8話 元婚約者は、後悔する
……私の名前は
長野にある国立大を出た後、実家のある東京へと戻ってきた。
私は東京にある、いわゆる一流企業に務めることに成功。
大学時代からの恋人と別れ、私を大事にしてくれる男性と一緒に、幸せに過ごす……はずだった。
「……はぁ」
私は山手線に乗って帰路につく途中だ。
今日は月曜日。日付が変わって、もう0時だ。
「…………」
座席に座って、もう立ち上がる気力もなかった。
確かに一流企業に就職できた。
けれど待っていたのは……過酷極まる環境だった。
私の務めることになった会社は、いわゆる、ブラック企業というやつだった。
私は目を閉じて、大学時代を思い出す。
★
大学4年の春。
私は松本駅前のカフェにいた。
『かすみ。就職活動、上手くいってるかい?』
私の1個上の先輩で、元恋人。
まあ恋人なのだから、会いに来るのは当然だけれども。
『ええ、上手くいっているわ。内定ももらってる』
私は内定をもらった、超一流企業の名前を出した。
きっと
しかし……
『あ、あのな……かすみ。そこ……やめた方が良いぞ?』
『は………………?』
何を偉そうに、命令してくるのだろうか、この人は。
『俺がお世話になったOGの旦那さんが、そこに務めててさ。すっげえブラック企業だって言ってたよ』
どうやら
……私は冷や水を浴びせられた気分になった。
『だから、なによ?』
『え……?』
『大変なのはどこの企業も一緒でしょ?』
『いや……そうだけど。あそは結構やめてる人も多いって聞くし……』
……私は、失望した。
なんだこいつはと。
そして私は気づく。
ああ、そうか。
こいつは、私が妬ましいんだ。
大手に務めることになった私に、嫉妬してるんだ。
……元々私の彼への気持ちは、冷めていた。
彼は、何かにつけてああした方が良いこうした方が良い、と【命令】してきた。
うざいのよ、田舎者の分際で。
『だからな、かすみ。悪いことは言わない。タカナワはやめとけって』
『いやよ。一流の会社で務めるのは、夢だったんだもの』
『でもおまえ……体崩したら、元も子もないぞ!』
……ああ、醜い嫉妬。
こんなに必死になって、自分の地位を守っている。
恋人より良い企業に勤めてもらいたくないのだろうな。
なんておろかなのだろう。
『ええ、そうね。わかったわ。やめてく』
私は、嘘をつくことにした。
もうこの段階で、私の
『ほ、ほんとかっ! 良かったぁ~……』
ふんっ……馬鹿な男。
こんな簡単な嘘にだまされて。
諦めるわけないじゃない、一流への内定が決まっているのに。
『体が一番大事だからな』
……夢が一番に決まってるじゃない。
本当に、わかってない。
前から思っていたけど、
★
「……はぁ」
何度目になるかわからない、ため息をつく。
今は3月下旬。
入社、そろそろ1年がたつ。
……私は思い知らされていた、痛いほどに。
……
電車を降りて私は帰路につく。
彼の忠告通り、私の入った会社は、過酷な現場だった。
確かに給料は良い。
だが、毎日夜遅くまで働かされている。
来る日も来る日も、夜中まで働く……。
周りも全然休もうとしないので、私は休めずにいた。
毎日疲労困憊になりながら、家に帰る。
……ここ最近足下がおぼつかない。
まっすぐ歩いてるはずなのに、体が傾いていく。
『体が一番大事だからな』
「……
あのとき彼の忠告を聞いていれば、私はこんなつらい目に遭っていなかっただろう。
……だが、まだ耐えられた。
でも家に帰れば、愛しの彼がいる。
……そう思えていたのも、最初の1ヶ月だけだった。
私はため息をつきながら、自分のマンションへと帰る。
郵便ポストにはたくさんのチラシが入りっぱなし。
夕刊も、いれっぱだ。
「……【
【
それが新しい彼氏の名前だ。
深々とため息をついて、かすみは自分の部屋へと向かう。
扉を開けると……。
夜も遅いというのに、テレビの音がした。
これで、帰りが遅い恋人を待っているのであれば、まだ救いがあった。
だが実際には……。
「はー、やっぱおもんねえわ。デジマスとか、どこが面白いのかさっぱりわかんねえわー」
テレビの前で横たわる、金髪の男がいる。
顔は……まあそこそこ整っている。
テレビに映っているのは、深夜アニメだ。
為夫はスマホ片手にアニメを見て、愚痴をこぼしている。
「…………」
かすみは、ため息をつく。
部屋は荒れに荒れていた。
服は脱ぎっぱなし、【ギター】は放り出されて、食いかけのポテチの袋が散乱している。
おかえりの、一言もない。
お疲れ様、と出迎えることもない。
「つーかデジマスってなんでこんな人気なんだ? くそアニメなの……」
「ね、ねえ……
「あ? んだよ……帰ってたのかよ」
ちらっとこっちを見ただけで、為夫は興味を失ったようにつぶやく。
「た、ただいま……」
「はぁ? アニメ映画もやんのかよ。はー……ったく、全くもってわからないわ~こんなくそアニメが続くなんてよぉ……」
……為夫は全くこちらを振り返らない。
はじめは、こんな人じゃなかったのに……。
「ね、ねえ……晩ご飯は?」
暗に、自分の分の晩ご飯はないか、と聞いているのだが。
「あー? いらねー。もう食った。カップ麺」
……自分の分の食事しか、作ってくれない。
……
あの人は、確かに家事は苦手だった。
でもいつも気を遣ってくれた。
大学の講義で疲れていたら、外でご飯を食べようって誘ってきてくれたし。
いつも、ただいまとか、おかえりとか、お疲れとか……そういう小さな心遣いをしてくれた。
少しの気遣いが、明日へのモチベーションになるというのに……。
「おい、かすみ」
「っ! な、なにっ?」
為夫は手を伸ばすと……。
「金よこせ」
「へ……?」
呆然とするかすみに、為夫が言う。
「パチンコ行ったら金なくなっちまってよ」
「へ、へえ……」
……ろくに働かないくせに、と喉元まで出た言葉を飲み込む。
「は、はい……どうぞ」
かすみは財布から5000円札を取り出す。
為夫はむしり取って、ちっ……! と舌打ちをする。
「たった5000円ぽっちかよ……しけてんな」
……その5000円を稼ぐために、身を粉にして働いているというのに……。
金をもらっても、感謝しない。
居候しているくせに、我が物顔。
……本当に、
少なくとも、
私の家に遊びに来るときは、いつも手土産を持ってきてくれたし、掃除も手伝ってくれた。
私が引っ越すとき、会社を休んでまで、手伝ってくれた……。
……ああ、
あなたって……
そう言いかけて、私は首を振る。
「………認めない」
私は台所に立ち、首を振る。
コンロにやかんを置いて、カップ麺を食べる用意をする。
「認めない、私は、認めない」
貴樹を捨てたことが、間違えだなんて。
為男を選んだことが、間違えだなんて。
私は絶対、認めない。
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