第10話 伝説の聖女の力に目覚めた妹だった人が窮地に陥りました

 魔法灯がチラ、チラと明滅する。

 そのたびに、黒いオムツをはいた親父の姿が、一瞬だけ垣間見える。


 雷光と、光もおぼろげな魔法灯が重なって、親父の姿は陰に彩られていた。

 それはまるで、闇の中から浮かび上がってきたように見えて――、


「お、おばけェェェェェェェェェェェ!?」


 俺、逃げちゃった。


「あ」


 後ろから、親父のようなオムツはいた黒い仮面のお化けの声がする。


 いやいやいやいや、無理無理無理無理!

 あんなの、幾ら何でも怖すぎる! 会話なんかできるかよォ!


「待つんだ、エリィ」


 ――すぐ耳元に、声がした。


「ひっ」


 走り出していた俺の身がその声に竦んで、足が止まってしまう。

 まさか、もうあれが追いついてきたのかと、背後を振り返ってしまう。


 でも、そこに黒いオムツをはいた親父はいなかった。

 じゃあ、今の声は、一体。

 そう思っていると闇が蟠る通路の向こうから、ひたり、ひたりと小さな足音。


 それをかき消すようにして、ガラガラの音がして、外からは雷。

 またしても、雷光が重い陰を伴った人の形を、そこにくっきり浮かび上がらせる。


「パパを前にして逃げるなんて、おまえはひどい子だね、エリィ」

「……お、親父? 本当に、親父なのか?」


 見た目も声も、完全に親父だ。

 けれど黒い仮面をつけたその姿は、俺が抱く親父のイメージに全くそぐわない。


「もちろん、私さ。おまえの父の、公爵だよ」

「待てよ、親父がバブバブっ子だなんて、聞いてないぞ!」


「ああ、実は私は、隠れ特別会員なんだよ」

「か、隠れ……?」

「特別会員の中には、クラブ会員にすら正体を隠す者もいるのさ。私のように」


 その話を聞いて、ベルケン大司教の顔が浮かんだ。

 他のクラブにスパイとして潜り込むなら、そういうこともあるかもしれない。

 でも、だとしたら……、


「何で、今日になっていきなり……!」


 浮かんだ疑問は、その隠れ特別会員の親父が、何で俺に正体を告げたか。

 そんな必要、どこにあるんだよ。今の今まで隠し通してたのに。


「それはね、おまえにお願いがあるからだよ、エリィ」

「お、お願い……?」


 そのお願いとやらのために、隠してた正体を俺に明かした、ってのか?

 逃げなきゃいけない状況なのに、少しだけ気になってしまった。


「実はね、私は母さんにバブバブバァバになってほしいんだ」

「…………は?」


 何、言ってんだよ、親父?


「おまえからも一緒に頼んでみてくれないか。母さんに」

「バ、バカ言うなよ!」


 そんなの、聞けるワケないだろ!


「あれでお袋がどれだけ追い詰められたか、一番知ってるのは親父だろ!」

「ああ、そうだね。あのときの母さんは、とても可哀想だった」


「だったら――!」

「でもね、それはまだ母さんがバァバになる素晴らしさを知らないからなんだよ」


 はぁ……?

 本当に、何言ってんだよ、親父……。


「バァバになることは、とても、とても素晴らしいことなんだよ。母さんは、まだそれを知らないだけさ。知れば、そして実感すれば、きっと悦ぶはずなんだよ」


 それを語る親父の声は、聞いたことがないほどに恍惚としていた。

 仮面で覆われて見えないその顔は、今、確実にグニャグニャに笑っている。

 確信したくもないことを、俺はその声によって確信させられた。


「……なぁ」

「何だい、エリィ」


 俺は、眼前に立つ黒いオムツの男に、率直に疑問をぶつけた。


「――おまえ、本当に親父か?」

「父親に向かっておまえとは、悪い子だね、エリィは」


 その言い方だけは、俺が知っている親父の物言いだった。

 しかし、それ以外は何もかもが違いすぎる。

 その姿、その仮面は言うに及ばず、お袋をバァバにするとか言い出すなんて。


「おまえ、誰だよ」

「私は私さ、おまえとジョゼの父親で、ハイデミットの公爵だよ」


 ゆっくりと、そして淡々としたその口調は、普段の親父にはないものだ。

 何だってんだ、この生気のなさは。

 明らかに人間のはずなのに、人形みたいに思えてしまう。


「私に従えば、おまえを元に戻してやってもいいぞ」

「……え?」


 ――元に、戻す? 俺を、私に?


「私はね、おまえのことが心配で仕方がなかったんだ。だから調べたよ、おまえを元に戻す方法を。そして今日、ようやく見つけたんだ。ようやくね」


 確かに、親父は俺を戻す方法を調べてくれると言っていた。

 でも、毎日それを尋ねても、全然わからないような感じだったじゃないか。

 それが何で、こんなタイミングでいきなり――!?


「私と一緒に母さんにお願いしてくれるなら、おまえを戻してやろう。さぁ」


 そう言って、親父は俺に向かって手を伸ばしてくる。

 俺が、戻れる。元の姿に、元の、聖女の私に、戻ることができる……。


「戻りたいだろう? 戻りたいはずだ。だって、おまえは聖女なのだから。女に戻らなきゃ、その役割を果たせないじゃないか。男のままじゃ、王太子殿下の婚約者として認められることだってない。今のおまえがあるのは、あの方のおかげだろう?」

「そ、それは……」


 確かに、親父の言う通りだった。

 王太子殿下の婚約者という立場がなくなれば、俺なんて、ただの――、


「だから、さぁ、こっちに来なさい。私に従うんだ。聖女に戻りたいなら」


 親父のその声が、俺の意識を蝕んでいく。

 聖女に戻れる。女に戻れる。今、何よりも望んでいるそれが、叶う。

 だったら、俺は――、親父に従って、お袋に……、


「――戻りたければ、私に従うんだ。エリィ」


 だがその言葉が、前に踏み出しかけた俺の足を止めさせた。

 クソッ、どうせなら思い出さなきゃよかった。

 そんなことを思いながら、俺は舌を打って逆に一歩後ずさった。


「どうしたんだい、エリィ」

「一つ、思い出したことがあるんだ、親父」


「何を、思い出したんだい?」

「親父は、家族にそんな条件を突きつけるようなヤツじゃないってコトだ!」


 叫んで、俺はその勢いのままに逃げ出した。

 そうだよ。俺は親父を知ってる。

 俺が知ってる親父は、俺みたいなバカでも、分け隔てなく愛してくれる人だ。


 あの黒いオムツをつけた親父は、親父じゃない。

 それだけははっきりとわかった。本当の親父は家族を人質になんかしない!


「そうかい、逃げるのか。それじゃあ、お仕置きが必要だね、エリィ」


 また、耳元で声がした。


「だが、どこに逃げても無駄だよ? この家の内部は、魔法セキュリティが張られている。その全管理権限は私が掌握しているんだ。どこにいても、全部わかるよ。こうして声も届けられる」

「クソッ、だったら外に逃げてやるよ!」


 通路を走りながら、俺は外に通じる窓に体からブチ当たった。


「それも、無駄だよ」


 親父の声。

 そして、俺の体は見えない壁に弾かれた。


「な……、どうして!?」

「上級貴族の邸宅には、強力な防護結界があってね。それを、ちょっと内側に展開しただけだよ。つまり、外に逃げることはできないということさ」


 クソッ! 逃げ場はないってことかよ!


「さぁ、来るんだエリィ。悪い子には、少しお仕置きをしなきゃいけないからね」


 ひたり、ひたりと、闇の向こうからXの仮面をつけた親父が歩み進んでくる。

 俺は走って逃げたはずなのに、全然、距離が開いてない。


「今のおまえは子供なんだ。逃げても無駄だよ、エリィ」

「う、うるさい、うるさい!」


 腹の底から湧き上がって来る恐怖が、全身を強張らせて震わそうとする。

 それを我慢しながら、俺は逃げた。必死に逃げた。


 何で、使用人が誰もいないんだよ!

 おまえらのご主人様が、嵐の夜に乱心してるんだぞ、黒いオムツにガラガラだぞ!

 一人くらい、出てきてもいいだろうが。何で誰もいないんだ!?


「使用人なら、今晩は誰も起きてこないさ。全員、薬でグッスリだ」

「何考えてんだよ、もォォォォォォォ!」


 使用人に薬盛るとか、公爵のやることかよォ!


「クソッ、クソッ!」


 毒づきながら、俺は逃げる。

 外には出られない。使用人も助けに来ない。じゃあ、どうすりゃいいんだ?


「怖い……」


 逃げながら、気がつけば俺は泣いていた。


「怖いよ、たすけて……、たすけて、ねーちゃん……」


 姉に助けを求めながら、俺は自分の部屋に逃げ込み、ドアに鍵をかけた。

 この鍵は魔法を使ってない。親父は簡単には入ってこれないはずだ。


「どこに逃げても無駄だよ、エリィ。エリィィィィィィィィ~……」


 粘つくような声が、俺の名を呼ぶ。近くに聞こえるそれに、全身が総毛立った。

 広い部屋の一番隅、大きなクローゼットの端に、俺は身を丸めて隠れた。

 そんなところに隠れても無駄だと知りながら、それでも、そうするしかなかった。


「ひっ、ひぐッ、ぅ……、ぅぅ……!」


 雨の音が、風の音が、魔法灯のチラつきが、俺の心をこれでもかと圧迫する。


「エリィ、今から迎えに行くよ、エリィィィィィィィ~~~~」


 怖い。怖い。怖い!

 黒いオムツの変態親父が俺を探し回ってて、まるで生きてる心地がしない。


 来る。


 親父が――、あの黒いオムツの変態が、もうすぐここに、来る。

 それを思うだけで心臓が止まりそうになった。自然と、涙が零れ落ちてくる。


「ねーちゃん、ねーちゃん。たすけて、ねーちゃん……」


 きつく目を閉じて念じる。

 来るはずがないたすけを求めて、俺はまぶたの裏に優しい姉の笑顔を描いた。

 ガタン、と、部屋のドアが鳴ったのはそのとき。


「ひぐっ!」


 思わず、声が出てしまった。


「エリィ、そこにいるんだね、エリィィィィィィィ~~……」


 ドアの向こうから、親父の声がする。俺はハッとして息を殺した。

 だが、ドンッ、バンッ、と立て続けに大きな音。

 待ってくれ、まさか、力づくでドアを破る気なのか! 冗談だろう!?


「エリィ、エリィィィィィィィ~~~~」


 いっそ愉しむような声を出しながら、親父はドアを叩き続けた。

 まずい、ドアを破られたら、いよいよ逃げ場がなくなる。

 追い詰められた俺は、クローゼットから出ようとして、手の中の手紙を――、


「……え、手紙?」


 自分で呟いて、一瞬きょとんとなる。

 そして右手を見ると、確かに、俺の手は手紙を握っていた。


 ――秘匿転移便!


「ねーちゃん、だ」


 それに気づいて、さっきとは違う涙が溢れそうになった。

 しかし、親父はドアを激しく叩き続けて、俺はほんの少しの感慨にも浸れない。


「ねーちゃん、頼む。ねーちゃん!」


 俺は心の底から念じながら、手紙の封を切って中身を取り出した。



『エリィ、たすけてあげるわ』



 手紙の冒頭に、綺麗な字で、俺が今一番欲しい言葉が書いてあった。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 ハイデミット辺境、エスティノ村。


「……やってしまったわね」


 マリシアが地面に描いた魔法陣の上にあった手紙が、消えた。

 つまり、転移便の発送に成功したということだ。


「本当に、よかったのですか?」


 マリシアが、沈んだ面持ちで私に尋ねる。

 まぁ、あなたがそんな顔をするのも当たり前よね。でも、仕方がないわ。


「ええ。これでよかったのよ。あの子は、放っておけないわ」


 そう返し、私は無理に笑う。

 送った手紙が、どうかエリィにとってたすけになるよう、心に念じながら。


 いいえ、なってくれないと困るわ。

 だってあの手紙を送るために、私はこれ以上ない対価を支払ったのだから。


 ――そしてその対価によって、私はエスティノ村を出ることになる。

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