第10話 元聖女と貧民地区





 結界の中は暑くも寒くもなく、常に心地よい温度に保たれている。

 その結界の中で、アルムはぐっすり眠っていた。


「おい! おい!」

「……んあ?」


 心地よい眠りから引き戻されて、アルムは目を開けた。


「何寝てんだよ! 食いもんを寄越せ!」


 見れば、毎日やってくる貧民地区の住人がアルムに向けて怒鳴っていた。

 アルムは目を擦りつつ首を傾げた。


(この人達、一日に何度も来るけれど、仕事とか行かないんだろうか?)


 飢えているなら仕方がないけれど、毎日十分すぎるほどの作物を持ち帰っているのに。とアルムは不思議に思った。


「おい! 早くしろ!」


 囂々と怒鳴られ、アルムは眉をひそめた。毎日、何度も作物を作るように強制されるのは、少し違うような気がした。別に、アルムには彼らに食べ物を与えなければならない義務があるわけではない。彼らが困窮していて食べるものがなくて困っていたから、食べ物を与えたのだ。十分すぎる量を与えているのに、何故更なる要求をされなければならないのだろう。



「あの、さっきもたくさん持って行きましたよね?」

「うるせぇな、さっさと木を生やせよ!」

「……一応、力を使うと私も疲れるんです。そんな一日に二度も三度も、大量の作物を作ることは出来ません」


 実際、ひっきりなしに作物を取りに来られるため、ゆったりとお茶を飲む暇もない。

 だが、アルムの言葉を聞くと、集まった住人達は口汚くアルムを罵り出した。


「ちょっと手を動かすだけだろうが!」

「ケチケチすんじゃんねぇよ!」


 結界があるから彼らは入ってこれないが、もしも結界がなかったらずかずかと畑に踏み込んできそうな勢いだ。


(なんかやだな……)


 住人達の態度に、アルムは不快を感じた。


 その時、やたらときらびやかな馬車が勢いよく走ってきて、結界の周りに集まっていた住人達を蹴散らした。


「おお! 聖女アルム! まことに君がこのような場所にいるとは!」


 やや芝居がかった動作で颯爽と馬車を降りてきたのは、眩しいほどの美貌の王子であった。


(え? 誰?)


 王子の顔など覚えてもいないアルムである。正確に言うと、覚えている余裕などなかった。


「かわいそうに……大神殿を追い出されたと聞いたよ。まったく、聖女を追い出すだなんて、大神殿の神官には罰を与えないといけないな。さあ、聖女アルム。私と共に帰ろう。大丈夫、もう二度と、君にひどいことはさせない。私が守るよ」


 第一王子ヴェンデルは麗しい笑顔でアルムに手を差し伸べた。

 それは、たいていの女性ならば真っ赤になってしまうに違いないほど様になっていたが、アルムの胸には何一つ響かなかった。

 否、「大神殿」「帰ろう」という二語だけ、やたらはっきりと響いた。


 ごうぅん……っ


「な、なんだ!?」


 突如、大地が激しく揺れ、ヴェンデルは驚愕の声を上げた。

 地面から生えてきた巨大な木の根が、ヴェンデルの体を包み込んだのだ。


「くっ……なんなんだこれはっ!?」


 木の根に捕まったヴェンデルの体は宙に持ち上げられ、さらにしゅるしゅると木の根が巻き付いてくる。


「やっ、やめろっ!!」


 木の根が絡み合って自らの周囲を壁のように囲んでいくのを目にして、ヴェンデルは恐怖のあまりもがいた。だが、木の根はびくともせず、繭のような形になってヴェンデルを包み込んでしまった。


「ひぃ……だ、出せっ!! 私は第一王子だぞ!!」


 暴れるヴェンデルの体の上に大量の葉っぱが舞い降りてきて彼の顔以外を覆った。


「うわああっ!!」


 一本の木の根が葉っぱの上からヴェンデルの体を叩いた。

 ぽふぽふ。


「ぐあああっ!!」


 ぽふぽふ。


「やめろぉぉっ!!」


 ぽふぽふ。と、木の根は一定のリズムでヴェンデルの胸元を叩き続ける。


「はあはあ……?」


 暴れ疲れたヴェンデルはふと気が付いた。

 先ほどから、木の根はウェンデルの動きを封じるだけで傷つけようとはしない。

 いや、むしろ——


「あたたかい……?」


 木の幹のベッドと葉っぱのお布団に包まれて、さらに寝かしつけるように一定リズムでとんとんと優しく胸を叩かれる。

 頑丈な木に包み込まれた、不思議な安心感。


 ヴェンデルには母から抱きしめられた記憶がない。

 王の第二妃となった母は国で一番の美女だった。その美貌故に王に強引に召し上げられたため、王を愛しておらず、王の子にも愛を感じることがなかった。

 ヴェンデルは物心ついた頃からほんの数回しか顔を合わせたことのない母を恨んでいた。母を不幸にした父も憎んでいた。だからだろうか。

 母譲りの美貌に惹かれて寄ってくる女達を父を憎むように憎んだ。自らの美しさを鼻にかける女達を母と重ねて恨んだ。その女達を上辺だけの笑顔で夢中にさせて遊んで捨てるのがヴェンデルの復讐だった。

 たいして美しくもない、家柄がいいだけの頭でっかちな婚約者はヴェンデルの放蕩ぶりに呆れて口うるさく叱ってくるが、何を言われようともヴェンデルの心には響くことがなかった。


 だが、今こうして木の温もりに包まれていると、頭がぼんやりして、何か懐かしい記憶が蘇ってきそうになる。

 そう、あれは確か、ヴェンデルがまだ母の愛を期待していた幼い日。

 熱を出して心細くて、母に会いたいと泣きじゃくるヴェンデルを寝かしつけて、ずっと傍についていてくれた乳母が布団の上から胸をとんとんと叩いてくれていた。

 その時と同じ、優しい感覚。


(ああ、そうだったんだ……)


 ヴェンデルは気がついた。

 恨みと憎しみで濁ってしまう前の、ヴェンデルの本当の望みとは。


(私はただ、誰かに傍にいてほしかっただけだったんだ……)


 ヴェンデルは濁った心が洗われたような、安らかな気持ちで目を閉じた。




 その日、聖シャステル王国の王宮では、どこからともなく延びてきた巨大な木の根が襲ってきたと大騒ぎになった。

 だが、木の根は誰も傷つけることなく、木の揺りかごで穏やかに眠る第一王子をそっと地面におろすとしゅるしゅると来た方向へ戻っていったのだった。




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