55話 ひなの失恋



 薮原≪やぶはら≫ が真琴と楽しく電話している姿を……。


 安茂里≪あもり≫ ひなは、目撃してしまった。

 一目、彼の姿を見て、理解した。


 電話の向こうにいる相手に、かなわないということを。


 ひなは、知らない。

 あんなふうに、薮原が楽しそうに、幸せそうにしてる顔を。


 ひなは、知っている。

 そんなふうに、彼を楽しい気持ちに、幸せな気持ちに、自分では……できないと。


 一度、ひなは風呂に引っ込んだ。

 シャワーを全開にして、彼女は涙を流した。

 泣いているのを、外にいる薮原に、聞かれたくなかった。


「負けたんだ……わたし……」


 前に、駅前の後援で見かけたときは、暗くて、薮原の表情を見えなかった。

 旅行前のときは、薮原の隣にいる女の子にしか、目がいかなかった。


 でも、今日。

 同じ部屋で、明るい場所で、彼があの子と話して姿を見て……ひなは敗北を確信した。


 薮原は、優しい。いつも声を掛けてくれる。

 自分と話してる時も、仕事をしているときも、微笑んでいる。とても話しかけやすい。大好きだ。


 ……でも。

 裏を返せば、彼は自分に対して、仕事でも、仕事外である今も、同じふうにしか対応してくれない。


 自分で、彼のあの笑顔を、引き出すことができない。


 電話の向こうにいるあの子は違うんだ。

 薮原を幸せにすることができる。

 自分と違って、心の殻の笑顔を、引き出すことができる。


 勝敗は決していた。

 否、勝負にすらなっていなかった。

 彼の、あの子への態度、表情は、一朝一夕で築き上げられたものじゃない。


 長い年月をかけて、愛をはぐくんできたのだと、理解できた。


「…………」


 あまり、長くシャワールームに引きこもっていたら、薮原が心配してしまうだろう。

 ここから出ていかねばならない。

 でも、こんな悲しい気持ちのまま、彼と顔を合わせるわけにはいかない。


 薮原は、誰よりも優しいから。

 彼は気づいてしまうだろう。自分が彼が好きで、自分のせいで女を振ってしまったと。


 ……彼のことは好きだけど、負担には絶対なりたくない。

 それに、この思いをくすぶらせたまま、この先、一生を終えたくない。


 だから……。


 ひなは、ふろ上がりに、薮原を呼び出した。


「せんぱい、話したいことがあります」



    ★


 ひなが呼び出したのは、昼間にキャンプを行った場所。


 今日はよく晴れており、星空が綺麗に見える。

 

 告白するには、絶好のタイミング、シチュエーションと言えた……。


 ひなは、前々から決めていたのだ。

 今日この日、このとき、薮原やぶはらに想いを伝えようと。


 だからこそ……。


「せんぱい……わたし、せんぱいが、大好き【でした】……!」


 負けが確定していても、自分に嘘はつきたくない。


 だから……告白をしたのだ。

 大好き、だった、と……。


「え、っと……」


 薮原やぶはらは突然の呼び出し、告白に驚いているようだ。


 一番困惑しているのは、ひなのセリフだろう。


 愛の告白ならまだしも、大好きだったとは何事だろうかと。


「文字通りの意味です。わたしは、先輩のことを異性として好きだったんです。でも……いるんですよね、せんぱいには、大事な人が」


 付き合ってくださいと言うと、相手に【相手を振る】ことを強要する。


 それは薮原やぶはらの心理的負担になる。


 かといって、思いを伝えずに終わると、それではひなの心がくすぶったまま終わる。


 ひなは、決めたのだ。

 直球で思いを伝えて……自分から、身を引こうと。


「ああ。そうなんだ。俺には付き合ってる彼女がいるんだ」


 ずきり……と彼女の胸の奥を、ナイフが突き刺さったような痛みが走る。


「わかってます。旅行前に、マンションの前で抱き合ってた子ですよね?」


「あ、ああ……よく知ってるな」


 知ってるよ。当たり前じゃないか。

 薮原やぶはらのことが、大好きなんだから。


 あの日だって本当は、薮原やぶはらをさそって、待ち合わせ場所へ行こうとした。


 でも……出てきたのは、あの小さくて、可愛くて、綺麗な女の子……。


 ひなは女として、素直に負けたと思った。

 あんなにも美しい少女だ、数年したら、もっともっと美人になっているだろう。


 それこそ、ひななんて比じゃないレベルの美女に。


 ……けれど勝つ見込みはあった。

 相手は、明らかに高校生だ。


 社会人と、高校生。

 どう考えても上手くいくはずがない。


 周りからの目もあるし、年を取れば取るほど、年齢の差によるギャップも生まれる。


 ……けれど、気づいたのだ。

 さっき、薮原やぶはらが電話の向こうの彼女と話してるとき。


 この二人なら、どんな困難も乗り越えられると。


 それくらい固い絆と愛で結ばれているのだと……気づいたから。


「大好きなんですよね、その人のこと」


「ああ……。ひな……」


 薮原やぶはらが、謝ろうとする。


 だから、ひなは笑った。

 もう、すべて吹っ切れたのだ、とばかりに……晴れやかな笑顔を【作って】。


「せんぱい! わたし……応援してます!」


「え?」


 ひなのリアクションが、想像と異なっていたからか、薮原やぶはらは当惑していた。

 だがひなは続ける。

 ……苦しいのを、我慢して、かなしい気持ちを……ぐっとこらえて。


「年齢の差とか……大変だと思います。でも! だいじょうぶです! せんぱいたちなら、きっときっと、幸せになれますよ!」


 それは、本当だ。

 見ていてそれは、第三者であるひなでさえもわかった。


 ……嘘は、今。

 この場において泣いていないこと、それだけ。


「せんぱいは、最高の先輩です! 強くて、かっこよくって……面倒見が欲って……やさ、優しくてっ!」


 声が一瞬震えたけれど、我慢した。

 聞こえてないことを、感づかれてないことを祈りながら。


「彼女さんは、幸せ者ですよ! 向こうもせんぱいを、愛してくれてますよ! 絶対絶対……幸せになれますよ! わたし……そうなれるように、応援してますから、ずっと!」


 立て板に水とはこのことか。

 普段こんなに饒舌ではないのだが。


 タメを作ってしまったら、泣いてしまいそうだから。


 でも泣いてはいけない。


 薮原やぶはらに……こう思わせないといけない。


 もう、自分は吹っ切れたのだと。

 もう、切り替えているのだと。


 だから、あなたが気に病むことは無いのだと……伝えないといけない。


「ありがとう」


 薮原やぶはらは、申し訳なさそうにしながらも……しかし、笑顔でうなずいてくれた。


 ……ああやっぱり、とひなは思う。

 自分が、引き出せる限界は……この笑顔までなのだ。


 どこか、気を遣っている。

 それはそうだ。相手は気遣いの出来る社会人なのだから。


 でも……違うんだ。

 自分が望んだのは、この先にある関係……。

「相手は、なんてお名前なんですか?」

真琴まこと


「真琴ちゃん、かぁ……」


 覚えておこう。

 

 自分を、負かした女の名を……。

 彼を、任せた女の名前を……。


「せんぱい、女子高生のことで、わからないことあったら、何でも聞いてくださいね! 数年前までは女子高生だったんで、いちおう!」


「ありがたい」


「それと、先輩が女子高生と付き合ってることは、だいじょうぶ。誰にも言いません。もしばれそうになったら、わたしがフォローします!」


 アンナあたりは、これからもアタックしてくるだろう。


 職場に、女子高生と付き合ってるなんて噂が流れたら、大問題だ。


「……いいのか?」


 よくない、という気持ちと、せんぱいのフォローに回ることの幸せとが、せめぎ合う。


 なんという自己矛盾だろうか。


 でも、薮原やぶはらの役に立てることは、純粋にうれしい。そこに偽りはないのだ。

「はい! いっつも迷惑かけっぱなしだったので、これくらいさせてください!」


 薮原やぶはらはしばしの逡巡の後に、頭を下げてきた。


「ありがと、助かるよ」


「………………さ、最後にっ。お願いしても、いいですか!」


「ああ、なに?」


 もう……崩れ落ちそうになっていた。

 駄目だ……まだ、泣くわけにはいかないんだ。


「これからも……わたしのこと、後輩として、そばに居てもいいですか……?」


 失恋後は、たいてい気まずくなって疎遠になるのが世の常だ。


 でも……ひなは決めたのだ。

 彼を応援しようって、サポートしようって。

 だから……そばから、離れて欲しくなかった。


「もちろん。おまえは、俺の大事な後輩だよ」


 ああ……良かった……。

 これで……踏ん切りがついた。


「ありがとうございます! じゃ、じゃあ……わたし、ちょっと散歩してから帰るんで! 先帰っててください!」


 薮原やぶはらは何かを察した様子で、うなずくと、きびすを返してその場をあとにする。


 ……残されたひなは、けれど笑顔で、薮原やぶはらを見送る。


「せんぱい、がんばですっ!」


 薮原やぶはら手を振ると、去って行く。

 まだ……。

 まだだ……。


 まだ……泣いちゃ駄目だ。


 ……やがて、薮原やぶはらの姿が課前に見えなくなって……。


「うん、良かった……これでいいんだ。余計な心労をかけることなく、身を引けたんだから。うん……良かった……」


 ぽた……ぽた……と涙が頬を流れる。


 お風呂で、あれだけ泣いたはずなのに……。

「あーあ……振られちゃった……わ、わたし……初恋だったんだけどなぁ……」


 ひなはしゃがみ込んで、顔を手で隠す。


 止めどなく涙があふれ出てくる。


「う……ぐす……うわぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 好きだという気持ちを、伝えられぬまま、胸にしまったまま……死ぬことはなくなった。

 でも今のひなは、死ぬよりも辛い気持ちだった。


「せんぱい……好き……せんぱい……好き……うあわああああああああああああん!」


 容易に、切り替えられるわけがない。


 だって彼への思いは、今でもこの胸に、確かに宿っている。


 でもそれは薮原やぶはらには、伝えない。


 もう終わってしまった恋なのだから。


 明日からは、元気いっぱいの後輩 安茂里ひなとして、彼の前に立ってなきゃいけない。

 ……だから、今は。

 今くらいは……泣いても良いよね……


 そう自分に言い聞かせて、ひなは夜が明けるまで、ずっとそうして泣いてるのだった。

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