5-3 結菜の同僚宣言
「お兄、おかえりー」
ある晩帰ると、珍しく結菜が俺のライティングテーブルに向かっていた。
「……なにしてんの、お前」
なんか本読んでるようだ。ライティングテーブルの灯りを消すと、顔を起こした。
「ごめんねー。今日、ご飯なんにも用意してない」
「いいよ別に。いつもどおり弁当買ってきたし」
レジ袋を見せてやる。
「冷蔵庫に出汁入り味噌あるから、湯で溶けばいいしな」
乾燥わかめでも放り込めば、一応味噌汁と言い張れるくらいにはなる。
「……にしても、なに読んでたんだ」
見たところ、文庫とかじゃなくて分厚い大判書籍だ。
「これ」
重いのか、両手で本を持ち上げ、表紙を見せる。
「有機化学概論か」
俺の大学んときの教科書じゃん。
「こんなん読んでわかるのか」
「ところどころ」
「少しはわかるってことか」
「うん……。少しだけ」
たしかに教養課程用だから初歩っちゃあ初歩だが、それにしても大学で使う本だぞ。
「結菜お前、理系志望だったっけ」
「決めてない。そっち系のが得意だったけど」
「へえ……」
よくわからんがまあ、勉強するのはいいことだ。なんたってこいつ今、ニートみたいなもんだからな。
「わかんないなら、並行してこれも読め」
適当に、生化学だの食品科学だのの一般向け入門書を何冊か、本棚から抜いて渡してやる。よくある理系新書だ。
「あと高校の化学と生物の参考書は読んだほうがいい。後でネットで注文しといてやるよ」
「ありがと」
「じゃあ飯にするか」
「うん。今、チューハイ出すね」
いそいそと冷蔵庫を開ける。
「新妻感出すな。気持ち悪い」
「えへっ。ごめん」
振り返って舌を出した。
「そうだよねあたし、彼女じゃなくてセフレだし」
「……」
あらヘンな扉開けたか。失敗した。
面倒なので最近は、この手には返事しないことにしてる。このあたりツッコむと、雰囲気悪くなるんだよなー、なぜか。地雷が見えてるんだから、踏まないに限る。
それについこないだ、西乗寺主任や菜々美ちゃんと飲んだとき、「寂しいからどうでもいい男に依存してる」説が出た。女子ふたりの判断だし、結菜は多分これだ。なら結菜には言わせとけばいい。
ときどきエロ攻撃してくるから、それかわすのが辛いが、俺さえ我慢すればいいんだ。……問題は、いつまで俺が本能を抑えられるかだが、それは考えないことにしている。
論理的に判断すれば、「無理。どうせすぐ手を出す。てか今晩出す」という線になるしな。同棲以来禁欲気味なんだから、風呂上がりの結菜見るだけで危なくなってるしなー毎日。禁欲のせいで、なんなら干してある結菜のパンツ見るだけで危ない。中学生かよ俺……ってくらい。
「そんで結菜お前、なんで急に勉強始めたんだ」
チューハイのツマミに、ちょっと聞いてみた。
「はあ、この唐揚げおいしいね」
唐揚げをアテに、ご飯をがっぽがっぽ放り込んでいる。菜々美ちゃんとかもそうだが、若いって凄いわ。俺あのペースであの量食ってたら、あっという間にメタボ&成人病確定じゃん。
「このスーパーの弁当、揚げ物が当たりなんだわ。自分とこで揚げてるから、とんかつでもなんでも、ベタッとしてなくてな」
「ここなら毎日でもいいね」
「まあなー」
いや、毎日揚げ物だと、俺が死ぬ。適当に近場のスーパーだのコンビニ、弁当屋とか、飽きないように毎日散らしてるからな。
「あのコンビニ、洋介兄の会社の人多いでしょ」
結菜のバイトの話だな。
「そりゃあな」
世田谷の住宅街と言えば聞こえはいいが、ただの不便など田舎だ。近所の住民以外であのコンビニ使うのは、近くで引っ越しやら工事やらしてる連中と、コンビニの真ん前にあるウチの研究員くらいだからなー。
「なんかお客さんの立ち話聞いてたら、研究って面白そうだなあって」
「面白いのは面白いよ。どえらい時間がかかるから、企画没が続くと落ち込むけどな」
「だからあたしも、そっちに進んでもいいかなあって」
なるほど。それで本なんか読み始めたのか。
「それで将来、お兄と同じとこで働く」
「ブホッ!」
ストロングチューハイ噴いたわ。
いや勘弁しろよ。万万が一にでもこいつがあの研究所入ってみろよ。セフレ(自称だが)が研究中ベタベタしてきて西乗寺さんだの菜々美ちゃん、事務のお姉様連中とかに冷たい視線で軽蔑されるの耐えられんわ。いくら童貞ウブとはいえ俺、M体質じゃあないしな(多分)。
だが心配するまでもないか。現実になるはずはない。なんせこいつ、まだ高校生だ。就職なんて何年後だよって話。
「ま、まあいいんじゃないか」
「一緒に働いていいの? ヤッターっ!」
喜んでるな。まあそういう世界線には分岐しないから、言わせときゃいいや。
「とりあえず大学行け。食品科学やるなら、理学部とか農学部な」
「そうしたいんだけどさ」
なぜか溜息を漏らした。
「お金が……」
あーそうか。こいつんち、今崩壊中だったわ。奨学金取れば国立ならワンチャンだが、それには学力が必要だ。
「どうしよう、お兄……」
すがるような瞳で、俺を見つめてくる。
「そうだなあ……」
困った。諦めて働けってのは冷たすぎる。せっかく本人がやる気を出したんだ。なんちゃって保護者としては応援してやりたい。
「金は俺がなんとかしてやる」
「本当?」
瞳が輝いた。
「ああ任せろ」
「さすがあたしのセフレ。頼りになるわー」
「だからお前、とりあえず模試受けろ。今の学力わからんと戦略の立てようがない」
「良かったー。お兄に相談して」
安心したのか、唐揚げ高速投入マシーンに戻ったわ。いくらでも食べてくれ。足りなければ冷凍してある握り飯出してやる。飯代くらい、たいしたことないからな。
それにしても、今後どうするか。
俺は考えた。安請け合いしたが、少し真面目に考えておかないとならない。
とりあえず、受験までならたいして金はかからない。それまでにやることいっぱいあるし、そもそも学力があるかもわからん。どうせ来年には高校に復学は決まってるんだ。結菜が本当にそっちに進めそうと判明したら、学校で勉強でもさせといて、その間に親戚連中かき集めて相談する手はある。
なんたって連中、俺に保護者を押し付けたんだ。その負い目を突けば、少しは金出すだろう。そもそも両親だっているしな。いくら家庭崩壊中とはいえ、娘の学費くらいなんとかするだろ。両親と親戚の金まとめて奨学金を足せば、授業料くらいはなんとかなるかも。……遊ぶ金は難しいだろうが。
「飯食ったら、また本でも読んどけよ。俺は参考書選んどくから」
「頼むね、お兄」
うれしそうに、結菜は瞳を細めた。
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