第3話 伝説の聖女の力に目覚めた妹ではなく母から手紙が届きました
よいしょ。サクッ。
「ふぅ……」
鍬で地面を掘り返し、畑を耕していた私は、一段落したので手を止めた。
首に巻いた手拭いで滴る汗を拭う。
それなりに体を動かしたせいで、すっかり体が火照っている。
「ああ、暑いわ」
拭っても拭っても汗は止まることなく、私は手で顔を煽いだ。
僅かな風でも涼しく思えて、そんな程度のことでも幸せに思えてしまう。
大概、自分は安い感性をしている。私は苦笑した。
「やぁ、お嬢さん、精が出ますね」
「あ、トマスさん」
肩に大きな斧を担いだトマスさんが、畑の外から私に声をかけてきた。
「うん、いい感じに耕せてるじゃないですか」
「本当ですか、嬉しい!」
彼に褒められて、私は思わずパンと手を打ってしまった。
専業農家の彼に褒められて、喜ばないワケがない。
だって、最初は酷かったから。
この村に来て最初の頃は、王都を追放されたショックで何もできなかった。
マリシアもそんな私を気遣って、声をかけないでいてくれた。
でも、トマスさんは私に外に出るよう言った。
陽の光を浴びないと、人は元気にいられないから、って。
初めは鬱陶しくさえ思った。
けれど家に籠もる私に、彼は何度も何度も話しかけてきて、退かなかった。
その言葉に、私も少しだけ心が揺らいだ。
そして外に出て、何もやることがないから趣味の菜園でも造ろうと思った。
まだ貴族の感覚が抜けていなかった私は、どこかで農民を軽く見ていた。
作物を育てるなど簡単だ。農業など誰にだってできる。そんな風に考えてた。
甘かった。
自分の考えが全くの幼稚な認識であることを痛感するハメになった。
鍬は重かった。一度振り上げるだけでも難儀した。
振り下ろしても、まともに土を抉れず、逆に反動が伝わって手を痛めた。
他の農具だって、どう使えばいいかもわからず、途方に暮れた。
貴族として自己研鑽を重ねてきた私は、だが、農村ではただの小娘だった。
そんな私を、でも、トマスさんは辛抱強く見守ってくれた。
彼がずっと私の横で教えてくれたおかげで、何とか農具の使い方を覚えられた。
トマスさんはいわば、私にとっての農業の先生。
だから、褒められて素直に嬉しい。私は前に進めているんだと実感する。
「お嬢さん、この畑では、何を育てるんですか?」
「カブでも植えようかなって思ってます」
マリシアが作る煮込みスープに、カブがとてもよく合うのだ。
今まではトマスさんや他の人からもらってたけど、自分で育ててみたくなった。
「ああ、いいですね。苗はありますか? ないならお分けしますけど」
「あ、種ならあるけど、苗はなくて。少し欲しいかなって思ってたところでした」
私が言うと、トマスさんは「わかりました」と応じてくれる。
「トマスさんは、これから薪の調達ですか?」
「ええ、冬に向けて準備しておかないといけませんからね」
山の間にあるこの村は、冬になると雪に閉ざされる。
村につもる雪はさほどではないのだが、外に繋がる街道が埋まってしまうのだ。
「行商の人も、来れなくなってしまいますしね」
「ええ、燃料や食べ物も準備しておかないと、ですからね」
去年の冬をここで過ごした私も、雪に閉ざされる村の大変さは知っている。
備蓄が命綱でもあるため、今からでも準備するに越したことはない。
「ああ、行商といえば――」
と、トマスさんが何かに気づいたように言う。
「これ、さっき会った行商さんから、お嬢さんに渡すように頼まれまして」
そう言って、彼がポケットから取り出したのは――、
「……ありがとうございます」
一瞬、口ごもってしまった。
私は彼からそれを受け取って、会釈する。トマスさんは山に入っていった。
「はぁ……」
楽しかった気分が、一瞬で平たくなってしまった。
間違いなく受け取ったもののせいだろう。
別にそれを恨めしく思いはしないけど、と自分に言い訳し、私はそれを見る。
――手紙であった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「焼きましょう」
「開口一番、出る言葉がそれなのね」
マリシアに相談したら、そう言われた。
半ば賛成したい気持ちだけど、でも、やっぱり読まずに焼くのはまずいでしょ。
「読むまでもないでしょう。どうせエルミーナ様の泣き言です」
「それがねぇ……」
封筒の裏に記された差出人の名前を見て、私は小さく息をつく。
聡いマリシアは、その反応だけでおおよそ察したようで、
「…………奥方様、ですか」
「そう、母様からなのよ」
まさか、母から手紙が来るとは思ってなかった。
私のテンションが一気に平坦になったのも、これが母からの手紙だからだ。
私の母、クラリッサ。
元々は私の家に仕えていた下級貴族の娘で、父に見初められて妻になった人だ。
以前にも語った通り、愛される人だが能力は低く、頭もよくはない。
妹のエリィは、母の血をこれでもかというほど濃く受け継いでいる。
共に力のなさを自覚してて、しかも、その無念さを外に向けてしまう性格だ。
そして、私がその無念を晴らすための標的にされたワケだ。
まぁ、ここにいるマリシアが、その分、愛情を注いでくれたけど。
彼女がいなければ、私はどれほど醜く歪んでいたことか。
王宮での私も酷かったが、それに輪をかけて醜悪な人間になってただろう。
そしてずっと私を遠ざけていた母から、今日、初めて手紙が来た。
初めて、というのは王都を出て以来初めて、ではない。
この手紙は、私が母から送られた生まれて初めての手紙だった。
だからこそ私の中には複雑な思いが渦巻いている。
これがどんな感情なのか、残念ながらわからない。ただ、胸がザワついた。
「やっぱり焼いた方がいいんじゃ?」
「やめなさいって」
真顔で言うマリシアを、私は苦笑しながら止める。
私も、母は苦手だ。
でもそれは、苦手だというだけで、嫌っているワケじゃない。
私は母から疎まれ、嫌われたが、八つ当たりをされたことはない。
そもそも、私に八つ当たることすらできないのが母クラリッサなのだ。
だから、私と母の間に愛はないが憎もない。
今の私達にあるのは、相互不干渉という名の果てのない距離だけなのだ。
だが、いつの間に成立していた不文律を越えて、母は私に手紙を出してきた。
きっと、よほどのことがあったのだと思う。
公爵である父でさえも手に負えない、とてつもなく厄介な何かが。
「本当に、読むのですか?」
「読むわよ。焼くのは、それからでもいいでしょう?」
私を案じてくれるマリシアに言って、私は手紙の封を開けた。
そして中身を――、うわ、枚数多いッ!
エリィが寄越してきた手紙も相当長かったけど、それの比じゃない枚数だ。
これはいよいよ、大事があったに違いないと思わさせられる。
少し苦労しながら手紙を抜き取ると、私はそれを開いて、中身に目を通した。
すると、まず最初の一行目にこう書いてあった。
『ジョゼちゃんたすけて』
「…………」
母にちゃん付けで呼ばれたの、初めてだ。
何かしら、この妙なむずがゆさは。
『ごめんね、ジョセちゃん。ごめんなさい。ごめんなさいます、ジョゼちゃん』
う~ん、これはまごうことなきエリィの母!
最初の謝り倒しから、微妙に敬語を間違ってるところまで、そっくり!
『ジョゼちゃんはすごいわ。どうしてなの? 何で? 何でなのかしら?』
いや、それはこっちが聞きたいわ、母様。
その混乱具合は一体何事なの?
『ジョゼちゃん、聞いて、私もうすぐおばあちゃんになるかもしれないの!』
……うわぁ。
「――お嬢様?」
マリシアが私に小さく呼びかける。
きっと、私の顔色が一気に青ざめたのに気づいたのだろう。
いやぁ、参った。
久々に血の気が引く音を聞いてしまった。
マリシアが心配げに私を見ているが、特に私がどうということではない。
私が笑みを返すと、マリシアは首をかしげつつも視線を手紙の方へと戻した。
手紙の方に私も向き直って、読み進める。
『エリィちゃんがね、バブバブクラブ会員になっちゃったの。知ってるでしょ?』
うん、知ってる。
『そうしたらね、エリィちゃん。指名率トップバブバブママになっちゃったの!』
わぁ、なっちゃったかー。
『トップバブバブママ最速獲得記録らしくて、エリィちゃん泣いて喜んでたわ!』
うんうん、なるほどなー。
でもね、母様。
そのエリィの泣き笑い、喜びじゃなくて、絶望と諦めの泣き笑いよ。多分。
『トップバブバブママ最速記録樹立記念で、何故か私が王宮にお呼ばれしたわ!』
うん、呼ばれるわよねー。うん。
『そして陛下から『バブバブバァバ』になる権利を授与されてしまったのよ!』
やっぱりされちゃったかー。授与。
『バブバブバァバって何? 私、殿下と陛下のおばあちゃんってことなの!?』
ってことです。はい。
『お面とオムツをつけた男の人達に囲まれて、拍手と称賛を受けたのよ、私!』
だろうなー。
バブバブバァバの権利の授与なんて、何年ぶりのことだっけ……。
『おめでとう、バァバ。おめでとう、バァバ。って、大公と宰相と辺境伯が!』
地獄。
『みんな、鼻を啜って泣きながらバァバ、バァバって迫ってくるのよ! 怖い!』
まさに地獄。
まぁ、バブバブママはいても、バブバブバァバはいなかったからなー。
クラブ会員の皆様方も、新たな甘え相手に感極まっちゃったんだろうなー。
『ジョゼちゃん、たすけて。このままじゃ私、初孫前におばあちゃんに――』
そこから先、手紙の分量にして実に二十八枚分。
私に対する謝罪と、初孫は男の子を希望する旨が延々と綴られていた。
それに一応目を通して、私は手紙を折り畳む。
とりあえず、初孫についてはエリィに言ってくれ。と思う。
「私にそんなお相手、いないんだから。……って」
ふと隣を見ると、そこにはすっかり顔を青ざめさせたマリシアがいた。
「マリシア?」
「奥方様は、気が違われたのでしょうか」
人の母親に向かってとんでもないことを言い出したな。
いや、まぁ、わかるけど。
こんな内容の手紙、簡単に信じられるワケがない。
「バブバブクラブ、とありましたが――」
「実在するわ」
「……ただの都市伝説かとばかり」
やはり、マリシアはバブバブクラブの存在を知らなかったか。
私の育ての親に等しいとはいえ、彼女は使用人。
王宮を舞台とする貴族社会とは、微妙に距離を置いている人間でもある。
「ちなみに、バブバブバァバ、というのは?」
「あ、それ聞いちゃう?」
「聞きたくないですけど、聞かないと気になって悪夢にうなされそうなので」
わかるー。
私も、バブバブバァバの存在を知ったときは、悪夢かと思ったー。
「バブバブバァバはね、バブバブママの上位に君臨する、いわばクラブの聖母。全てのバブバブっ子に等しく愛情を注ぎ、構い、赦し、甘やかし、健やかなる成長を願うママを越えた大いなるママ。ゆえにバァバ――、グランドマザーなのよ」
「お嬢様、もしや頭がお悪くなっていらっしゃるのですか?」
なかなかに辛辣ね、マリシア。
でも、自分で言ってて私も自分の正気を疑いかけたわ!
「ちなみに、バブバブバァバになる資格を得るための条件は幾つかあって――」
「え、聞かなきゃダメですか、それ」
「この、無駄に重いストレスを私と分かち合いましょう、マリシア」
私は真顔で彼女に告げた。
マリシアは一瞬だけ目を丸くして、だがすぐに平静を取り戻す。
「どうぞ」
そうやってすぐに覚悟をキメてくれるところ、大好きよ。
マリシアに感謝を捧げつつ、私はバブバブバァバになるための条件を告げる。
「まず、トップバブバブママの実のママであること」
「何故ご自分の実母には甘えないのでしょうか、会員の皆様は」
無表情ね、マリシア。
「次に娘であるバブバブママが、クラブ内で何らかの大きな実績をあげること」
「ぼくのままはすごいんだぞ、ということですね。……ハンッ」
鼻で笑ったわね、マリシア。
「そしてクラブのプラチナダイアモンドギガマックスプレミアム特別会員なこと」
「プラチナの重みで湖にでも沈んでミルクの代わりに湖水を飲めばいいかと」
キレッキレね、マリシア。
「あと他にも――」
「あ、もういいです」
ついに我慢の限界を超えたのね、マリシア!
「やはりこの手紙は開くべきではありませんでした。燃やしましょう」
「待って、気持ちはわかるけど待って、マリシア」
母からの手紙に指を向けるマリシアを、私は何とか押し留めた。
しかし、彼女は実はかなり怒っているらしく、珍しく不機嫌そうな顔をする。
「お嬢様はもはや王都と関わりのないお方。そこにこんな手紙を送る奥方様とエルミーナ様の気が知れません。お嬢様の健やかなる日々の邪魔となるだけです」
「うん、マリシアがそう言ってくれるのは嬉しいわ。でも、放っておけないわ」
私が言うと、マリシアは不可解げに眉間にしわを寄せる。
彼女に対して、私は端的に説明した。
「飼い猫は、ストレスで簡単に死ぬのよ」
「あ」
マリシアが口に手を当てた。まぁ、そういうわけだ。
母とエリィに思うところは色々とあるけど、どうもそれどころじゃないようだ。
「ふぅ、仕方ないわね……」
私は軽く嘆息すると、机の上に置いてあるペンとインクを手に取った。
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