第7話

Chap.7


 部活へ行く里奈と階段の下で別れ、玲と竹山君はまず玲の教室まで行き、二つのキャンバスをクリップで固定してから帰宅の途に着いた。水島先生はずっと二人に同行し、昇降口まで見送ってくれた。

「気をつけて帰れよ。部活のことは心配するな。すぐ復帰できるから」

 復帰したいかどうかわからないな、と先生に挨拶をしながら玲は思った。二谷先生がいる限り、もう美術部には戻りたくない。

 ちらほらと紅葉の始まっている桜並木を歩きながら、日のだいぶ傾いた空を見上げる。物憂げな午後の光。朝よりも少し雲が多い。

 昨日に続いて、なんだかすごい日だった。

 思わず大きなため息をついてしまった玲を、竹山君が心配そうに見下ろす。

「疲れた?」

「うん…なんだか…。なんだかね、怖くて嫌なことの起こる本を読んだ後みたいな気持ち。あんな嫌な人がいるなんて…。本の中の登場人物だったら、本を閉じてしまえばもう会わなくてすむけど、現実じゃそうもいかない」

 そう言ってから、玲は改めて竹山君に謝った。

「ほんとにごめんね。竹山君まで退部させられて、あんな嫌なこと言われて…」

 二谷先生の竹山君に対する態度を思い出すと、はらわたが煮え繰り返る。あなたなんか竹山君の靴の紐を結ぶ値打ちもないのだ!と言ってやりたい。

「大宮さんのせいじゃないよ。それに、絵は家でだって描けるしね。大体あいつ、部活でだってたいして指導してくれないじゃない?」

 玲は驚いた。そういえば本当にそうだ。

「ほんと。美術の先生のくせにほとんど何も教えてくれてないよね。今気づいた。どうしてあんな人雇ったんだろう、学校は」

「まったくね。そういうことも、生徒側にちゃんとオープンになればいいのにと思うよ」

「ほんと。教わるのは私たちなのにね。…やだな、卒業するまでずっとあの先生がいるなんて」

「もしかして、やめさせられるかもしれないよ」

 玲は竹山君を見上げた。

「そう思う?」

「うん…もしかしたらね。昨日はそう思わなかったけど、でも今日のあいつの態度見て思ったんだ。あれはもしかして、他にも悪いことしてるんじゃないかって。なんていうか…脅し慣れてるっていうのか」

 玲は頷いた。

「ほんと、びっくりした。本物の『悪い人』っていう感じで」

「月曜日にセクハラについてのアンケートやるって、聞いた?」

「うん、加藤先生から昨日お母さんに電話があって、そう言ってたって」

「僕は今日水島先生から聞いたんだけど、その時に先生に訊いてみたんだ。あいつがクビになる可能性があるかって。先生は、これが大宮さんの一件だけだったら難しいかもしれないけど、アンケートで他に色々出てきたら、もしかしたら可能かもしれないって言ってた。それに加えて、今日のあの会話の録音があるから…」

 玲が嬉しそうに息を呑んだので、竹山君がちょっと笑った。

「あまり期待しちゃうとあれだけど、でもね、可能性はあるんじゃないかな。ほんとは、大宮さんの昨日の一件だけでも、十分クビにするべきだと思うけどね。あんなことがあっていいはずないんだ」

「ほんとにそうよね。…今日は私に何するつもりだったんだろう」

 口に出して自分でぞっとした。全身に鳥肌が立つ。

 竹山君がそっと言う。

「そんなことあんまり考えない方がいいよ」

「そうだね」

 急いで頷く。

「で、昨日はコリンたちに会えた?」

 竹山君のその言葉で、ぱっと周りの彩りが明るくなった。

「うん、あのね、入るのは簡単にできたの。でもね、周囲が一気に現実みたいになるでしょ。そうしたら、今度はなんだか自分のほうが現実のものじゃなくなったみたいで、自分が存在してないような、幻になったみたいな感じがしちゃって、すごく心細くなって、それでとりあえず落ち着こうって思って、まずドアがちゃんとあるか辺りを見回したのね。そしたら、ドアはあったけど、閉まってたの。なんとなく、半開きのドアのイメージがあったから、ぴったり閉まってるドアを見てパニックになっちゃって…。開かなかったらどうしよう!って思ってドアに飛びついたら、するっと簡単に開いて、勢い余って机にぶつかっちゃった」

 夢中になって早口で一気に話すと、竹山君がおかしそうに笑った。

「そうか…。でもよくわかるよ、その気持ち。自分のほうが影か幻になったような、みんなは存在してるのに、自分だけ存在していないみたいなね」

「そう!ね、ドアっていつも閉まってるもの?」

「そうだね。少なくとも僕が入る時はいつも閉まってるよ。でも帰ろうとしたら開かなかったなんてことは一度もないから、大丈夫」

「よかった。あとね、パニックになってたからちょっと自信ないんだけど、でも、聞こえたのが英語だったような気がするんだけど」

「うん、僕も聞こえるのは英語だよ」

「どうして?日本語訳の本に入ったのに」

「推測でしかないけど、やっぱりそれは原作が英語だからじゃないかな」

「…っていうことはね、もしかしてやっぱり、そこは、同じ一つの世界なのかもしれないって思わない?例えば『秘密の花園』なら、『秘密の花園』の世界は一つだけで、どの本から入っても、同じ一つの世界だって」

 昨夜眠るまでも、今日の授業中も、玲はそのことをずっと考えていたのだ。

 竹山君はうーんと唸った。

「それはどうかな。だって、『秘密の花園』なんて世界中で読まれてる物語じゃない?どの本からも同じ一つの『秘密の花園』の世界に通じてるんだったら、僕たちみたいな『訪問者』がうじゃうじゃいるはずだよ」

「でもね、ただ読むだけじゃ、本の中に入れないでしょ?私だって、竹山君だって、本を読むときにその中に入り込んじゃうような読み方をする。でも、いつも入るわけじゃない。竹山君は六年生の時まで、私は昨日まで、そんなことが可能だってことも知らなかった。『秘密の花園』を読む人みんなが、中に入り込んじゃうような読み方をするわけじゃないし、中に入り込んじゃうような読み方をする人たちだって、本の中に入れるって知ってる人たちばかりじゃないと思うの。入りたいなんて思ったことのない人たちだって、たくさんいると思う」

「…なるほどね…」

 竹山君はしばし考えたあと、にこりと笑った。

「色々二人で実験できることがありそうだね」

「うん!」

 玲は嬉しくなって頷いた。スキップでもしたい気分だ。時間もたっぷりある。退部結構。万々歳だ。

「時間もあることだし」

 竹山君が言ったので、玲はおかしくて笑った。

「私も今そう思ってたの」

「じゃ、今日はどうしようか。うちに寄ってく?」

「いいの?」

 なんだかちょっとどきどきする。

「もちろん。どの本にしようか」

「うーん、そうだな…。あ、ムーミンなんかは?」

「ごめん、持ってない」

「そっか。あんまり好きじゃない?」

「実は読んだことないんだ」

「えー!」 

 玲は盛大に驚いてしまった。竹山君が苦笑する。

「そんなに驚く?」

「ごめん。でも、なんていうか…。ムーミンって、定番かと思ってた。どうして読んだことないの?」

「どうしてって言われても…。どうしてだろうな。あれってキャラクターもので女の子がグッズを持ってたりするし、それでなんとなく本に結びつかなくて…それでかな。大宮さん、ムーミン好きなの?」

「好き。独特の世界で、読んでて不思議な感じになるの。他の物語と一味違う感じ。竹山君もきっと気にいると思うけど」

「じゃ、読んでみるよ。確かシリーズだよね、あれ」

「そう。えーとね、…うん、確か九冊だと思う」

「原作は何語だろう」

「スウェーデン語、だったかな」

「そうか、残念」

 玲は竹山君を見上げた。

「英語だったら英語で読もうと思った?」

「うん、やってみてもいいかもって」

 思い切って訊いてみる。

「私も何か英語で読んでみようかなって思ってるんだけど…。竹山君、どれかおすすめある?」

「ハリーポッターかな。現代の英語だからなのかもしれないけど、読みやすいよ。僕も一番最初はハリーポッターだった」

「…まさか七冊全部英語で読んだの?」

「うん。…いや、そんな顔しないで」

 仰天した玲に凝視されて、竹山君が困ったように微笑んだ。

「…すごい」

「すごくないよ。だって一度日本語で読んでるんだから。話を知ってると、結構すらすら読めるよ。話を知らないで読むのとは全然違う。それに、ああ、そこはそう言うのか、とかいろいろ発見があって楽しいし」

 なるほど。

「そうか…。じゃあ、読んでみようかな…」

 呟くと竹山君がにこりとする。

「よかったら貸すよ」

 どっきりする。すごく嬉しいけど、でも…。

「いいの?ものすごく時間かかっちゃうと思うんだけど」

「全然構わないよ」

 ちょっとためらった後、玲は思い切って頷いた。

「ありがとう。じゃ、頑張って読んでみる」


 竹山君の部屋は、オフホワイトと落ち着いた淡いサップグリーンを基調とした明るい部屋だった。綺麗に整頓されている。大きさは多分玲の部屋と同じくらいなはずなのに、玲の部屋よりも広々として見えるのは、きっとそのせいだろう。勉強机の上もきちっと片付いている。 

 とても竹山君らしい部屋だなと感心しながら、玲はこっそり反省した。

 私だったら、帰りに誰かが寄るなんてことになったら、「ちょっと待っててね!」とまず一人で二階に駆け上がり、片付けなくては通せない。これからは竹山君を見習ってもうちょっときちんとしよう。

 それにしても、男の子というものは部屋を散らかすものだと思っていた。玲には年の近い従兄が二人いるけれど、伯母さんがいつも、二人の部屋は「第三次世界大戦の真っ最中みたい」で足の踏み場もない、と言っている。男の子にも色々いるんだろうな、きっと。

 二人は部屋の真ん中に置かれているローテーブルの前に並んで座っていた。テーブルの上には木製のシンプルなブックスタンドが置かれていて、竹山君が

「ええと…ここだね」

 と言いながら、そこにさっき二人で決めた『朝びらき丸東の海へ』の185ページを開いて置く。そのページを見て玲は心配になった。

「これ、文章が途中で切れてるのね。大丈夫?」

「もちろん。で、そうだな、ここの『静まりかえっていました。』まで読もう」

「っていうことは、開いておくのは186ページっていうこと?」

「そう」

「でもそうすると、『のうなしあんよ』たちにも遭遇しちゃうじゃない?」

「185ページを開いていても、『のうなしあんよ』たちには遭遇するよ。続いてる場面だし」

「そうなの…」

 なんだか少し不安だ。竹山君が安心させるようににこりとする。

「心配ないよ。向こうは僕達に気づかないから。ここにこうやって書いて…」

 言いながら、竹山君は黒いハードカバーのノートを開けて、今日の日付と今の時刻を書き入れ、

「『朝びらき丸東の海へ』186ページ。大宮さんと。実験」

 と書いた。綺麗な字。

「あ、そうだ。靴は履かないの?」

「ああ、そうそう。うっかりしちゃった」

 竹山君は、勉強机の脇から青いラインの入った体育館シューズを持ってきた。学校で使っているのと同じだ。

 玲はうふふと笑って、スクールバッグから用意しておいた同じ青いラインの入った体育館シューズを取り出した。

「おんなじ」

 二学期から使おうと思って買ってもらったのだけれど、古いのがまだなんとか履けるので、箱に入れたままクローゼットに置いてあったのだ。

 こんな小さな偶然でも嬉しい。

 制服を着ているので、二人揃って体育館シューズを履くと、何やら学校行事に臨むようだ。

「よし、じゃ、やってみよう。章の最初から読む?」

「そうね」

「ページめくってよかったら、頷いて合図して」

「了解」

 ちょっと緊張する。

 二人一緒に、物語の世界に入ることができるのだろうか。

 入れるといいな。

 玲はふっと息を吐いてから読み始めた。

 いつもそうだけれど、確かに読み始める時は「読んで」いる。目が印刷された字を追っているだけだ。それがいつの間にか、半分字を追いながら、半分本の中の世界にいるようになり、やがて字を追っているという感覚が消える。完全に本の中の世界に入ってしまう。それでもページをめくるところにくると、手がひとりでにページをめくるわけだから、目は確かに常に字を追っているはずなのだ。その辺が不思議だなと、玲はよく思う。

 今も、本の中にいながらも、ページをめくるところにくると自然に竹山君に頷いていた。

「そのうちに一同は、一すじの長い、まっすぐな砂地の道にさしかかりました。道には、雑草一本生えていないで、両がわに並木がならんでいます。この小道のはるかさきのつきあたりに、一軒のやしきが見えました。午後の日ざしのなかに、たいへん細長くて黒っぽい家が、静まりかえっていました。」

 不思議な静けさの中の、奇妙に整えられた場所。綺麗な芝生。真っ直ぐな道。みんなの足音が、何か妙な感じに響いて辺りに吸い込まれていく。午後の光の中、道を縁取る背の高い木々が、時折吹く風に葉ずれの音をさせながら、行儀良く等間隔の影を落としている。玲は目を閉じた。ここにいたい。

 途端に気持ちのいい風が耳元を吹き抜け、髪がふわりと揺れた。

 「できたね」

 竹山君の声に驚いて、玲は目を開けた。ほんのちょっとの間だったけれど、竹山君が一緒にいることをすっかり忘れていた。

 見渡す限り広がっている、なめらかなベルベットのように整えられた美しい芝生の緑が、さっきよりもずっとくっきりしている。空気には仄かに海の匂いが感じられ、すぐ近くに、制服を着た竹山君が微笑んで立っていた。

「ほんと!二人で一緒に入れるんだ!」

 二人が立っているのは、並木道のすぐ脇だった。少し向こうの木の根元には、座り込んで靴を脱ごうとしているルーシィがいて、並木道のもっと向こうに、他のみんながこちらに背を向けて歩いていく。

 青い空。清々しい空気。玲は思い切り深呼吸した。

「気持ちいいとこだよね」

 竹山君も目を細めて辺りを見回す。

「ここね、いつもいいなあって思ってたの。この不思議な静けさ。空気の中になんだか魔法が漂ってるような」

「魔法か…。そうだね、わかる気がする」

 竹山君も頷いた。

「そうだ。ドア、見てみた?」

「ドア?…ああ」

 竹山君が一緒にいてくれるので、すっかり安心して、帰るためのドアのことすら忘れていた。

 辺りを見回すと、斜め後ろ、二人からちょっと離れたところに、真っ白なドアが二つ並んで立っていた。どちらもきっちり閉まっている。

「そっか。やっぱり閉まってるのね。…どっちが竹山君のでどっちが私のだろう」

「うーん…。わからないけど、でも同じ場所から来たんだから、どっちでも同じなんじゃないかな」

 玲はあることを思いついてくすっと笑った。

「あのドアがね、場所じゃなくて、現実の私達の中に戻るためのドアだったらどうする?間違った方を選んじゃうと、私が竹山君の中に入っちゃって、竹山君が私の中に入っちゃうの」

 言ってから、一瞬のうちにあれこれ想像してしまって赤くなった。

 そんなことがあったら困る。ものすごく。

 見ると竹山君も困ったような顔をして、

「それは…なんていうか、ちょっと具合が悪いな。でも、多分そういうことにはならないと思うよ。現実世界に身体を置いてきているわけじゃないから」

「ああ、そうか…。身体ごとここに来てるんだっけ」

「そう。兄貴の前でやったことがあるって話したでしょ。兄貴曰く、突然姿が消えるって…」 

 そこへ、向こうから、どしん、どしん、という音がたくさん聞こえてきた。

 『のうなしあんよ』たちだ。

「来たね」

「本当に私たちのこと見えない?」

 物語の中では、ルーシィは木の陰に隠れていたから彼らに見つからなくてすんだけれど、玲も竹山君も開けた芝生に立っている。一発で見つかってしまう…というより、見えているなら「時すでに遅し」だ。

「大丈夫だよ」

 音はどんどん近づいてくる。なんだかやっぱりちょっと怖い。

「ね、コリアキンの屋敷には入れる?」

「うーん、どうかな。あれは結構先のページだから、ちょっと無理かも。でもどこまで近づけるか、行ってみる?」

 二人は、長い並木道の向こうに見えている屋敷に向かって、芝生の上を歩き出した。体育館シューズの下のふかふかの芝生が心地いい。

「何ページ先までなら行かれる、って決まっているわけじゃないんでしょ?」

「そういう基準はないみたい。例えば同じページ内だって、場面が変わってたりしたら、そこへは行かれないしね」

 玲はちょっと考えた。

「じゃ、登場人物たちにずっとくっついていく、っていうこともできない?」

「彼らが他の場面に移動してしまえばね。例えば、『秘密の花園』の、あのディッコンのお母さんが庭に来た日。あそこなんかだと、かなり長いこと彼らといられるけど、でもそれも彼らが庭を出るまで」

「みんなが庭を出てしまったら、そのあと庭はどうなるの?」

「どうもならないよ。いたければ多分いつまででもそこにいられると思う。でも、日が暮れて夜になったりはしないと思う。一度だけ、現実の時間で二時間待ってみたことがあったんだ。どうなるのかと思って。その時は、何も起こらなかった。彼らが帰ってしまった後、空の様子も、陽の光の様子も、何も変わらなかった。でも、時間が止まってしまうっていうわけではないんだと思う。だって、風が吹いたり、蜂の飛んでる音がしたりしてたから」

「みんながまた戻ってきて、そのシーンが繰り返されたり、っていうこともないんだ」

「うん、少なくとも二時間ではそれは起こらなかったね」

「みんなについていこうとしたことある?」

「あるよ。僕だけ庭から出られなかった。透明の壁があるみたいな感じで」

「そうなんだ…」

 玲は目を丸くして頷いた。後ろの方からは、『のうなしあんよ』たちがわあわあ言っている声が聞こえる。

 さあっと風が吹いた。髪が風になびく。気持ちがいい。

 それにしてもなんて美しく手入れされた芝生だろう。広い広い緑の芝生。芝刈り機もなしに(多分ないだろう)、これだけの面積をこんなにきちんと手入れするなんて、ものすごく大変なことに違いない。色々と問題があるにせよ、『のうなしあんよ』たちは、少なくとも芝生の手入れはきちんとしているわけだ。

 そこで玲は、ふとあることに気がついた。

「あのね、これって、…これって本の中なわけでしょう」

「そうだね」

「私たちが読んだから、私たちはここにいるわけなんだけど、読んだ本は同じでも、読んだのは、二人の違う人間じゃない?」

「うん」

「っていうことは、…きっと私たち、今こうして同じ場所にいるけど、多分、色々なものが違って見えてるんじゃないかな。この芝生の色とか状態とか、空の色とか、風の匂いとか、」

 並木道の方を見る。

「…あの木の高さとか葉の形とか、ルーシィの服の色とかも」

 竹山君は感心したように唸った。

「…なるほどね。そうかもしれない。本に書いてないことは、読む側の想像に任されてるわけだからね」

 木の陰に隠れて『のうなしあんよ』たちの話に耳をすましているルーシィが見える。玲に見えるのは薄いピンク色の服だ。竹山君に訊いてみる。

「ルーシィの服、何色?」

「ライトグレイ」

「薄いピンク」

「ほんとだ。違うんだ…」

 楽しそうに笑って竹山君が玲を見る。

「大宮さんって、すごい人だね」

「え?」

「昨日の今日で、もうそんなことを発見してる」

「そんな。たまたま思いついただけ。だってね、現実世界でだって、そうなんじゃないかなってたまに思うから」

「どういう意味?」

「絵を描いてて思ったの。色のことなんだけど。人はみんな違う目を持ってるわけでしょ。神経だって脳だって。色が全く同じように見えてるなんてありえない気がしない?私が見ているプルシアンブルーと、竹山君が見ているプルシアンブルーは、きっと違うんだと思うの」

「…なるほどね…」

 竹山君は視線を宙に浮かせて頷いた。

「…考えてみたことなかったよ、そんなこと。なるほど…おもしろいね」

 ふわりと微笑んで玲を見る。

「大宮さんがどうしてあんないい絵を描けるのか、わかった気がする」

 胸の奥がじんとして、玲は思わず片手を胸元にやった。

 今まで誰に何を褒められた時よりも、一番嬉しかった。

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