72話 お兄さん帰宅、お泊まり会


 薮原やぶはらの家にやってきる、贄川にえかわ 五和いつわ


 彼女は真琴に勉強を教えるつもりで来たのだった……。


「んぅ……すぅー……ん……」


 彼女は目を閉じて深い眠りについている。


 そんな彼女の肩を、誰かが、優しく揺すってくる。


五和いつわちゃん」

「ん……んぅ……」


「起きて、五和ちゃん」

「……る、さい」


 寝ぼけているから、いつもの通り、兄が起きしてきてくれたのだと勘違いしている。


「……あと、五分」

「駄目だよ。ほら五和ちゃん。起きてって」


 起こし方が、兄とは違う。

 誰だろうと思って目を開けると……。


「!?!??!?!?!?!?!?」


 そこにいたのは、スーツ姿の薮原やぶはらだった。


「え、え、ええー!?」


 なんで薮原やぶはらがどうして、パニック状態になっている五和。


「なん……え、ええ!?」

「五和ちゃん落ち着いて落ち着いて」


 ね、と薮原やぶはらが笑いかける。


 徐々に、パニックだった頭が、冷静になる。

 そうだ……自分は真琴に勉強を教えるため、彼女たちの家にやってきたんだ。


 薮原やぶはらは残業だと言っていた。

 つまり、仕事を終えて帰ってきたところなのだろう。


「……ご、ごめんなさい。他人の家に、厄介になってるのに、寝ちゃって……」


「いやいや、疲れてたんだろう? しょうがないよ。俺も子供の時分は眠くてしかたなかったしなぁ」


 余裕のある笑みを見て、五和はまた胸を高鳴らせる。


 ああ、大人だなぁ……素敵だなぁ……と、ぽーっとした表情で薮原やぶはらを見やる。


「あー、いっちゃん起きたー!」


 台所には、ポニーテールにして、エプロンを着けた真琴が立っている。


 似合ってるなチクショウ……と五和が内心で深く溜息をつく。


「ごめんねいっちゃん、あまりに気持ちよく寝てたから起こせなくって」


「……ううん、こっちこそごめんね。教えてる途中だったのに」


「そっちはいいよ! 勉強あきてきてたとこだしー」


 にこーっと笑う真琴。

 薮原やぶはらはあきれたように溜息をついて、真琴の頭をチョップする。


「あいたっ」


「おまえねぇ、五和ちゃんに教えてもらっといてなんだねその態度は」


「むー! お兄さんがぼくの頭たたいたー! これ以上ばかになったらどーすんだー!」


「馬鹿なおまえも可愛いぜ」


「ならよし! えへへ~♡」


 ……ずきり、と五和の胸に痛みが走る。


 なんだその、夫婦感は……。


 なんて幸せそうなんだろう。


 でも……いいんだ。

 ここから這い上がっていくんだから、自分は。


「……よしっ」


 五和は気合いを入れる。

 予定と違ってしまったが、彼女は本来、薮原やぶはらにアタックするためにやってきたのだ。


 やっと薮原やぶはらが帰ってきたのだから、ここから巻き返しを……。


「あ、じゃあ俺、五和ちゃんを駅まで送ってくるよ」


「……………………………………え?」


 絶望の表情を浮かべる五和。


 薮原やぶはらは彼女の内心を知らずに、時計を指さす。


「ほらもうすぐ21時だし、帰らないとだろ」


 確かに高校生が出歩くには遅い時間だ。


 もう家に帰らないと……。

 でも……いやだ。


 せっかく薮原やぶはらの家に来れたのに、今目の前に、愛しの彼がいるのに……。


 帰るのなんて……嫌だ……。


 とそのときだ。


「ねーねーいっちゃん、よければ、泊まってかなーい?」


「泊まる……?」


 薮原やぶはらが首をかしげる。


「だぁって今日は金曜日だよ? 明日はがっこーないし! ま、練習は午後からあるけど。なら一泊してもいいんじゃないかなーって?」


 五和はこのとき、真琴が救いの女神に見えた。


 ありがとう! と喝采をあげる五和。


「まあ俺は良いけど。五和ちゃんの方はだいじょ……」「大丈夫です!」


 自分でも、びっくりするくらい大きな声が出た。


 でもそこは食い気味になってでも言わないとだめだ。


「家族は、結構そう言うとこ許してくれるんで! 泊まります! 泊まろう、マコ!」


「う、うん……」


 真琴も薮原やぶはらも、ちょっとびっくりしている様子だった。


 五和はうれしくてたまらず、口元がにやけてしまう。


「じゃとりあえず家族に連絡してきな」


「……はいっ!」


 五和は携帯電話を取り出して、自宅に電話をかける。


『はい、贄川にえかわです』


 出たのは長兄だった。


「……あ、次郎太兄さん? 五和。あのね、」


 今日泊まることをさっさといって、切ろうとする。


 だが……電話の向こうで、兄は少し強めにこんなことを言う。


『五和。駄目じゃあないですかい、こんな遅くまで何の連絡もなしに』


 ……そうだった、と遅まきながら気づいた。

 兄には部活後から今まで、連絡を忘れていたのだ。


『とても心配しやしたぜ』

「……ご、ごめんね」


『まあ、五和が無事でなによりでさぁ。次からはラインの1本でも送ってくださいや』


「……うん。そうする。ごめんね、他に考え事してて」


 薮原やぶはらに会いたい気持ちが先行しすぎてて、家族への連絡を怠ってしまっていた。

 

 次からは本当に気をつけようと、心から思った。


『それで、どうしたんですかい?』

「……あ、うん。友達の家に今日泊まりたいんだけど」


 テストが近いので勉強をしていたら、遅くなってしまった、と伝える。


『いいんじゃあないですかい』

「……いいの?」


『ええ。向こう様にくれぐれも失礼ないように』


「……了解。じゃあね次郎太兄さん」


 ぴっ、と電話を切る。


 戻ってくると、リビングに薮原やぶはらが座っている。


 ……泊まるんだ、今日。

 大好きな人がいる家で、一緒の……家で。


 意識しただけで顔が赤くなる。

 心臓が痛いくらいドキドキと高鳴っている。

「ん? どうしたの? 座れば?」

「……は、はい」


 薮原やぶはらの前の椅子に座る。


「あ、そうだ。ありがとね」

「……え、っと、なにがですか?」


 薮原やぶはらは笑って言う。


「真琴に勉強を教えてくれてありがとう。君は優しいなぁ」


 ……ああ、好き、と五和は心のなかで思う。


 好き、好き、大好き……。


 薮原やぶはらは優しくてかっこ良くって、余裕があって……。


 本当に、大好きだ。


 そんな彼にお礼を言われて、ああ、うれしいなぁ……幸せだなぁ~……と五和は強く降伏を感じる。


「どうしたのいっちゃん、ふにゃふにゃしてるけど」


「……え゛? そ、そうかなぁ?」


「? まあいいけど……」


 かくして五和は、薮原やぶはらの家で一泊することになったのだった。

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