第3話

Chap.3


 竹山君は横断歩道を渡り出した。目を見開いた玲が、二、三拍遅れて追いかける。

「…どういう意味?物語の中の世界に入れるの?」

「大宮さんなら多分入れると思う」

 竹山君が言う。

「竹山君は入れるの?」

「うん。でも誰でも入れるってわけじゃないらしいんだ。うちの兄貴は入れなかった。けど、話を聞いてる感じでは、大宮さんなら入れると思う。本の読み方が僕とすごく似てるから」

「入るって、入るって、入れるってことなの?」

 ほんっとーうに、と発音して訊く。

「うん。大宮さんもさっき言ってたじゃない?本当に森の中にいて、周りに木があって、足元では枯葉が音をさせて、湿った空気に森の匂いを感じて、って。それがもっとはっきりする感じ。色々なものに触れることができて、飲んだり食べたりもできて…」

「飲んだり食べたり?!」

「そう」

 玲ははっとした。

「も、もしかして、登場人物と話せたりする?まさかね」

「初めはできない。こっちは彼らにとって透明人間みたいな感じなんだ。でも何度も行くうちに、だんだんこっちの存在に気づいてくれるようになって、少しはコミュニケーションが取れるようになる…ちょっと妙な感じのコミュニケーションではあるけどね」

 妙だろうがなんだろうが構わなかった。アンやアトレーユやピーターやジョーに会えるんだ!

 胸の前で両手を握りしめて、第七天国にでも昇ったような顔をしている玲を見て、竹山君が微笑んだ。

「やってみたい?」

 玲は言葉もなくこくこく頷いた。

「じゃ、まず絶対に気をつけなきゃいけないこと。やる時は、本を開いたままにしておかないといけない。中に入っているときに本が閉じられちゃうと、帰って来られなくなる。だから、人に本をいじられないような状況でやらないとだめなんだ。

 例えば、周りに誰もいないからって、図書館だの図書室だのの片隅でやっちゃうと、本の中にいる間に誰かが来て、本を片付けられちゃうかもしれない。自分の部屋でやるときでも、例えばお母さんが入ってきて、机の上に開いてある本をぱらぱらっと見た後閉じてしまったりしたら、それでもうアウト」

「帰って来られなくなったことあるの?」 

「あるよ。兄貴が悪ふざけして本を閉じちゃったんだ。『朝びらき丸』に乗ってたんだけど、ドアが消えてぎょっとした」

「ドアができるんだ」

「そう。そこからいつでも帰れる。でも、逆に言えばそこからしか帰れない。だから、ドアの場所をちゃんと覚えておかないとだめだよ」

「了解。いいなあ、『朝びらき丸』に乗ったんだ。どうだった?」

 竹山君は苦笑した。

「すごい揺れててすぐに船酔いしちゃったよ。それなのにドアがなくて帰れなくて。あれはまいったな。たった五分くらいのことだったんだけどね。もっとずっと長く感じた」

「でもその後、お兄さんがまた本を開いてくれたから、帰ってこれたのね?」

「そう。で、そういう場合、開けるのは、入ったのと同じページじゃなきゃいけないからね。それも実験済み」

 玲はちょっと考えた。

「…じゃあ、念の為、置き手紙みたいのをしたほうがいいのね。この本の何ページに行きます、って」

「その通り」

「入るのと出るのは同じ本じゃなきゃだめなの?つまりね、私と竹山君が同じ本を持ってるとするでしょ。同じページを開いておいたら、私が本の中に入っている間に、私の本を、例えば私のお母さんが閉じちゃったとしても、竹山君の本から出てこられない?」

 竹山君はふむ、という顔をした。

「それは実験してないな。でも多分同じ本、というか同じ個体じゃなきゃだめなんだと思うよ。入るのは、その一冊の本だけの世界だと思うから。だってそうじゃなかったら、本の中で他の読者たち——『訪問者』たちに会うはずだもの」

「そうね…。でも、本の中に入れる人ってそんなにたくさんいると思う?」

「いると思うよ。だって何も特別な力とか魔法とかが必要なわけじゃないもの」

「どうやるの?」

「簡単だよ。ただ願えばいいんだ」

 玲はちょっと拍子抜けした。

「願う?『ここに行きたい』って?」

「そう。うんと強くね。いつもみたいに、物語の中に入り込んでいる状態になっているときに、強く願うんだ。『本当にここにいたい』って」

「強く、ね…」

 玲は頷いた。

 強く願う。簡単そうに聞こえるけど、それだけになんだか難しそうだ。そんなに強く願うことが私にできるだろうか。

「竹山君は、どうして本の中に入れるようになったの?」

「ん…、ちょっと長い話になっちゃうけど」

 いい?と竹山君の目が言う。玲は、もちろんと頷いた。

 角の薬局を曲がって、街灯に照らされた夜の住宅街に入る。一歩ずつ大通りの騒音が遠ざかる。

「六年生の夏休みに、母が亡くなったんだ」

 玲は目を見開いた。

 そんなことちっとも知らなかった。

 竹山君は中学に入るときにこの町に引っ越してきたから、小学校は玲と同じではなかったのだ。

 さっき賑やかに母の話をしてしまったことを後悔する。

「交通事故だった。ちゃんと横断歩道を、信号を守って渡っていたのに、突っ込んできたバイクにはねられた。そんな事故に遭うなんて、すごい運の悪さだ、しかもトラックとかじゃなくてたかがバイクにはねられただけなのに死ぬなんて、よっぽど運が悪かったんだ、ってことになって、誰かが言い出したらしいんだ。僕と仲良くすると悪運がつくかもしれない、悪いことが起こるかもしれない、って。そのうちそれが、僕と仲良くすると親が死ぬかもしれない、になった」

 玲は息を呑んだ。

「…ひどい」

「ひどいよね。それで二学期が始まったら、みんなに避けられるようになってた。最初はみんな僕を気の毒に思って、どう接したらいいかわからなくて、それでなんとなくぎこちなくなってるのかなと思ってたんだ。そのうちに周りはどんどんエスカレートして、ついには『海斗の机に触ったら親が死ぬ』ってところまでになった。それで僕もようやく気づいたんだ。僕の机に誤って触っちゃった女の子が泣いちゃってね。親が死んじゃったらどうしよう、って。他の子達がその子を慰めてる言葉を聞いていて、どういうことなのかわかった。さすがにショックだったよ。次の日は学校に行かれなかった」

 玲は、竹山君の顔を見ることができなかった。

 ひどい。なんてひどい。

 街灯に照らされたアスファルトの上の白線が、涙でぼやける。

 膝を抱えて部屋の隅にうずくまる小学六年生の竹山君が見えるような気がした。

「兄貴はその時中二だったんだけど、小学校の時担任だった先生とまだ仲良くしててね。僕から話を聞きだした兄貴が、すぐにその先生に話してくれた。もちろん、あっという間に話が広がって大騒ぎになったよ。臨時の全校集会が開かれて、校長先生がすごい剣幕で『けしからん』と『大変嘆かわしい』を連発して演説ぶったり、クラスの子たちが親と一緒にうちに謝りにきたり、担任の先生が泣きながらお説教して、クラス全員に僕に対する謝罪の手紙を書かせたりね。

 僕は…まあ、なんていうか、優等生で、大人に好かれるタイプの子供だったし、状況が状況だったから、大人達は懸命に僕を守ろうとしてくれた。クラスのみんなももう僕を避けたりはしなくなったし、悪いことしたって思ってるらしいのはわかった。表面上は前みたいにつき合えるようになったけど、やっぱりもう、ね。クラスの誰のことも、もう好きだとは思えなくなった。…ごめん。泣かせちゃったね」

 玲がハンカチで涙を拭いているのに気づいた竹山君が、申し訳なさそうに小さく笑った。

「…辛かったでしょう」

 玲は鼻声でそう言うのがやっとだった。胸が痛くて喉が詰まる。

「そうだね。母はいなくなるし、友達もいなくなるし。

 そんなある日、母のだった『秘密の花園』を読んでた。あの頃は、毎日のように母のだった本を色々引っ張り出して読んでたんだ。たぶん、できるだけ母の残した…雰囲気みたいなものを、感じていたかったんだと思う。それが、僕が女の子向けの本も色々読んでる理由。

 とにかく、その『秘密の花園』を読んでいた時、ほら、ディッコンのお母さんが初めて庭に来た日の話があるでしょ。あそこを読んでいて、——僕も大宮さんみたいに、読んでる時は『読んでる』って感じじゃなくて、物語の世界の中にいるみたいな感じだから、あの陽射しの降り注ぐ庭にみんなと一緒にいて、みんなの楽しそうなおしゃべりを聞いてたんだけど、その時、ああ、本当にここにいられたらいいのに、って心から思ったんだ。あの幸せな、満ち足りた暖かい雰囲気が羨ましくて羨ましくて、本当にここにいたい、って強く思った。そうしたら、…そこにいた」

 玲は固唾をのんで聴き入っていた。

「なんていうのかな、それまでもそこにいたわけなんだけど、でもそれが一瞬にしてもっとずっとクリアに、シャープに、現実に、なった。日の温みとか、空気の動き、植物の匂い、みんなの声、虫の飛ぶ音、鳥の歌声、足元の感触。そういうものがみんな現実のものになった。

 嬉しいよりも、ぎょっとして、ぞっとしたね。まずい!どうしよう!って思った。『こんなことがあるはずない』とは思わなかった。思ってる暇がなかったっていうかね。焦って辺りを見回すと、すぐ近くに、真っ白な『どこでもドア』みたいなドアがあったから、一目散に駆け出して、よく考えもせずドアを開けた。そして自分の部屋に戻ってきた」

 竹山君は玲を見下ろすと、ちょっと恥ずかしそうに首を竦めた。

「初めての『訪問』はそんな感じで終わっちゃったんだ。あんまりびっくりして、怖くなって、もう本は読まないほうがいいかもしれないって思ったりもした。今回は帰ってこれたけど、次はもしかして帰ってこられないかもしれない、って思って。でもやっぱり…その頃は現実世界がすごく辛かったし、だから、たとえもし行ったきりになって、帰ってこられなくなってもいい、って思って、もう一度やってみることにした。ただ、兄貴にはちゃんと話をしてからにしようと思って、話したんだ。本気にしてくれないかもしれないと思ったけど、ちゃんと真面目に信じてくれて、見てるからやってみろ、って。だから二回目は兄貴の見てる前で本の中に入った。同じ本の同じ場所を選んで。だって、もしかしてあの場面じゃなきゃ入れないのかもしれないと思ったからね。

 その時は庭をあちこち歩き回って、コリンたちにも、コマドリたちにも、僕の存在は気づかれないってわかった。思い切って菓子パンをちょっといただいちゃったけど、それでも気づかれなかった」

 玲は羨望のため息をついた。

 すごい。私も行ってみたい!

「菓子パン、美味しかった?」

「美味しかったよ。あのね、パウンドケーキの、もっとずっとバターが少なくて、卵がもっと入ってるみたいな感じだった。硬くて、日持ちしそうな感じ。ぽくぽくしててちょっと食べにくかったけど」

「そんな細かいことまでわかるのね」

「もちろん。現実と一緒だよ。兄貴が心配するといけないから、その時はあんまり長居しないで帰った。兄貴もやってみたいっていうから、どうやるか教えたんだけど、いくらやってもできなくて、機嫌が悪くなっちゃって」

 竹山君は懐かしそうにちょっと笑ってから、真顔になって玲を見た。

「くれぐれも、どの本のどのページに入ったか、書いておくのを忘れないようにね。紙切れじゃなくて、ノートみたいなものの方がいいよ。風に飛ばされてなくなっちゃったなんてことがないように」

「了解。…あのね、本の中の時間の経ち方って、現実の時間の経ち方とは違うの?」

 竹山君はにこりとした。

「さすが。時間の経ち方は多分違うと思う。僕もきちんと計ってみたことはないから、はっきりとはわからないけど。でも、腕時計をしていけば、その腕時計は現実の時間と一緒に動くから、本の中に入ってどれくらいの時間が経ったかは、ちゃんとわかるよ」

「スマホだったら?」

「それは試してみたことない。でもああいうものだと、落として無くしたりってこともあるから、腕時計の方が向いてると思うよ」

「そうね。わかった。そうする」

「あ、それからもう一つ。靴を履いていくほうが歩き回りやすいよ。新しい靴か、洗ってある靴を使うのがおすすめ。本の中からは何も持って帰れない、つまり本の中で靴が泥だらけになっても、戻ってくると綺麗になってるから、次の時も室内から履いていけるし」

「なるほどね…。わかった」

 なんだかどきどきしてしまう。未知の世界への冒険旅行。

「竹山君、本の中で危ない目に遭ったこととかないの?」

「今のところはない。危ないところに行かなければ大丈夫だと思うよ」

 頷いたけれど、やはり少し、いやかなり不安だ。

「一緒に行かれるんだといいのに」

 思い切って言ってみた。変な意味で言っているのではないことは、竹山君ならわかってくれるだろうと思った。

「兄貴と試してみたことはあるんだ。二人一緒には行かれなかった。でも、兄貴は一人でも行かれないわけだからね…」

 竹山君が玲を見る。

「試してみようか。一緒に行かれるかどうか」

「ほんと?いいの?」

「もちろん。じゃあ、そうだな、明日?」

 本当は今からでもやってみたいけれど、もう夕食の時間だ。子供というのは、こういう時、本当に不便だ。大人の作った時間割に従わなくてはいけない。

「そうだね、明日…部活の後か。また遅くなっちゃうね。竹山君、習い事とかは?大丈夫?」

「僕は大丈夫。塾は行ってないし、土曜に剣道があるだけだから」

 玲は驚いた。学年一の秀才が、塾に行かず、通信教育のX会をやっているというのは、噂で聞いて知っていたけれど、物静かで穏やかな竹山君が剣道とは。

 剣道をあまり知らない玲にとっては、剣道というと、ものすごい大声で「テメェら!」とか「ざけんじゃねえぞ、コラァ!」とか怒鳴る清水先生のイメージと、体育館で剣道部が練習している時に聞こえてくる、耳をつんざくような叫び声なのだ。

「意外?」

 玲の驚いた顔を見て、竹山君が微笑む。

「うん。だって美術部だし…。どうして剣道部に入らなかったの?」

「剣道は小一からずっとやってるし、他のことをやってみたかったんだ」

「そうなの…。絵もすごい上手だよね」

 見たままを、本当にきっちり且つ美しく描ける人だ。

「大宮さんもね」

 玲は赤くなった。お世辞なのはよくわかっている。下手の横好きというのは自分のことだと、よーくわかっているのだ。竹山君みたいに上手な人にそんなお世辞を言われると、「そんなことないよー」なんて言う気にすらなれない。

 えへっと首を縮めて、訊いてみる。

「油と水彩、どっちが好き?」

「どっちも好きだけど、そうだな、水彩かな。大宮さんは?」

「私は油。水彩は苦手なの。間違ったら取り返しがつかないところが」

「そうなの?でもあの海の絵、すごくよかったよ」

 昨年、夏休みの美術の宿題で描いた水彩画だ。確かに、他の何作かと共に選ばれて、枯れ木も山の賑わいとばかりに、学芸発表会の展示に加えられたけれど、竹山君があの絵のことを覚えていてくれたなんてびっくりだ。

「澄んだ柔らかい色で、とっても綺麗だった。心に染み入るっていうか…。学芸発表会の時も、立ち止まって褒めてる人がたくさんいたよ」

 ふんわりした温かいものに包まれたような感じがして、玲はそっと小さく息をついた。

 竹山君って、なんて優しい人なんだろう。

 私が大好きな本のことを話題にしてくれて、しかも本に入れるなんてすごいことを教えてくれて、自分の辛かった時の話までしてくれて、おまけにこんなふうに私の絵まで褒めてくれて…。

 そこまで考えて、玲ははっと気がついた。

 もしかして。

「…竹山君。お家、こっち?」

 竹山君は何気ない声音で答えた。

「みどり野公園の近く」

 とっくの昔に通り過ぎている。

「…ごめんね。気づかなくて」

「いや。最初から家まで送るつもりだったから」

「…ありがとう。こんなにしてもらって」

「騎士道精神ってやつ」

 竹山君がおどけて言ったので、玲も笑って返す。

「剣道でしょ。武士道精神じゃないの?」

「剣道は好きだけど、でも僕は、武士道精神より騎士道精神の方が好きだな」

「竹山君らしい」

 と言ってしまってから、玲は赤くなって俯いた。

 「らしい」なんて言えるほど、たくさん竹山君のことを知っているわけじゃないのに。図々しかったかな。 

 こんなふうに竹山君とおしゃべりしたことは、今まで一度もなかった。委員会や部活が一緒だし、去年は同じクラスだったから、誰とでもするような会話を交わすことはよくあったけれど、竹山君の周りにはいつも透明な壁があって、なんとなく、これ以上近づかないでほしいと言われているような気がしていた。

 でも今は違う。壁は跡形もなく消え去って、竹山君がこちらに手を差し伸べてくれているような気がする。

 その手を——取っていいのかな。

 なんだか、今までとは違う世界にいるような気がした。

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