第21話 元聖女の祈り




 寝覚めが悪い。

 昨夜はなかなか寝付けなかった上、夢見も良くなかった。


「はあ……」


 大神殿の廊下を歩きながら、ヨハネス・シャステルは溜め息を吐いた。

 朝起きたら何故か枕に大量の抜け毛が落ちていたし、寝台から降りた途端、落ちていた書類を踏んでひっくり返って寝台の縁に後頭部を打ち付ける羽目になった。


「朝っぱらから……ひっく……ついてないな……ひっく」


 ヨハネスはズキズキ痛む頭を押さえて溜め息を吐いた。


 寝覚めの悪い原因はわかっている。アルムだ。

 より正確に言うと、第五王子に見初められてしまったアルムだ。


 ワイオネルには現在、婚約者も恋人もいない。

 二年前までは宰相の娘である婚約者がいたのだが、家ぐるみで不正に関わっていたことが明らかになって罪人として辺境の地に追放された。

 追放された宰相の代わりに新たな宰相となったクレンドール候はワイオネルの立太子を快く思っていないため、彼に有力な後ろ盾となる婚約者を迎えることを避けている。


「まさか……ひっく、ワイオネル様が、ひっく、アルムを……」


 憂鬱な気分で肩を落とし、少女の面影を脳裏に思い浮かべる。


「アルム……」

「滅っ!」


 次の瞬間、背後から降り注いだ光の矢を、ヨハネスは間一髪、ぎりぎりのところで避けて床に転がった。


「朝の挨拶より先に背後から襲いかかるってどういうことだ!?」

「申し訳ありません。邪な気配を察知したもので……」


 美しい容に朝の光を浴びて輝く聖女キサラが、悲しげに眉を下げた。


「一つも当たらないだなんて、私の未熟さの現れで恥ずかしいですわ。もっと精進して参ります」

「俺に攻撃を当てるために精進しようとするな! 動機が不純すぎるだろ!!……ひっく」


 ヨハネスは立ち上がりながらキサラを睨んだ。「ひっく」と肩が揺れる。

 キサラはそんなヨハネスを無視して淡々と述べた。


「殿下。本日は私、聖女キサラが王宮の浄化に向かいます」

「あ? ああ……ひっくっ」


 ヨハネスは肩を揺らしながら頷いた。

 二ヶ月に一度、聖女を派遣して王宮の浄化を行うのだ。誰が行ってもいいのだが、ヨハネスがアルムを外に出さなかったことと、侯爵令嬢であるキサラは一人で王宮へ行っても堂々としているため、もっぱらキサラが担うことの多い役目だ。


「問題はないだろうが……ひっく、しっかりやれ。ひっく」

「お任せくださいませ」


 キサラは優雅に礼をして去っていった。

 その姿は非の打ち所のない令嬢であり清浄な聖女にしか見えないので、第七王子の生命を狙うのさえ止めてくれれば未来の王妃にもなれる資格があるのだが。


「ひっく……ワイオネル様の婚約者に推薦してみるか……? ひっく、そうすればアルムは……ひっくっ、いや、しかし、あの女にこれ以上の権力を与えると本格的に俺の命が危ない気が……ひっく……あー、なんで全然しゃっくりが止まらないんだ……ひっく」


 ヨハネスは喉を押さえて、首を傾げながら執務室へ向かった。



***



「うちで漬けたキュウリとナスだよ。結界の中に入れるよ」

「聖女さま。きれいな花を見つけたからあげるよ」


 貧民地区の住民達ともすっかり打ち解けて、アルムは廃公園の日常に慣れきっていた。

 住民の方も慣れたもので、結界の外で勝手に輪になって座り茶を飲んだり「今日は王子こないかねぇ」などと王子出没を賭けたりしている。

 最近この界隈では王子という存在が「たまに山から下りてきて畑を荒らす厄介な害獣」みたいな扱いをされている。それでいいのかシャステル王国。


「ところでアルムちゃん。聖女エリシア様って知ってるかい?」


 一人の老人がふと、思いついたようにそう言った。


「エリシア様?」


 アルムは目を瞬いた。

 もちろん、名前は知っている。聖女エリシアといえば、王弟の妃となった伯爵令嬢だ。

 聖女時代は非常に民衆に慕われたらしいが、十年前に離宮が火事になり子供とともに亡くなったと聞いている。


「そうそう。エリシア様がいた頃は、貧民地区もここまでひどい状況じゃなかったんだよ」

「ああ。エリシア様と王弟様は貧しい者のことも気にかけてくれていた」


 当時を知る者達が頷き合いながら聖女エリシアを讃える。

 アルムも聖女エリシアの話は大神殿で何度も聞いたことがある。誰の口からも称賛しか紡がれず、不幸な事故を嘆く声が十年経った今でも止まないという。


「正直、エリシア様と王弟様が国を動かしてくれればいいのにと思っていたのに……」

「国王も大神殿も、俺達のことなぞ考えていないからな」

「アルムちゃんをいびって追い出すなんて、エリシア様がいなくなって大神殿は腐っちまったに違いない」


 住民達はそう言って嘆いていた。


 大神殿が腐っているというのは間違いだ。アルムはそう訴えたくなった。大神殿は腐っていない。腐っているのはヨハネスだけだ。


「聖女エリシア様か……」


 住民達が帰った後、アルムはベンチに寝転がって呟いた。

 死後十年経ってもいまだに民に慕われているだなんて、よほど立派な聖女だったに違いない。


「立派な聖女か……私にはなれなかったけれど、キサラ様達は頑張ってほしいな」


 元聖女アルムは元同僚達のためにそっと祈った。



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