第2話
Chap.2
昇降口を出ると、外はもうとっくに夜の風景で、星が遠くの空で静かに瞬いていた。
「あ、カシオペア」
都会でもそれくらいなら見える。
「ほんとだ」
竹山君も空を見上げる。
「大宮さん、星好きなの」
「好き。でも星座とかあんまりよく知らないの。お父さんに小さい頃いろいろ教えてもらったんだけど、全然覚えられなかった」
「そうなの?なんか意外だな。大宮さん、勉強よくできるのに」
学年一の秀才に「勉強よくできる」なんて言われても、うまく反応できない。
「だってね、例えばアンドロメダだってペルセウスだって、ちっとも人らしく見えないでしょ。だからどれが何なんだかわからなくて、覚えられなかった。あれが何座、って言われてなるほどって思えるのって、
「ああ、なるほどね。そうだね」
「カシオペアとかオリオンとか、あとは白鳥とか、ああいうのは形がわかりやすいから覚えられるけど、でも私にはカシオペアもオリオンも人の姿に見えない。昔の人に会えたら、あれがどうして人に見えるのか訊いてみたいなって思う」
「白鳥は、まあ許せる感じだね。白鳥に見えなくもない」
「じゃ、おおぐまとこぐまは?」
「曲がった柄杓にしか見えない」
「そうよね」
二人で笑う。まだ煌々と灯りのついている体育館の前を通り過ぎる。何やら抑揚のある大きな声が聞こえてくる。
「演劇部かな」
「だね」
校門までの道をしばらく黙って歩く。この道は桜並木になっていて、桜の時期はとても綺麗だ。校歌にも「桜並木を通い来て」という歌詞がある。
少しして、竹山君が言った。
「大宮さん、本好きだよね」
「大好き!」
熱を込めて言うと、その言い方がおかしかったのか竹山君はちょっと笑った。
「竹山君もでしょ」
「うん」
自分から進んで図書委員になるような人は、大抵本が好きだ。昨年同じクラスだった時、二人とも水島先生が
「じゃあ次。図書委員…」
と言い終わらないうちに、はいっとばかりに手を挙げて立候補した。そして今年、クラスは別々になったけれど、また二人とも図書委員になっている。
「本はいいよね」
「いいよね」
「どの辺が好き?」
一番好きな本は、と訊かないところが「分かっている」人だなあと玲は微笑んだ。本をあまり読まない人はすぐ訊くのだ。一番好きな本は?と。あれを訊かれると、答えられなくていつも困る。
「うーんとね、やっぱりモンゴメリとかオルコットとかバーネット、ウェブスター辺りは好き。でも、どっちかって言うと、『ナルニア』とか『アリス』とか『ピーターパン』とか『指輪物語』とかああいうほうが好きだと思う。あ、『ハリーポッター』ももちろん好き。『床下の小人たち』も好き」
「なるほど。イギリスだね」
玲は目を丸くした。
すごい。ちゃんと通じる。
「そう!それね、ついこの間気がついたの!すごい綺麗に分かれてるなあって。私、『トムは真夜中の庭で』も大好きなんだけど、あれもイギリスでしょ。ああいう物語って、イギリスが多いのね」
「エンデは?あれはドイツだけど」
「エンデも大好き!『はてしない物語』とか『モモ』も大好きなんだけど、あと『サーカス物語』とか。でも『鏡の中の鏡』とか『自由の牢獄』もすごく好き!」
すれ違った人がちらりとこっちを見た。夢中になってつい声が大きくなってしまったことに気がつき、玲は赤くなって首を縮めた。
「…ごめん。私、うるさいね」
竹山君が笑う。
「そんなことないよ」
「竹山君は?どの辺が好き?」
「だいたい同じ感じ。あと僕はケストナーも好きだよ」
「『飛ぶ教室』ね。いいよね。『二人のロッテ』も読んだ?」
「もちろん」
半分冗談のつもりで言ったのに。ちょっと意外だ。
「男の子なのに?」
竹山君はまた笑った。
「僕はモンゴメリもオルコットもウェブスターも読んでるもの。バーネットもね。あの辺だってほとんど女の子向けじゃない?」
「読んで面白かった?」
「面白かったよ。大宮さんだって『飛ぶ教室』面白かったでしょ」
「うん。『十五少年漂流記』もね。あ、じゃああれは?『大草原の小さな家』のシリーズ」
「読んだ。あれいいよね。色々細かいことが書いてあって。どうやって蝋燭作るのかとか、ベーコン作るのかとか、家建てるのかとか」
「そうそう!あれね、うちのお母さんも好きで、たまに読んでるの。お母さん曰く、あれを読むと『贅沢言ってないで頑張って働くぞ!家事もちゃんとやるぞ!』って気になるって」
「ああ、わかるなそれ。すごい働き者だよね。インガルス一家もワイルダー一家も」
「あれって、テレビでもやってるんでしょ?私は見たことないけど」
「僕も見たことないよ」
「呆れるくらい原作と違ってるんだって。見ると腹が立つだけだからやめたほうがいいってお母さんが言ってた」
竹山君が頷く。
「テレビとか映画は、原作通りじゃないことの方が多いよね、きっと。『指輪物語』とか『ナルニア』とか、見た?」
「見た!ひどいよね、あれ。『ハリーポッター』も」
「ああいうのも、映画見ただけで原作読まない人たちがいっぱいいるんだよね。信じられないけど。もったいないなっていつも思うんだ」
「ほんとほんと」
「『The Golden Compass』はそれでも割といいなって思ったんだけど、続編が作られなかったのが残念だったよね」
玲は首を傾げた。
「『The Golden Compass』?」
「ああ、えーと、あれは…なんて題だっけ。ライラって女の子が主人公の」
「『黄金の羅針盤』?」
竹山君が笑った。
「そのまんまだったね」
玲は目を丸くした。
「竹山君、英語で読んだの?!」
「最初のだけ。あとの二冊はまだ読んでないんだ。英語だとやっぱり読むのに時間がかかって」
「…すごい」
びっくりしてため息も出ない。
「すごくないよ。大宮さんだって読めるよ。英語得意でしょ」
「だって…だって…私たちまだ中二だよ。習ってる文法だってまだ全然足りないんじゃないの?」
「そうだけど、でも結構読めるよ。わからないことはネットでもすぐ調べられるし」
「でも…でも…」
玲はあんまり驚いて竹山君の顔から目を離すことができなかった。
確かに玲は英語が得意だ。数学と社会と理科が足を引っ張るので5教科総合ではとても竹山君には敵わないけれど、英語と国語では互角だと思っている。特に英語は一番好きな教科でもあることだし、誰にも——学年トップの竹山君にも——負けていないと思っていたのだ。それなのに竹山君は『黄金の羅針盤』なんかを英語で読めてしまうというのか!
「どうして英語で読んでるの?英語の力を伸ばすため?」
「いや。原文を読みたいって思うようになったから」
「どうして?」
「だって、訳されてるものっていうのは、翻訳者に色々なことを勝手に決められちゃうわけじゃない?そういうの嫌だなって思ったんだ」
「色々なことを?勝手に?」
「例えばさ、英語で書かれた物語で、主人公が男だとする。英語ならただの”I"だけど、日本語に訳されるときに、翻訳者がその子に『僕』って言わせるか『俺』って言わせるかで、登場人物の人柄が決まってきちゃう。『おいら』かもしれないし、もしかしたら『私』かもしれないよね」
玲はなるほどと頷いた。確かに、自分のことを『俺』というか『僕』というかで、キャラクターが随分変わってくる。
「なるほどね。『わし』とか『某』とか『あっし』とか『俺様』とかね…」
「そうそう」
竹山君がうなずく。
「登場人物の話し方もそう。『幸せだよ』『幸せだぜ』『幸せです』『幸せでございます』『幸せっす』『幸せさ』…それだけでも随分違う。そういうのをね、他の人に決められちゃうのが嫌だなって思うようになったんだ。原作者が書いたままを読みたい、って。それに訳って結構間違ってることもあるし、勝手に端折っちゃってることもあるんだよね」
「そうなの?」
初耳だ。
「大宮さん、本の最後のとこ読まない人?訳者あとがきとか」
「…実はそう」
玲は首を縮めた。
ああいうところを読んだ方がいいのはわかっている。小学校の時にも先生がそう言っていた。でもどうも読む気になれなくて、たいてい読まずに本を閉じてしまう。
玲にとって、物語は誰かに書かれたものではなく、別の世界そのものだ。だから書いた人がどんな人かなんてあまり興味がないし、まして訳者が何をどう考えたかなんて、まるで興味が持てない。
「あそこにね、たまに書いてあることがあるよ。『原作ではこうこうこういうところがもっと詳しく書いてありましたが、若い読者には長すぎると思い、適当に省きました』とか」
「ええー!ひどい!なにそれ!」
びっくりだ。
「どうして勝手にそんなことするの?!」
適当に省かれたりしたらたまらない。「若い読者には」なんて、子供を馬鹿にするにもほどがある。
玲の剣幕に竹山君がくすくす笑う。
「僕に怒られても」
「…ごめん」
玲はまた首を縮めた。本のこととなるとつい夢中になってしまう。
「そういうのを読んで、やっぱりできるだけ原書で読んでみたいなって思ったんだ。英語なら習ってるわけだしね。読めないことはないだろうと思って。フランス語とかドイツ語じゃだめだけど」
「ドイツ語…はエンデか。ケストナーもだっけ。フランス語は?」
「ジュール・ヴェルヌ。さっき言ってた『十五少年漂流記』とか、あとは『地底旅行』とか『海底二万里』とか『八十日間世界一周』とか」
『地底旅行』『海底二万里』『八十日間世界一周』。玲は頭の中にメモする。今度読んでみよう。
英語で本を読むことについて玲はもっと聞きたいと思ったけれど、竹山君に、
「日本の本では?何か好きなのある?」
と訊かれてうーんと考え込んだ。
「日本のね…。日本のは、実はあんまり好きなのがないんだけど…あ、あれ!『霧の向こうの不思議な町』!知ってる?」
竹山君がにこりとして頷く。
「絶対くると思った。『地下室からの不思議な旅』もでしょ」
「そう!あの二冊はね、町の図書館で借りて読んで、大大大好きになったの。小二くらいだったかな。二冊同時に借りて、夢中になって何度も何度も読んだ。でも、そのあと本屋さんで買ってもらおうと思ったら、図書館のと同じ挿絵のがなくって。それで、お母さんがネットで図書館のと同じの探して買ってくれたの。あの二冊はね、寝る前に読むのが好き。いい夢見て眠れる気がするの」
夢中になって話すと、竹山君がうんうんと頷いてくれる。
「わかる。眠る直前に読んだ本って、夢に影響するよね。僕が持ってるのもタケカワこうさんの挿絵のだよ。すごくいい絵だよね」
「ね!あとは…。うーん、本当に日本のってあんまり好きなのがなくて…。みんながよく読んでる、なんだか変な漫画っぽいのは読む気がしないし。…あ、もう一つあった!『木かげの家の小人たち』。あれは去年学校の図書室で見つけたの」
「へえ、それ知らないな。どんなの?」
「イギリスから日本に来た小人の一家と、彼らを守っている女の子のお話。戦争中のお話だから、『霧の向こうの』とか『地下室からの』とかとは随分違って、現実的だし、ちょっと読むのが辛いとことか悲しいとこもあるんだけど、でもどうしてか好きなの。竹山君は?日本ので好きなのある?」
「そうだな、僕もかなり外国寄りなんだけど、星新一は好きだよ。知ってる?」
「知らない。どんなの?」
「SF。短編がいっぱいあってね。ショートショートっていうの。面白いよ」
星新一ね。これも頭の中にメモしたところで、あることを思い出した。
そうだ、竹山君に訊いてみよう。
「竹山君って、大人の本も読む?」
「大人の本?」
「うん。『人間失格』とか『罪と罰』とか」
「ああ、ああいうの。一応読んでるよ。少しだけど」
「どれか好きなのある?」
「んー…」
竹山君は苦笑した。
「正直言って、今のところ好きって言えるのはないな。大宮さんは?」
「私も。お母さんにね、子供の本ばっかり読んでないで、『ちゃんとした』文学も読めって言われて、だから読んでみたんだけど、ちっとも好きになれなくて、困ったなって思って」
「困るの?」
「そういうのがちゃんと読めないと高校に行ってから困るわよ、って言われたの。それに…そういうのの良さがわからないっていうことは、未熟っていうか、精神的にちゃんと成長してないっていうことなのかなって思って」
玲が言うと、竹山君はおかしそうに笑った。
「わからなくていいんじゃないかな。僕たちまだ十三歳だし。いつかああいうのがわかるようになって、素晴らしい話だなとか傑作だなとか、思えるようになるんだよ、きっと」
「そうなのかな。…私ね、本を読むときに、本を読んでるっていう感じじゃなくて、本当に本の中に、その世界に、丸ごと入っちゃう感じなの。例えば森の中の場面だったら、本当に周りに木がいっぱいあって…」
玲は背の高い木々を見上げる仕草をした。
「足の下で落ち葉がカサッて音をさせて、湿った空気は森の匂いで…」
わかってもらえるだろうかと竹山君を見ると、竹山君は微笑んで大きく何度も頷いていた。
「わかるよ」
「だからね、自分が行きたくないような世界の物語はあんまり読みたくないって思っちゃうんだと思う。現実の、なんていうか暗い感じの話とか。『罪と罰』読んだ時だってこっちが病気みたいになっちゃったし、『怒りの葡萄』も途中で読めなくなっちゃったし。『指輪物語』は大好きだけど、でも初めて読んだ時はものすごく辛かった。もうこんな旅、怖いし辛いし続けられないって何度も思ったもの」
竹山君はにこりとした。
「トム・ボンバディルのところは大丈夫だったでしょ」
「そう!すごく快適で、安心して、嬉しくて、ずっとここにいたいって思って、そこでかなりぐずぐずしちゃった」
玲は心の底から嬉しくなった。誰かとこんなふうに本のことを話せるなんて初めてだ。なんて楽しいんだろう。
横断歩道の赤信号で止まる。そんなに大きな通りではないけれど、結構車が多い。
「…大宮さん、本の中に本当に入ってみたことある?」
横断歩道の向こう側を見つめながら、竹山君が言った。玲は竹山君の顔を見上げた。車が通るたびに明るくなったり暗くなったりする綺麗な横顔。
「本当に、って?」
急に身体中の血流の速さが増した気がした。竹山君がにこりとして玲を見下ろす。
「本当に、入れるんだよ。本の中に」
信号が緑に変わった。
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