ホワイトデー/好きって言葉なんかじゃ、とても足りないから。
――好きって言葉なんかじゃ、とても足りないから。
■■■
「ホワイトデーは3倍でお返しするからね」
冬君にそう言われて、ドキドキしながら3/14を迎えた。普段と同じように手を繋いで過ごして。ホワイトデーで周囲が浮かれた空気の中、冬君はある意味で通常運転だったと思う。いつもと同じように、寄り添って。切れ目なく、溫度を感じさせてくれて。
(――それだけで、幸せ)
そう思う。
そういえば、と思う。
私、誰にも期待なんかしない、そう思っていたんだっけ。
それなのに、期待するより早く。私が言葉や行動を起こすより早く、冬君は私を甘えさせてくれる。ココ最近思うのは、私は本当に独占欲の塊だって思う。
全部、独り占めしたい。
でも、それ以上に冬君が、私を甘やかしてくれる。嫉妬や寂しさをあっという間に溶かしてしまうのだ。
手を引かれてやってきたのは、いつもお馴染みのCafe Hasegawaだった。ただし、貸し切り/closeと看板がかけてある。冬君は何の躊躇いもなく、ドアを空けた。
ジャズミュージックが流れている。淡い照明。中央の座席だけをスポットライトが照らしていた。
「え?」
私は目をパチクリさせた。
「ふ、冬君? 貸し切りって――」
「うん、貸し切ったよ。今回はしっかりお金を払ったからね。まずは着替えてきて」
「着替える?」
目をパチクリさせる。アルバイトの要領で更衣室に行くと、冬君のお婆ちゃん――上川霜月さん、それから瑛真先輩、彩ちゃん、音無先輩が待っていた。
「え? え?」
「あの孫は妥協って文字を知らないのよ。下手にショービジネスの世界に飛び込んだ弊害かしら」
おほほ、と口元を隠しながら霜月さんは微笑んだ。
「まぁ、上にゃんだから」
「上川君だし」
「上川君ですからね」
それぞれニヤニヤ笑う。
「え、っと? みんな?」
「酷いよね、上川君。ホワイトデーのお返しもソコソコに、私達に強力を求めてきたワケなのよ」
「へ?」
「ゆっきを特別、可愛くしてくださいって」
「むず痒いですよ。あのセリフは忘れられませんから。『俺の姫をよろしくね』って。さらっと、あんな風に言っちゃうんですもん。あれ、上川君じゃないと許されませんからね」
それぞれパーティードレス、櫛、口紅、ファンデーションを持って、今か今かと待ち構えていた。
「とびっきり、可愛くなりましょうね。雪姫さん?」
霜月さんはそう言って、微笑んだ。
■■■
ノースリーブの純白なドレス。でもウェディングドレスのように華美ではなくて。いわゆるパーティードレスだった。霜月さんから真珠のネックレスを借りる。
――次は、雪姫ちゃんの結婚式の時に。その時は
そうウインクされて。
どう解釈して良いのか分からず、ただ赤面するしかない。
トントンとドアをノックする音。
瑛真先輩が、ドアをゆっくり開けると。
冬君がタキシード姿で立っていた。
恭しく一礼して。
それから私の手をとって、軽く口付ける。
それだけで、私の心臓は暴れまわる。
何度も、何度だって、その唇に触れてもらっているのに。慣れるなんてことは一切なくて。冬君にエスコートしてもらいながら、まるで夢うつつ。
いつも思う。
夢じゃなきゃ良いのに。
これが現実だと分かっていても。
これが夢で――終わってしまわないか、いつも怖くなってしまう。
そしていつも不安が強くなると、冬君は私との距離をあっさり埋めてしまう。
「夢じゃない?」
「現実だから」
「でも夢を見てるみたい」
「夢のなかに引きこもらせたりしないからね? 雪姫がこんなに可愛い人って、みんなに見せてあげなくちゃ」
「他の人はどうでも良い。冬君にだけ見て欲しい」
「仰せのままに」
そして、溫度と溫度が優しく交わる。私を溶かしてしまうくらい。私の内に火を打ち付けて。その芯から、熱く。あつく。息を忘れしまうくらい、熱く。熱を灯すように。
■■■
Cafe Hasegawaの店内で。ジャズミュージックに合わせて私は微かに体を揺らしながら、料理ができあがるのを待っていた。
冬君はキッチンで、料理に勤しんでいる。衣装を変え、今度はCafe Hasegawaの店主――マスターさんのように、白のコックコート、コック帽を被っている。
とはいえ、その前から冬君は仕込みをしていたらしい。デミグラスソースの芳醇な匂いが立ち込めていた。食前酒ならぬ、ミックスジュースに口をつけて、彼を待つ。
冬君って本当に何でもしちゃうんだよね。
今さらながら、しみじみ思う。
ただ、自分のこととなると手を抜いてしまうのだ。
こだわり始める、とことん追求しちゃう人だ。Cafe Hasegawaでそれなりに
ビーフシチュー、それからデミグラスソースがけのオムライス。子羊のステーキ……。これ食べ切れるんだろうか。目を白黒させていると、冬君が私の顔を覗き込む。
「ホワイトデーは3倍でお返しするって言ったからね。ちょっと準備するから待っていて? すぐに戻るから。でも、先に食べていて良いからね?」
そう言って、踵を返す。
「あ――」
私の小さな声は、ジャズのドラムサウンドにかき消されてしまった。
3倍じゃなくても良い。そう思ってしまう。
誰にも期待なんかしない。あの時はそう思っていたのに。
思考がぐるぐる回っていく。
冬君に感情を溶かされた。
不安も、焦燥も。恐怖も。やり場のない悲しみだって。ぜんぶ、全部。
私には冬君がいる。
そう思えば思うほどに、あなたのことを独占したくなって。
冬君がいない時間が、辛いって思ってしまう。
3倍じゃなくて良いの。特別じゃなくて良いの。
ただ、傍にいて欲しい。この日常の全部が愛しいから。
だから冬君がいないだけで、途端に呼吸のやり方を忘れてしまったような――そんな錯覚に陥って、胸が苦しくなる。
と、顔を上げたら――。
王子様が傍にいた。
黒の燕尾服に身を包んだ冬君が、ごく当たり前のように私を引き寄せ――気付いたら、もう抱きしめられていた。
■■■
「はい、雪姫」
冬君がニコニコして、私にスプーンを差し出す。
ズルい人だなぁって思う。この人は自分がどんな風に見られているのか、本当によく分かっている。普段はあえて、素顔を見せないようにしているのだ。
そして、この瞬間。私にだけ、そんな笑顔を見せてくれる。
(本当にズルい人――)
私は言われるがままに、オムライスを頬張った。まるで餌付けをされる雛鳥のようで。さっきまでの不安がウソのように消えてしまっている。
(本当に、私って単純――)
オムライスは焦げていない。卵がふわふわで。柔らかくて。ほんのりとした甘みをが美味しい。デミグラスソースの芳醇な香りを感じた。ビーフシチューとは、また違う味わいに、それぞれ別々に調理されたものだと知る。どれだけ時間をかけて作ってくれたんだろう、そう思ってはっと気付く。
「……冬君のは?」
「今日は雪姫がゲストだからね」
「それは――」
逡巡するまでもなく、本音が漏れた。
「それは、イヤ」
まっすぐに、冬君を見て。
スプーンを手にとって。
オムライスを掬ってみせる。
一人で食べるご飯は味がしなかった。
一人きりで過ごす時間はいつも、冷たかった。
あなたが――冬君が、こんなに私の芯まで熱くするんだから。それなら、ちゃんと責任をとって欲しい。一年のなかでの特別なんかいらない。三倍なんかじゃ足りない。オムライスが焦げてたって良い。豪華じゃなくても良い。毎日、いつだって。どんな時だって。私は――あなたと過ごす時間が、何より特別だから。
と、クスリと冬君が笑みを零す。
「うん、美味しくできた」
「すごく美味しい、本当に美味しいよ」
心の底からそう思う。でも足りない。まだ、足りない――。
「雪姫?」
触れる。
触れていく。
あなたに。
「ゆき?」
冬君は目をパチクリさせる。あなたの唇の端についたデミグラスソースを、私が拭う。
「……冬君が悪い。冬君がもっともっと、私を好きにさせるのが悪いんだから」
「それは光栄だね」
ニッコリ微笑んで。
「俺はとっくに雪姫に溺れているから。好きって言葉じゃ、まるで足りないけどね」
ズルい。そんな風に言うの、本当にズルいって思う。
「三倍なんかじゃ足りないから」
「それはもっと、ってこと?」
「違うよ。冬君と一緒にいる時間が、私にとっての何よりも特別だから」
これが当たり前の幸せじゃないって私は知っている。
ようやく手をのばして。
ようやく触れることができた。
ようやく、その手に触れてもらって。その手で髪を梳いてもらうことが、本当に幸せだって思ってる。
毎日、毎日。この日々が何よりも特別で。
以前の私が見たら――きっと、三倍って言葉なんかじゃ足りないから。
「あのね、冬君――」
触れる。
求める。
触れていく。
あなたに。
あなたを。
もっと欲しいと思ってしまう。
――好きって言葉なんかじゃ、とても足りないから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます