青天に予報なし
柏木実
第1話
Chap.1
嫌なことばっかり。
二年C組の教室を出て、放課後の廊下を美術室に向かって歩きながら、玲はため息をついた。
わかっている。こんなことは大したことじゃない。世界には学校に通えない子供が三億三百万人いるのだ。義務教育をごく普通に受けられて、平和に中学校生活を送っている私はとても恵まれている。こんなことでくよくよして「嫌なことばっかり」なんて言ったら、恵まれた子供の贅沢な悩みと世界中に呆れられる。嫌なことがあって愚痴を言うと、お母さんにいつもそう言われる。
わかっているけれど、でもため息が出てしまう。
ついていない一日だったのだ。
一時間目の音楽。歌のテストで、緊張して声が震えてしまった。練習の時には難なく歌えていた装飾音符がうまくできなくて、先生が「惜しい」という顔をした。
二時間目の数学。前回当たったので今回は大丈夫と思っていたら、また当てられた。しかも黒板で問題を解かされた。
黒板は苦手だ。チョークの手触りが嫌いだし、何より背中にクラス中の視線を受けながら問題を解くのは緊張する。長ったらしい数式を真っ直ぐに書けず、数式が右肩下がりになってしまった。
三時間目の英語は自習。数人の男子がふざけて投げあっていた消しゴムが、まるで狙ったかのようにきれいに玲の額のど真ん中に当たった。
四時間目の体育。なんと選抜選手になったこともある得意のハードルで、足を引っ掛けて転んでしまった。生まれて初めてのことだったので、心底驚き、ショックだった。スピードが出ていた割には怪我はなく、先生に転び方がうまかったからだと褒められたけれど、そんなことを褒められてもあまり嬉しくはない。私がハードルで転ぶなんて。自分に裏切られたような気分だった。
昼休み。用事があって職員室に行ったら、運悪く上条君に会ってしまった。一風変わった一年生で、四月の部活トライアルの時に担当になった玲をいたく気に入ったらしく(その割には美術部には入ってくれなかったのだが)、会うたびに「先輩!今日も綺麗ですね!」とか「いつも素敵ですねえ、先輩!」とか、よく通る声で言ってくれるのだ。今日も、
「先輩、久しぶり!今日はまた一段と綺麗ですよ!」
とデリカシーのかけらもない声量で言ってくれたので、周囲にいた先生たちがこちらを見てくすくす笑った。玲は真っ赤になって「ありがとう」と言うのが精一杯で、恥ずかしさのあまり、用事を忘れてそのまま職員室を出てしまいそうになったくらいだった。
そして五時間目の国語。
前回の授業で、いくつかの短歌を習った。最後の十分間で各自好きな短歌を一つ選んで、感想を書いて提出した。今日の授業の最初に、その中のいくつかを、誰が書いたものかは伏せて、先生が読み上げた。玲の書いたものも読み上げられた。
玲の感想を読み上げた後、先生が苦笑して言った。
「ま、これなんかはちょっとセンチメンタルすぎますかね」
他の生徒達の書いたものについては、先生はなんのコメントもつけなかった。玲の書いたものにだけ、そんなコメントをつけたのだ。しかも苦笑して。
どうして?
二学年の国語の先生は
授業の声は小さめで、つぶらな瞳をぱちぱちさせながら「ま、——ですかね」「私なんかは——なんて思いますがね」「——ということですが、どうでしょうかね、はい」と、生徒のほうを見ず囁くように喋るので、授業なんだか、先生の独り言を聞かされているんだか、わからない。
国語は得意科目だし、作文も得意なほうだ。今まで大屋先生のことをいいとも悪いとも思ったことがなかっただけに、玲は混乱した。
どうしてあんな意地の悪いことを言われたんだろう。
よくない作文だと思うなら、読み上げなければいいだけの話なのに、わざわざ読み上げて批判するなんて。それも私のだけ。何か先生の反感を買うようなことを、私が言ったか書いたかしたの?
考えても考えても、思い当たるようなことはなかった。
六時間目の社会。授業中、まだ大屋先生のことを考えていたので(というより、空想の中で大屋先生のところに行って抗議していたので)、先生に当てられた時に何を質問されたのかわからず、「すみません、聞いていませんでした」という羽目になってしまった。
自他共に認める真面目な生徒である玲にとって、こんな不面目極まりない出来事は、学校生活始まって以来初めてだった。恥ずかしくて恥ずかしくて、その場で床がぱっくり口を開けて、自分を飲み込んでくれればいいと本気で思った。
社会科の先生は、担任の加藤先生。まだ二十代の明朗快活な女の先生だ。玲が真っ赤になって「聞いていませんでした」と言うと、びっくりしたような笑顔で
「あらー、珍しい」
と言って、咎めることなく質問を繰り返してくれたけれど、玲は奈落の底まで落ち込んでしまった。
3階の音楽室から、吹奏楽部が『Ob-La-Di, Ob-La-Da』を練習しているのが聞こえてくる。
なんて一日だったろう。
渡り廊下を歩きながら考える。
ついてない日っていうのは本当にあるんだ。アンは『ヨナの日』って言っていたっけ。
悶々としている心とは裏腹に、歩調が音楽と合う。すると不思議なことに、気持ちがちょっと上を向き始める。
ついてない日だったけど、起こってしまったことは仕方ない。
降れば土砂降り。
It never rains but it pours.
それでも「Life goes on」なんだよね。
頑張ろう。
嫌なことが続くこともあるけど、でも人生だって続いていくんだもの。
まったくその通りだった。
玲は美術部に所属している。広い美術室には三十人ほどの部員たちが集まり、二週間後に迫った秋の学芸発表会の展示用作品に、それぞれが黙々と取り組んでいた。玲は他の何人かと一緒に、美術室の後方に置いたモチーフを囲み、静物画を描いていた。
ついていなかった一日の様々な場面を思い出しては振り切り、また思い出してはため息をつきつつ筆を動かしていると、部員の間を歩き回っていた先生が声をかけてきた。
「なんだ玲、どうした。具合でも悪いのか」
顧問の二谷先生は、美術教師。中肉中背、これといって特徴のない三十代くらいの男の先生だ。部の中で、何故か玲のことだけ名前で呼ぶ。
「いえ、大丈夫です」
「そうか?なんだか顔が赤いぞ。熱があるんじゃないのか」
左手にパレット、右手に筆を持って身動きの取れない玲の額や頬をべたべた触り、
「ちょっと熱いみたいだぞ」
と言いながら、髪の下に手を入れて首筋まで触った。生温かい手。
背筋がぞっとする。
気持ち悪い。
二谷先生は、陰で生徒たちから触り魔とかセクハラ教師とか言われている。後ろから肩を触ったり肩を抱いたり、筆や鉛筆の持ち方を正すのに、どう考えても不必要に長い時間手を掴んだり、髪を撫でたり、頬を触ったり。
何年前のことだかは知らないが、授業中、ある男子が、
「先生、それセクハラじゃないですか」
と言ったところ、
「何言ってる馬鹿者。こんなのはな、俺が修行したヨーロッパじゃ普通だ、普通。スキンシップだ」
呵呵と笑って答えたそうだ。
そしてその男子はそれ以降、それまで5段階評価の5だった美術を3に下げられたという。
とにかく、やたらと触ってくる先生なのだが、これまでは玲もなんとか耐えてきた。
でも今日はそのあとがあった。
玲の首筋をべったりと触った後、先生はそこに顔をつけてきたのだ。
多分唇がついた、つまりキスをされた、ということなのだろうけれど、目で直接見ることができないので、はっきりとはわからない。ただ、わかったのは、先生の顔が首筋にくっついてきたということだけだ。
全身が硬直した。
先生はすぐに他の部員の方へ歩み去っていった。
玲の右側に少し離れて座っていた、D組の竹山海斗君がこちらを見ているのが分かったけれど、玲は必死にキャンバスだけを見つめて筆を動かし続けた。
大袈裟でなく、ほんとうに必死だった。
必死に抑えなければ、パレットと筆を床に投げつけて、美術室から走り出てしまいそうだった。
片付けの時間になり、玲が水道で筆を洗っていると、竹山君がすっと隣に来た。
竹山君とは一年生の時同じクラスで、一緒に図書委員をやった。今年はクラスは違うけれど、また図書委員会で一緒だ。
どちらかというと物静かな学年一の秀才で、かっこいいというよりは綺麗な顔をしている。少し近寄り難いような雰囲気の持ち主で、打ち解けて話したことはないけれど、玲は前から竹山君のことを素敵な人だなと思って、密かに憧れていた。
背の高い竹山君は、自分も筆を洗いながら、少し身を屈めるようにして玲に小声で話しかけた。
「大宮さん、大丈夫?」
言われた途端、喉がつまって涙目になってしまった。やっぱり見られていたのだという羞恥心と、見ていてくれたんだという安堵感がない混ぜになる。涙がこぼれないように気をつけながら、うん、と頷いてみせた。竹山君は顔を上げてちらりと辺りを確認すると、また小声で
「ちゃんと言ったほうがいいと思うよ」
と真剣な顔で言った。玲はちょっと怯んだ。
「二谷先生に?」
「他の先生たちに。僕も一緒に行くから、言いにいこう」
「はい注目ー!」
美術室の前の方で先生がパンパンと手を叩いた。
「みんな知ってるように、学芸発表会まであと二週間切ったからなー。彫刻組はちょっと遅れ気味なのが多いから…」
玲は筆をぎゅっと握りしめた。
先生の声を聞いていたら気分が悪くなってきた。
汚らわしい。
汚らわしい汚らわしい汚らわしい。
筆をぎゅうっと握りしめる。洗っていたのが細い小筆だったら、ぽきんと折ってしまったかもしれない。
竹山君が、先生の話す声に隠れるように小さい声で、でもきっぱりと言った。
「まだ残ってる先生たちも結構いると思うから。この後すぐ行こう、職員室」
玲は決意を固めて頷いた。竹山君の好意がありがたかった。
「うん、そうする。ありがとう」
帰り支度をしていると里奈が美術室に入ってきた。
森崎里奈。二年C組。玲と里奈とは家が近いので、小学校の頃から毎日一緒に登校し、帰りは時間が合う限り一緒に帰る。このところ文化部の部員は皆ほぼ毎日残って準備や練習に勤しんでいるので、合唱部の里奈とは一緒に帰ることが多い。
「帰ろ、玲」
「あ、ごめん里奈。これからちょっと職員室」
「いいよ、つき合う」
玲は困惑した。なぜだかわからないけれど、まだ里奈には知られたくないと強く思った。
「行こう」
リュックを肩にかけた竹山君が寄ってきて言う。里奈が怪訝な顔をする。玲は慌てて里奈に言った。
「図書委員の当番のことでちょっとね」
「あ、そうなの」
今度は竹山君が怪訝な顔をしたけれど、玲たちはとりあえず三人で職員室へ向かった。
途中、保健室の前を通りかかったので、玲は二人にちょっと待っててと言って中に飛び込み、帰り支度をしていた保健の小林先生に、アルコール綿で首筋を拭いてもらった。どうしたのと先生に訊かれて、汚いものがついたので、と答えた。
ほんの少しだけだけれど気分がよくなった。
里奈には廊下で待っていてもらって、玲と竹山君は職員室に入った。まだ結構たくさんの先生たちが残っている。
二谷先生がいないことを確かめ、担任の加藤先生のところへ行った。
「先生、あの…ちょっといいですか」
「はいはーい、なーに?」
にこやかに応じてくれた加藤先生だったが、
「あの…さっき、二谷先生に、首に、なんていうか、顔を、唇をつけられて…」
と玲が言うが早いか、
「ええっ?!」
悲鳴に近い声を上げたので、近くにいた先生方がみんなこちらを見た。
加藤先生は、目を見開いて口を両手で覆って固まっている。
加藤先生の隣で、D組の担任の水島先生が、まったくしょうがないなと言いたげな苦い表情で加藤先生を見やった。
水島先生は、五十代くらいの男の先生だ。昨年玲と竹山君がいた一年D組の担任だった。数学の先生なので、玲はテスト後の個人面談のたびに、英語と国語に比べて短い数学の偏差値棒グラフを指差されては、「この差はなんだ!この短いのは!これをなんとかしろ、これを」と苦笑混じりに言われていたものだ。
水島先生は真剣な目をして玲を見た。
「順を追って話してごらん」
玲は話し始めたが、何人もの先生たちが耳をすましているのがわかって、緊張して声が震えてしまう。すぐに喉がつまって泣き声になってしまった。泣くつもりなんてこれっぽっちもなかったのに、ささっと簡単に説明するつもりでいたのに、涙が止まらなくなってしまった。
加藤先生が急いでティッシュを手渡してくれる。
落ち着いて早くきちんと話さなくてはと焦れば焦るほど、しゃくりあげてしまって言葉が続かない。
自分で自分に猛烈に腹が立った。
どうしてこんなに泣くのだ。私は人前でめそめそするような、か弱い女の子キャラじゃないのに。あんなちょっとのことでこんなに泣いて、きっと大袈裟だって先生たちに呆れられてしまう。
玲がティッシュで鼻の下を拭き拭きなんとか説明し終わると、水島先生が竹山君を見た。
「竹山、その場にいたのか」
すると、水島先生の後ろに立っていた前川先生が静かに割って入った。
「続きは進路指導室で」
前川先生は、三学年の学年主任で国語の先生。図書委員会担当の先生なので、玲のことも竹山君のことも昨年から知っている。鬼前川と異名をとる五十代後半くらいの女の先生で、厳しいと有名だけれど、玲は、先生のそのびしっと筋の通った厳しいところが好きだった。先生の前で不真面目な態度をとる生徒なんていない。怒鳴ったり大声を出したりしなくても、みんな先生の言うことはきちんと聞く。
前川先生が静かな声で続ける。
「大宮さん、竹山君、加藤先生、水島先生、それから清水先生、お願いします」
清水先生は、四十代くらいの男の先生だ。生活指導の先生で、二年A組の担任。二学年の学年主任でもある。科目は体育。剣道部の顧問だ。言葉遣いがちょっと乱暴で、怒る時は近くにいる人の心臓が止まりそうになるくらい大きな声で怒鳴るけれど、生徒には人気のある先生だった。
廊下で待っていた里奈は、職員室からぞろぞろ出てきた玲たちを見て訝しげな顔をし、玲が泣き顔なのを見て飛んできた。
「どうしたの?」
「うん、明日話すよ。時間かかるかもしれないから、先帰って。ごめんね」
「わかった。大丈夫?」
「うん。ありがと」
里奈と小さく手を振り合って、玲は先生たちと竹山君と一緒に、職員室の隣の進路指導室に入った。前川先生がてきぱきと仕切る。
「大宮さん、座りなさい」
進路指導室には全員分の椅子がない。玲は言われるままに一人だけ会議テーブルの前の椅子に腰を下ろした。
「気分は悪くありませんか」
「大丈夫です」
先生は頷いて竹山君を見た。
「竹山君、見たことを説明してください」
竹山君が前川先生に負けずにてきぱきと説明する。さすが秀才。玲は舌を巻いた。何かのレクチャーを聞いているみたいだ。さっきの自分のしどろもどろのしゃくり上げまみれの説明と比べてしまい、心の底から情けなくなる。
「そういうことは今までにもありましたか」
前川先生がまず玲を見る。
「顔や首や肩や腕や手を触られることはよくありました。背中とか髪とか」
胸とかそういうところではなく、という意味を込めたつもりだ。
前川先生が竹山君を見る。
「僕は触られたことはありませんが、大宮さんに限らず、女子にそういうことをしているのは何度も見たことがあります。男子にも、たまに肩に手を置いたりとか、背中を叩いたりとかそういうことはしますが、女子ほどではありません」
「大宮さん、それはいつ頃からですか」
「一年生の時からです」
「美術部の活動の時だけですか」
「授業の時もたまにありますけど、部活の時の方がずっと多いです」
「わかりました。他に何かつけ加えることはありますか」
玲は首を振ったが、竹山君が淡々とした口調で言った。
「二谷先生は、部の中で大宮さんのことだけ、苗字でなく名前で呼んでいます。去年の二学期からだったと思います」
玲はびっくりした。その通りだ。竹山君が気づいていたなんて。
前川先生が確認するように玲を見たので、玲も頷いた。
「はい、去年の二学期からです」
「何かきっかけがあったのですか」
「いいえ。夏休み明けから突然名前で呼ばれるようになりました」
「他の女子部員のことも触ったりはしていますが、名前で呼んでいるのは大宮さんだけなので、大宮さんに対して何か特別な執着心があるんじゃないかと思います」
竹山君の言葉に玲はぞっとした。特別な執着心。
前川先生が真剣な顔で頷く。
「わかりました。先生方、何か」
「あのな、大宮。名前で呼ばれたり、触られたりすることをな、やめてくれって言ってみたことあるのか」
清水先生が言ったので、玲は「いいえ」と首を振った。ちょっと責められているような気持ちになる。
竹山君が弁護するように言ってくれる。
「生徒の側からは言いにくいです。二谷先生に、先生のしていることはセクハラじゃないのかと指摘した男子が、通知表の評価を下げられたという話は生徒の間では有名です。指摘された時、先生はこんなのはスキンシップだ、ヨーロッパでは当たり前だと言って笑い飛ばしたと聞いています」
先生たちが一様にため息をつき、清水先生が舌打ちしてつぶやいた。
「ったくしょうがねえなあいつ」
「今日のこと、他に見ていた人はいる?」
加藤先生が訊く。わからないと首を振る玲に代わって、竹山君が答える。
「あの角度だと、近くでは僕の他に見た人は多分いないと思います。美術室の前の方で彫刻をやっているグループの中で、偶然あの時顔を上げた人がいれば、少しは見えたかもしれませんが」
「他に何か」
前川先生が一同を見渡す。一同首を振る。前川先生が玲を見る。
「大宮さん。正直に言います。事態が今すぐに、明日からでも改善されるとは、残念ながら約束できません。でもできるだけ速やかにそうなるよう、私たちは努力します。それまで自衛できるところは自衛して、嫌なことをされそうになったら、はっきりとやめるように二谷先生に言ってください。成績に影響が出ないことは私が保証します。そしていついかなる時でも、どんな些細なことでも、不適切なことをされたら、嫌だと思うことをされたら、私でも、加藤先生でも、どの先生にでも、言ってきてください。我慢したり絶対にしないで。いいですね。どんな小さなことでも。遠慮したりしては絶対にいけませんよ」
「はい」
玲が頷くと、前川先生は分厚い眼鏡の奥の目を細め、労わるように微笑んだ。
「今回言ってきてくれて、本当によかった。正しい選択でしたよ」
玲は慌てて言った。
「竹山君が、そうするように言ってくれたんです」
前川先生は満足そうに竹山君に頷いた。
「いいことをしましたね、竹山君」
「友人として当然のことをしただけです」
竹山君が生真面目に言うと、先生たちがみんなにこにこした。
玲は心が温かくなった。友人。男の子にそんなことを言ってもらったのは初めてだった。
進路指導室を出て、竹山君と二人で廊下を歩く。
校内に残っている生徒は、三人で職員室に向かった時よりもずっと少なかった。部活終了時間をとっくに過ぎている。廊下や階段には煌々と明かりが灯っているけれど、ほとんどの教室は暗く静まり返っている。ところどころの教室にはまだ明かりがついていて、少数の生徒達が作業の後片づけをしていた。
「ずいぶん遅くなっちゃったね。ごめんね竹山君」
竹山君はにこりとした。
「いや、行こうって言ったの僕だし」
「ほんとにありがとう」
玲は心から言った。
「いや。前からひどいなって思ってたから、あいつ」
二人の上履きの立てる微かなキュッキュッという音が、明るく静かな廊下を進んでいく。
「…どうなるのかな、この後」
竹山君はちょっと眉を寄せた。
「うん…、残念だけど、今回のことだけであいつをクビにするのは、現実的に考えてちょっと難しいと思う。でも学校側が目を光らせてるってことがわかれば、あいつもセクハラはやめるんじゃないかな」
「そうだといいけど」
玲はちょっと心配なことがあった。
今日あんなことがあった直後に、学校側が二谷先生にセクハラをやめるようになどと言ったら、玲が「告げ口」をしたことはすぐに分かってしまうだろう。二谷先生が逆恨みして、何かひどいことをしてきたらどうしよう。
「でも大宮さんは、しばらく気をつけたほうがいいと思うよ。前川先生も言ってたけど、自衛できるところは自衛して」
たった今自分の思っていたことを読まれたようで、玲はびっくりした。
「やっぱり二谷先生が仕返ししてくると思う?」
「仕返し?…うーん、それもあるかもしれないけど、僕が考えてたのは、あいつが今日のことで調子に乗って、もっと色々…他のこともしようとするんじゃないかってことかな。学校側がすぐに行動に出てくれれば別だろうけど」
玲はぞっとした。
「…やだ。どうしよう」
「だから、できるだけ一人で行動しないようにして、あいつと二人きりにならないようにする方がいいよ。廊下とかでもね。部活の時も…あのモチーフ、もうちょっと動かせないかな。他のグループにもっと近いところに持っていければいいんだけど」
「きっと他の人たちが嫌がるよ。光の加減が変わっちゃうって言って」
「こっちの方がずっと大事だよ。それに天井の照明使ってるんだから、うまく動かせば光の加減だって大して変わらない。明日みんなに提案してみよう」
「先生が動かすなって言ったら?」
竹山君はちょっと笑った。
「そしたら、『セクハラする不届き者がいるので動かさなきゃいけないんです』って言えばいいよ」
玲は目を丸くした。そんなこと言えっこない。
竹山君は続けて言った。
「とにかく部活の時は大丈夫。僕がちゃんと見張るよ。でもさっきも言ったけど、他の時もひとりにならないようにした方がいい。さっきの、森崎さんだっけ、同じクラスだよね?」
「うん」
「じゃあ、わけをちゃんと話して、できるだけ一緒にいてもらうといいんじゃないかな。あいつだって、他に誰かがいたら何もしてこないと思うし」
そう言って竹山君は真顔で玲を見た。
「大袈裟だって思うかもしれないけど、でも、気をつけるに越したことはないと思うんだ。ニュースでも最近色々聞くし」
玲は深く頷いた。大袈裟だなんて思わなかった。教師によるわいせつ•セクハラ行為が全国で問題になっていることは玲も知っている。自殺してしまった子もいると聞く。
今日竹山君が気がついてくれなかったら。先生に言いにいこうって言ってくれなかったら。
なんだか、崖っぷちで命拾いをしたような気がして、ほっとすると同時にぞっとした。
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