元ホームレス聖女アルムの日常・前




 ミラが仕えるダンリーク男爵家には最近、大きな変化があった。


 二年前に聖女に認定され、大神殿で暮らしていた当主の異母妹アルムが、聖女を辞めて家に戻ってきたのだ。


 なんでも第七王子でもある神官に酷使され罵倒される日々を送っていたらしく、その非道な扱いに耐えかねて飛び出したそうだ。


 それを聞いた男爵家の者達は「第七王子は接近禁止!」と怒っている。もちろん、ミラも同じ気持ちだ。


(大変な想いをされたのだもの。今は第七王子のことなど忘れてゆっくり心安らかに過ごしていただくことが肝心だわ)


 甲斐甲斐しくお茶の準備をしながらミラは思った。

 アルムの侍女として、これまでアルムができなかった普通の女の子の暮らしを目一杯楽しむお手伝いがしたい。

 ミラの他の使用人達も概ね同じ気持ちだった。

 当主のウィレムも聖女の責務を下ろした異母妹を、これまで可愛がってこれなかった分を埋め合わせるように可愛がるつもりらしい。


(私達もアルム様のために頑張りましょう!)


 ミラは決意を新たにした。



 ***



 元ホームレス聖女アルム・ダンリーク。


 いろいろあって実家の男爵家に戻ってきた彼女は、異母兄と使用人達から可愛がられ、結界を張る必要もなくのんべんだらりと過ごしていた。


 しかし、もちろんいつまでもそのままでいていいわけがない。

 自らの人生を実りあるものにするために、「聖女」としてではなく「アルム・ダンリーク」としてすべきことを見つけなければならないとアルムは思っていた。

 そして、決めたのだ。自分が「やりたいこと」をみつけよう、と。

 だが、


「私のやりたいことって……なんだろう」


 目下、アルムの「やりたいこと」探しは難航していた。

 なにせ、これまでのアルムは言われるまま流されるままに生きてきた。

 他人行儀な使用人に世話をされ、用意された教育を受け、言われるままに聖女認定を受け、聖女として神官の命令に従うばかりだった。

 これからは自分の意志で自分の道を選ぶと決めたものの、急にひらけた世界を前にアルムはどうしていいかわからなかった。


「お兄様は何をしてもいいと言ってくれるけど……」


 行きたい場所や学びたいことがあるなら、旅行でも学園に入学でも好きにしていいと、異母兄のウィレムは言う。

 だが、旅行も学業もそれなりにお金がかかる。なんとなくとかあやふやな理由で出費させるのは気が進まない。


 悩んで溜め息を吐くアルムの様子を見た専属侍女のミラが、こう提案した。


「お嬢様、まずは簡単に始められることからやってみてはどうでしょう」


 そう言ってミラが持ってきたのは刺繍の道具だった。

 刺繍ならば、貴族令嬢のごく一般的な趣味であるし、手を動かしながら考えごともできる。


「刺繍か……大神殿で糸紡ぎならやったことあるけど」


 アルムは色とりどりの糸を眺めて呟いた。

 ちなみにその糸紡ぎ、本来は聖女の仕事ではない。


 聖堂のタペストリーを修繕するから、という理由になっていない理由でなぜかアルムがその修繕用の糸を紡がされたのだ。某第七王子に。


 アルムは言われた通りに糸を紡いで、ノルマを果たした後は自分が紡いだ糸がどうなったかは知らない。


 実はアルムが紡いだ糸は使われることなく今も大神殿の宝物庫に眠っている。

 何故かというと、材料は普通の白い綿だったにもかかわらず、アルムが紡ぐときらきら光る金の糸ができあがったからだ。


 その金の糸を前にして、アルム本人は過労でぼーっとしていたのと無知ゆえに糸が金になったことについて深く考えることをしなかった。

「とっとと終わらせて寝たい」としか考えていなかった。


 一方、アルムに糸を紡がせた第七王子ヨハネスは、金の糸を前にして悩んだ。

 これを聖女アルムの起こした奇跡として大々的に自慢して回りたい気持ちは大いにあったが、綿糸を金糸に変える能力が知れ渡ってしまったら、アルムの元に奇跡の糸を求めて大量の注文が舞い込むに違いない。

 そうなったら、アルムを独り占めできなくなる。否、聖女の業務が滞る。


 というわけで、この奇跡はヨハネスの胸三寸で「なかったこと」にされ、金の糸は宝物庫に丁重に隠されたのだった。


 そんな独占欲による隠蔽が行われていたと知る由もないアルムは、ミラに教わりながら初めての刺繍をちくちくと刺していった。

 初心者向けの簡単なラベンダーの図案だったが、アルムの腕前はそれほど酷くもなくそれほど上手くもなく、可もなく不可もなくといったところだった。


「まあ、お嬢様! 初めてでこれだけできれば立派ですわ!」


 完成したハンカチを広げて、ミラは手放しで褒めた。当主のウィレムから甘やかす許可は貰っている。


「これならすぐに上手になりますよ! まるで今にもラベンダーの香りがしてきそうな……」


 褒め言葉の途中で、ミラは首を傾げた。


 かすかに、甘い匂いがする。


 まるで、本物のラベンダーのような香りが。


 まさかそんな、と、ミラはハンカチを鼻に近づけて、すん、と鼻を動かした。

 次の瞬間、


「……ぐぅ……」

「えっ?」


 突然、崩れるように床に座り込んですやすや寝息を立てはじめたミラに、アルムは驚いて目をぱちくりした。

 刺繍の出来栄えを見てもらっていたら、目の前の侍女が一瞬で眠り込んでしまったのだ。


「ど、どうしたの?」


 肩を揺すってみるがミラは完全に熟睡してしまっている。


「おや、アルム様。どうされました?」

「あっ、マークさん!」


 ちょうど通りかかった執事のマークに、アルムは突然眠り込んでしまったミラを見せて説明した。


「このハンカチですか? ん? 花の香りがしますね。香水でもつけて……ぐう」

「ええ!?」


 アルムの説明を聞いて、ハンカチを手にとって鼻に近づけたマークが扉に寄りかかって眠ってしまった。

 アルムはわけがわからずに混乱するばかりだ。


「だ、誰か……お兄様ーっ!」


 混乱したアルムはミラとマークの体を宙に浮かせ、ウィレムの執務室まで浮かせたまま運んでいった。



 ***



「それで、それが原因のハンカチなんだな?」

「さようでございます」


 マークは銀の盤に載せたハンカチを恭しくウィレムに差し出した。

 ウィレムは難しい顔つきで、ちょっと不格好なラベンダーが刺繍されたハンカチをみつめた。


 突然、執務室に宙に浮いた状態の人間が二人入ってきた時は何事かと思ったが、その後泣きながら入ってきた異母妹を見て「なんだ。アルムが浮かせているだけか」とほっと胸を撫で下ろした。

 男爵家の当主たるもの、異母妹が人間を浮かせていたぐらいでいちいち驚いてはいられないのだ。


 ウィレムはすぐさまアルムを泣きやませ、宙に浮かぶ二人を床に降ろさせてから別の侍女に命じてアルムを執務室から連れ出させた。

 その後で二人を起こし、事情を聞いたところ、二人ともアルムが刺繍したハンカチの匂いを嗅いだと証言が一致した。


 問題のハンカチを持ってこさせ、あれこれ試してみたところ、このハンカチに手を触れるとラベンダーの匂いが発生し、その匂いを嗅ぐと眠りに落ちてしまうことが判明した。


「短い睡眠なのに一晩ぐっすり寝た朝よりも疲れが取れております。こころなしか、持病の腰痛も楽になった気がします」

「それが本当なら冒険者が喉から手が出るほど欲しがる回復アイテムだな」


 ウィレムは頭を抱えた。

 自分の異母妹がたぐいまれなる光の魔力を持っていることは知っていたが、ちょっと刺繍を教えただけで奇跡の回復アイテムを作られてしまうのでは、うかつに針と糸を持たせられない。

 この分だと、破けた服を繕ったら絶対に破けない鎧よりも頑丈なシャツが完成しそうだ。


「不眠症の方に貸し出したら喜ばれそうですけどねぇ」

「一度貸し出したら二度と戻ってこないだろうな」


 こんな奇跡のアイテムがあると知れたら、盗んだり盗まれたり売買されたりで、二度と持ち主の元には戻ってこないだろう。


「それは俺が将来、不眠症になった時に使わせてもらう。それまでは額に入れて俺の寝室に飾っておけ」

「かしこまりました」


 こうして、アルムの初めての刺繍作品はウィレムの寝室の壁に額に入れて飾られることになった。




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