噂が広がっている。玲の耳が熱くなる。

「うん、まあそんなとこ。出てけって言われた」

「ひでえ。大宮さん、だいじょぶ?」

 玲はちょっとびっくりしたけれど、笑顔で答えた。

「うん。ありがとう」

 雰囲気も話し方も荒っぽい感じの河野君とは、あまり話したことがなかったけれど、気遣ってくれて嬉しかった。

 それぞれキャンバスを片手で下げて、美術室後方のドアに向かって急ぐ。

 美術室の真ん中辺りまで来た時、準備室に通じるドアの開く音がして、後ろから声がかかった。

「何やってんだお前ら」

 びくりとして玲の足は止まってしまった。後ろを歩いていた竹山君が、玲を追い越しながら、絵を持っていないほうの腕を掴む。

「無視無視」

 竹山君に腕を掴まれたまま歩き出した玲を、二谷先生の声が追いかけてくる。

「絵を持ってっていいって誰が言った?」

「大宮!竹山!早く来い!」

 二谷先生よりも大きな声で水島先生が呼んだ。二人を呼ぶためではなく二谷先生に聞かせるために呼んだのだと、みんなにわかるような呼び方だった。

 美術室は水を打ったように静かになった。玲と竹山君の足音だけが響く。里奈と水島先生が玲と竹山君の荷物を持ってくれて、四人は速やかに美術室を後にした。

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