47話 安茂里ひなは先輩が好き



 薮原やぶはら 貴樹たかきの後輩、安茂里あもりひな。


 彼女が彼を好きになったのは昨年度の春のことだった。


 社会人1年目、初日。

 ひなは満員電車に乗っていた。


『…………っ!』


 突如、自分の尻を誰かが触りだしたのだ。


 ひなは、後ろを振り返る。

 何食わぬ顔で、中年男性が自分の尻を触っている。


 ……怖かった。

 ひなは田舎から就職のために、都会へと出てきた。


 基本的に学校へは自転車や自動車がメインであったため、電車に乗ったことはほとんど無い。


 満員電車なんてほぼ生まれて初めて乗ったその日に、痴漢の被害に遭って……彼女は当惑した。


『…………』


 彼女は怖くて震えていた。

 どうしていいのかわからずに、耐えることしか出来ないでる。


 すると抵抗しないのをいいことに、中年のボディタッチが更に過激になる。

 

 なんで、周りは助けてくれないのだろうか。


 ひなは救いを求めるように左右を見渡す。

 だが誰もかれもが、スマホに目を落として、こちらを見てくれない。


 ……怖い。

 ひなは初めて、都会を怖いと思った。

 

 誰もが無関心で、見知らぬ人からはセクハラの被害に会う。


 これが、都会なのか。


『……たす、けて』


 こんなのが、毎朝続くのか……と思っていた、そのときだ。


『おいおっさん』


 誰かが、背後の中年おっさんの腕をつかんだのだ。


 ひなが振り返るとそこには、スーツに身を包んだ男性がいたのだ。


『この子に何してんだよ?』


 ……それがひなと薮原やぶはら 貴樹たかきとの、ファーストコンタクトであった。


 その後、男は捕まるのを恐れて逃げていった。


 恐怖から解放され、ひなはその場にへたり込む。


『だいじょうぶか?』


 薮原やぶはらはひなと一緒に次の駅に降りる。


 ベンチに座る彼女に、薮原やぶはらは缶コーヒーを渡す。


『……あ、りがとう……ございます』


 ぺこぺこ、ひなは薮原やぶはらに頭を下げる。


『災難だったなあんた』

『……はい。都会って、怖いとこなんですね』


 ひなにとっては出社初日から、トラウマを植え付けられたようなものだった。


 しばらく彼女は怖くて、立ち上がれないで居る。


『まーわかるよ。否やとこだよな都会って』


 薮原やぶはらは共感していた。

 離してみると、彼もまた、田舎から出てきた口だった。


 彼とすぐに意気投合した。

 そこで初めて気づいた、彼は、落ち込んでいる自分を、励ましてくれているのだと。


 ……優しい人も、いるんだな。


『んじゃそろそろ行くわ』

『あ、あのっ!』


 立ち止まった薮原やぶはらに、ひなは頭を下げる。


『ありがとうございました!』


 ……薮原やぶはらと別れたあと、ひなは後悔する。


 連絡先、聞いておけば良かった……と。


 また、彼に会いたいという気持ちが彼女の心の中に宿っていた。


 でもこの広い大都会で、彼と股出会えるなんて……。


 そんな物語のような奇跡は起きない……そう思っていた。


 でも……。


安茂里あもりひなさんね。……どうして、初日から遅刻したの?』


 ひなはその後、大幅に遅刻して、会社へと出社。


 上司となる、桔梗ヶ原ききょうがはら千冬ちふゆから、叱責を受けていた。


 落ち込んでいたそのときだ。


千冬ちふゆ……部長』


 一人の男性が手を上げた。

 ……そして、ひなは目を見張る。


『うそ……さっきの……』


 そう、なんという偶然か。

 ひなと薮原やぶはらは、同じ会社の、同じ部署に所属していたのだ。


『彼女来るときに痴漢の被害にあってたんです。それで……』


 薮原やぶはらが自分のために、弁明をしてくれていた。


 もう……ひなは彼に夢中になっていた。


 ピンチを二度も助けてくれて、しかも、同じ職場に、先輩としている。


 こんな偶然あるだろうか。


 運命的な巡り合わせは、ひなの中に恋心を芽生えさせる。


『……王子様、見つけた』


 ほどなくして、薮原やぶはらの援護もあり、千冬ちふゆから解放されたひな。


『今日は災難続きだったなぁ』

『……すみません、いろいろと』


 申し訳なさそうに肩をすぼめるひな。

 しかし薮原やぶはらは笑って首を振る。


『気にすんなって。まあいろいろ大変だろうけど、頑張ろうぜ! な!』


 その日からしばらくは、薮原やぶはらと一緒に会社へ行くことになった。


 彼がいろいろと教えて、守ってくれたおかげで、ひなは朝の満員電車が苦手じゃなくなった。


『どうして、そこまで優しくしてくれるんですか?』


 ある日ひなは薮原やぶはらに問うたことがある。


 一緒に昼飯を食べているときだ。


 彼は特に気取った様子もなく答える。


『そりゃおまえの先輩だからだ』


 ぽん、と薮原やぶはらが頭をなでてくれる。


 ……他の男の人は、怖いけど。

 でも、薮原やぶはらに触られるのは、うれしかった。


『俺も新人だった頃、先輩にいろいろと迷惑かけてなぁ。俺はその時決めたんだ。自分に後輩ができた時は、うんと面倒見てあげようって』



 薮原やぶはらがにかっと笑って言う。


『俺は特別なことをしてるわけじゃあねえ。してもらったことを、してあげてるだけだ。だから、おまえも先輩になったら、後輩に優しくしてあげな』


 ……もう、駄目だった。


 こんなに優しくて、頼れる彼に、好きにならないなんておかしなレベル。


 都会を嫌いになりかけていたひなは、薮原やぶはらのおかげで、適応できた。


 毎日、彼がいるから会社へ行く。

 毎日、彼に会いたい。おしゃべりしたい。


 ……できれば、あの人の彼女になりたい。


 でも、今は立場が違うから。いつも迷惑をかけてばかりだから、好きだと言えなかった。

 けれど、社会人2年目になって、ようやく、少しは仕事ができるようになった。


 彼に、告白するのだ。


 そう思った矢先……。


 ひなは見てしまった。

 二度も、彼が、他の女と一緒にいる場面を。

 一度目は、夜の公園。

 何かの見間違えということにして、自分をだました。


 ……けれど、二度目。

 朝、マンションの前で、ひなは薮原やぶはらと親しげに話す彼女を、はっきりと見てしまった。


 同じマンションから出てきて、しかも……キスまでしていた。


 妹と、という線も、なくはない。


 薮原やぶはらと一緒にいた女は、学生のジャージを着ていた。


 学生が持つような鞄を持っていた……つまり、女子高生だろう。


 ならば、妹や、親戚、そういう線も、なくはない。


 一縷の望みをかけて……ひなは決意する。


 この旅行で、はっきりさせるのだと。


 そして、はっきりと言うのだ。


「……せんぱい。わたしは、あなたが好きです」


 ……と。


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