71話 五和、彼のおたく訪問



 部活の後……。


 贄川にえかわ 五和いつわは、薮原やぶはら真琴まことの家にやってきた。


「…………」


 ごくり、と五和は息をのむ。


 ここに薮原やぶはらがいる……。

 

 五和は必死になって、髪の毛を手で治す。

 大丈夫、部活のあとシャワーにちゃんと入った。


 化粧もいちおう、変にならない程度にはした。


 シャツも新しい物に着替えた……。


「……よしっ」

「いっちゃーん、はやーくー」

「……う、うんっ」


 気持ち的には戦場に赴く戦士だった。

 この先にいる薮原やぶはらとの邂逅……。


 緊張する。けど、プライベートで会えるのが本当にうれしい……。


 夢見心地の表情で、五和は真琴まことのあとについていく。


 大丈夫だろうか、変だと思われないか……部活の後だから、汗臭いとか言われたらどうしよう。死んじゃう……。


 真琴まこととふたり、マンションのエレベーターに乗る。


「……ね、ねえマコ。汗のにおい大丈夫かな」


「え? べつに大丈夫だよ」


「……ほ、ほんと?」


 ……本当のことを言うなら、部活がない日に来たかった。


 いくら部室のシャワーを浴びたとしても、やっぱり好きな人にはよく見られたいし……。

 ほどなくして、エレベーターが到着。

 真琴まことの後に続いていく。


 ドキドキ……と心臓が高鳴る。

 口から心臓が出てしまいそうなほどだ……。

「へいとーちゃくぅ。えーっと、カギはどこじゃーい」


 五和は緊張しすぎているため、真琴まことがカギを持ち出していることに気づいてない。


 がっちゃん。


「開いた。どうぞー」

「し、失礼……します」


 おずおずと五和が部屋の中に入る。


 玄関までは来たことがあるが、中に入るおはこれが初めて。


 ど、どこに薮原やぶはらはいるのだろう……。


 顔が熱い。胸がドキドキして苦しい。


 がちゃん、とリビングの扉が開かれる。


「てきとーにすわっててー」


 真琴まことが自分の部屋へと向かって消える。


 五和はどうすればいいんかわからず、呆然と立ち尽くす。


「……ここがたかきさんと、マコの……愛の巣……」


 自分で言っていて、悲しくなった。

 整理整頓されたリビングだ。 

 ちり一つ落ちておらず、部屋の床はピカピカ。


 台所を見やる。

 ここもものすごい片付いていた。

 きっと真琴まこと薮原やぶはらのために、毎日掃除をしているのだろう。


 ……自分は、ここまでできるだろうか。


 真琴まことの嫁スキルの高さを目の当たりにして、さらに落ち込む……。


「…………」


 ふるふる、と五和が首を振る。

 落ち込んでちゃ駄目だ、諦めないって決めたんだから。


「へいおまたせー」


 部屋着姿の真琴が帰ってくる。

 パーカーにミニスカート、というラフなかっこう。


「……ずるい」


 思わず口を出たのは、そんな言葉だ。

 部活の時の真琴と、学校に居るときの彼女しか、真琴は見たことがない。


 私服姿の真琴の、なんと可愛いことか。


 生足……白く細く、しかし適度に柔らかそう。


 こんなの見せられたら、きっと夢中になってしまう……。


「……ああ」


 立ちくらみがしてその場にしゃがみ込む。


「ど、どうしたの……?」

「……ううん、なんでもない」


 いちいち凹むな、と自分を鼓舞する。


「あー、のどかわいたー。いっちゃん何飲むー? ぽかりー?」


「……あ、えっと。おかまいなく」


 きょろきょろ、と五和は周囲を見渡す。


 ……あれ? と遅まきながら気づいた。


「……ねえ、マコ」

「んー?」


「た……お、お兄さん……は?」


 たかき、と言いかけてやめる。

 アレは薮原やぶはらと一緒に居るときにだけ使うと決めた。


 だって下の名前で呼んだら、真琴に薮原やぶはらへの好意を悟られてしまうだろうから。


「お兄さん? 仕事ー」


「………………………………え?」


 現在19時だ。

 たしか真琴は、前に薮原やぶはらの会社はホワイトで、18時には帰ってくると言っていた……はず。


「……し、仕事?」

「うん。残業だってさー」


「……残業」


 え、え? え? え? ……っと五和は困惑する。


 まさか、残業とは。

 いや、社会人なのだから、そういうのも想定できたはずだ。


 ……薮原に会えるという気持ちがせいで、薮原やぶはらの事情をすっぽり抜けてしまっていた。


「…………」


 ずずぅん……と五和は気を落とす。

 なんのためにこんなに準備したんだ……。


「ほいよいっちゃん! みねらーるむっぎっちゃ、麦茶! だよ」


 屈託なく笑う真琴。


「だ、だいじょうぶ……? なんか死にそうな顔してるよ、いっちゃん……?」


「……ダイジョウブダヨ」


「ほ、本当に? ペッパー君みたいになってるよ?」


「……ダイジョウブ。ボクハ、ペッパー君ダカラ……」


「そ、そっか……」


 はぁ……と五和は重く溜息をつく。

 残業で薮原やぶはらが遅くなるなんて……想定外だ。


「ねーえ、いっちゃーん。ゲームしようぜ!」


 真琴がテレビを指さして笑顔で言う。


「スイッチ買ったのスイッチ! 一緒にゲーム対戦しよー。ねーねー」


 五和は顔を上げて、小さくと息をつく。


「……マコ。駄目だよ。勉強しなきゃ」


「えーーーーーーーーーーーーー!」


 とても嫌そうな顔をする真琴。

 五和は苦笑しながら言う。


「……何のために来たと思ってるの? 遊びに来たんじゃないよ」


 それ、おまえが言うのか、と自分でツッコむ五和。


「ぶー、いーじゃんちょっとくらいさー」

「……だぁめ、マコ。ちゃんと勉強しないと。赤点取ったら、チームに迷惑かかるし、なにより……私も嫌だよ。友達が赤点取るの」


 そう、ここに来たのは確かに、薮原やぶはらに会うという打算があった。


 けれど真琴に赤点取って欲しくない、という気持ちは、純然たる事実である。


 ライバルではあるけど、真琴は、自分にとっては大切な友人なのだから。


「ちぇー、けちくさーい」

「……けちじゃありません。はい、椅子に座ってください」


「ひー。鬼~」


 真琴が席について、五和もまた座る。


 ノートと参考書、そして問題集を取り出す。

「……じゃあ、数学から。何がわからない?」


「何がわからないのかわかりません! 全部わからない!」


「…………」


 バスケと嫁スキル以外は、意外とポンコツだなぁ、と五和は苦笑する。


「む? なぁにその顔」

「……いや、マコは可愛いなって」


 うらやましいよ、とその後に続く言葉は飲み込んだ。


 だって馬鹿っぽいこの感じもまた、薮原やぶはらにとってはプラス要素になるわけだし……。


 でも、諦めないのだ。

 たとえ自分に外見的なハンディがあっても、残業で、薮原やぶはらが帰ってこなかったとしても……。


 この程度じゃ、くじけない。


「……じゃ、マコ。最初から全部おしえてくね」

「おねがいしますっ」


 薮原やぶはらがいずとも、真琴に赤点を取らせたくない五和は、とても丁寧に、真琴に勉強を教えていくのだった。

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