21話 元婚約者は、浮気される


 薮原やぶはら 貴樹たかきが、岡谷おかや 真琴の看病をしている……一方その頃。


 薮原やぶはらの元婚約者、犀川さいかわ かすみはというと……。


「はぁ……体調最悪……からだ……重い」


 ブラック企業に勤めているかすみは、現在、体調不良で、会社を早退してきた。


「げほっ! ゴホッ……つらい……」


 現在18時。

 普段帰る時間ではない。 


 いつもなら日付が変わってから帰宅する。


「げほっ! げほっ! げほっ……家に帰って、早く寝ましょう……」


 かすみはフラつきながら家に帰る。


「……為夫だめお、いるかしら」


 今付き合っている恋人、為夫。


 かすみは薮原やぶはらを捨て、為夫を選んだ。


 だが……待っていたのは、つらい日々。


 為夫は猫をかぶっていたのだ。

 薮原やぶはらと別れ、自分の女になった瞬間……。


 態度をコロッと変えたのである。


「……今日くらいは、甘えて、いいよね」


 かすみの頬が緩む。


 そうだ、いつもは彼の家政婦のようなことをしているが、今は風邪を引いてる状態。


 きっと、為夫は今日くらいは、自分に優しくしてくれる。


 だって、元婚約者の薮原やぶはらだって、こんなときはつきっきりで面倒を見てくれてたんだもの。


「ふふっ……為夫。待ってて……げほげほっ」


 体調は最悪だが、この先に待っている彼を思うと、知らず頬が緩む。


 ……だが。


 幸せな気分で居られたのは、ここまでだった。


 かすみは自宅のマンションへと帰ってくる。

 現在、18時半。

 いつもなら、【絶対に】帰ってこない時間帯。


「ただいまー……」


 かすみは自宅のドアを開け、中に入る。


 鍵が開いていたので為夫はいるだろう。


「…………」


 返事が、ない。

 まあそれはいつも通りだ。


 だが、リビングからテレビの音がしない。


 不思議に思ってかすみは、リビングへ行く。

 中には誰も居ない。


「鍵……閉め忘れて、でかけちゃったのかな……」


 家に為夫がいることを期待していたので、がっかりと肩を落とす。


 ……体調がさらに悪化してきた。


「……もういいや。寝よ」


 かすみは自分の部屋へと向かい……そして……。


 がちゃっ。


「……………………………………え?」


 思考が停止する。


 そこにいたのは……裸の為夫だった。


「え? え? だ、だれ……?」


 為夫だけでなかった。

 もうひとり、いた。


 ベッドの上で二人はまぐわっていた。


 早い話が、為夫がほかの女とセックスしていたのだ。


「かすみ……てめえ、なんで……?」

「え、為夫……? え、なんで……?」


 状況を把握できてないのは、かすみだけだった。


 為夫は行為を中断する。


 手早く着替える。

 そして、先に着替え終わった女が、さっさと出て行く。 


「はぁ~~~~~~~~~ついに見つかったかぁ~」


 為夫は何の悪びれもなく、たばこに火をつけて、吸い始める。


 ここが、かすみの寝室だと言うに。

 

 かすみが使うベッドの上で、平然とたばこを吸い始めた。


「げほっげほっげほっ!」


 かすみはたばこが苦手だ。

 薮原やぶはらはそこをきちんと知っていた。


 だが出かけるときも、いつも気遣ってくれた。


 でも、為夫は違う。

 ところ構わずたばこを吸う。

 かすみが嫌いだ、やめてと再三注意したにもかかわらず……だ。


「おまえ、なんでいるの?」

「なんでって……」


 かすみは体調不良と、絶望感で、その場で崩れ落ちそうになる。


 為夫が、浮気していたことも、つらかった。


 でもそれ以上に、為夫が……。


 浮気現場を見つかったというのに、全く取り繕うとしなかったことのほうが、つらかった。


 それは、つまりどういうことか。


 関係が、破綻してもいいと思っているからだ。


 そうでなければ、弁明するはずだから。


 ……嫌な予感が脳裏をよぎる。

 センブリのような味が、舌の上に広がる。


「仕事……早引きしたの。風邪引いたみたいで……」


「あっそ」


 ふぅー……とたばこの煙を吐く。

 吸い終わったたばこを、枕元の観葉植物に、じゅ……と押しつける。


「! それ……!」

「あ? なんだよ……」


 死んだ祖父に買ってもらった観葉植物だ。

 大事に育ててた鉢植え……。


 薮原やぶはらも、為夫も、知っていた。

 だから薮原やぶはらは面倒を見てくれたし……。


 ……でも、為夫は一度だって水をやってくれなかった。


「あーあ、ばれちまった。終わりか。せっかく金持ちのヒモになれたって思ったんだけどよー」


 かちゃかちゃと為夫はズボンをはき、服を着る。


「そんじゃ」

「ま、まって……待ってよ!!」


 為夫の腕を取って引き留める。


「ど、どこいくの……?」

「あ? もう終わりだろ。じゃーね」


 ……なんだ、それは。


 なんで、そんな簡単に……女を捨てられるんだ?


 なんでそんな平然に、裏切れるんだ!


「ふざけないでよっ!」


 かすみは声を荒らげる。


「浮気!? ふざけないで! 付き合ってる人がいるのに、平然とほかの人と付き合うなんて! 頭沸いてるんじゃないの!?」


 かすみが怒鳴り散らす。

 だが為夫は全く反省する様子もない。


 きっと、常習犯なんだ。

 それがまた、むかついてしょうがない。


「最低! 浮気なんて! くず!」

「あー……お言葉ですけどー? かす女?」


 為夫はかすみを見下ろして、こういう。


「それ、おまえが言う?」

「え……………………?」


「おまえだって、婚約者がいるにも関わらず、浮気してたよな?」


「あ……………………」


 ぐらり、と視界が揺らぐ。


 そうだ、そうだった……。


 自分も、薮原やぶはらがいるのにも関わらず、為夫と浮気していた。


「最低? くず? ははっ! ぜんぶてめえもやってたことじゃねえかよ!」


「そ、それは……それは……」


 何も、言い返せない。

 そうだ、付き合っている女がいるにもかかわらず、ほかの女と付き合っていた。


 それは自分もそうだ。


「わ、私は……違う、違うわ! あ、あ、あんたが! あんたが誘惑したんじゃない!」


「あー? 知らねー。でも浮気するって、おれを選んだのはおめーだろ?」


「それは……」


 やれやれ、と為夫は首を振る。


「つーかよ、あんたのほうがイカレてるよ。あんたとの結婚のために故郷を捨てて都会に出てきたのに、振っちまうなんて! しかも相手が就職して待ってる間に浮気しちまうなんてよぉ! ははっ! ほんとかす女」


「う……ううぅ……うるさ……げほげほっ! ごほごほっ!」


 興奮してしまったことで、さらに熱が悪化してしまった。


 その場にくらりと、へたりこむ。


「そんじゃな、かす。もうてめえんとこには姿現さねえからよ」


「そんな……待って……」


 為夫は倒れて動けない彼女を、路傍の石のように見下ろす。


「浮気……許すわ。また……やりなおしましょ……ね……?」


 このまま一人で放置されるのなんて、耐えられない。


 体調最悪な状態に加えて、恋人まで失って、心にダメージを負ってしまったら……。


「やなこった、オバサン」


「……………………お、おばさん?」


 言うに事欠いて、おばさんと言われてしまった。


 彼女はまだ23……。

 まだまだ、若い……。


「そーだよ。20超えたら女なんてみんなババアじゃねえか。やっぱ若い女だよ。てめえみたいな、胸もない、顔も平凡、性格最悪。誇れるところは学歴と就職先くらいの、ババアなんてよ」


 ふっ、と為夫は小馬鹿にしたように笑って言う。


「女として、何の価値もねえな!」


    ★


「はっ……!」


 気づけばかすみは、気を失っていた。


 冷たい地面でひとり倒れていたようだ。


「げほっ! ごほっ! ごほっ! ごほっ!」


 症状が確実に悪化していた。


 全身に濡れた毛布を巻き付けられてるように、重い。


 頭が、沸騰してしまったかのように、熱い。


「…………」


 体調を、とにかく体調を回復しないと。


 這いずりながらベッドにたどり着いて、横になる。


「…………」


 思わず、顔をしかめる。

 ベッドには為夫たちのセックスのあと、何も処理されず放置されていた。


 シーツは濡れて、異臭を放っている。


 部屋は寒い。暖房のリモコンを探すが見当たらない。


「寒い……つらい……苦しい……」


 かすみは体を丸くして、震えながら、ストレスに耐えていた。


 恋人に捨てられたショック。

 最低男と同列な存在であることに気づいた、ショック。


 大事な観葉植物を、そしてなにより、大事な彼女であろう自分を、ぞんざいに扱われた……ショック。


 数多くのショックが重なって、彼女の体調は、過去最低になっていた。


「……たか、き」


 つぶやいたのは、元婚約者の名前だ。


「……貴樹たかき貴樹たかきぃ」


 薮原やぶはらの、元婚約者の名前を、何度もつぶやく。


 そして、思い出す。


『かすみ、風邪引いたって? 大丈夫か?』


 あれは大学生の頃。


 かすみは大きく体調を崩したことがあった。


貴樹たかき……あなた、講義は?』

『あん? そんなの休んだに決まってるだろ。おまえの方が大事なんだからさ』


 薮原やぶはらは何よりも、恋人のことを優先してくれた。


 シーツを買えたり、ご飯を作ってくれたり、体を布で拭いてくれた。


 ……そして何より。

 さみしくて、震えていた自分のそばに寄り添って、ずっといてくれた。


 ……何もかもが、為夫と正反対だ。


貴樹たかき……貴樹たかきぃ~……」


 風邪を引いて、やっと、ようやく……気づいた。


 自分は……大当たりを捨てて、ハズレくじを引いてしまったことに。


「ごめんなさい……貴樹たかき……ごめんなさい……貴樹たかき


 少なくとも、薮原やぶはらは。

 誠実だった。優しかった。何より……彼女を何よりも、大切にしてくれた。


「私が……間違ってた……貴樹たかき……ごめんなさい……」


 熱にうなされながら、かすみは決意する。


「風邪が治ったら……あなたに、謝りにいくから。だから……やり直しましょう……」


 ……だが。


 今更、薮原やぶはらの重要性に気づいたところで、もう遅いのだ。


 そう……。

 

 すでに彼の心も体も、ひとりの、最愛の女性のものになってしまっているから。


 ……かすみがそれを知って、絶望するまで……。


 あと、数日も、かからない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る