台所で、女同士の会話

 古い柱時計の鐘が、十時を報せた。

 いつもならそろそろガルド・ルルゥやライヒャルトと、

「おやすみなさい」の挨拶を交わしている頃だ。しかし今夜のクリスティーネはまだまだ眠れない。


「上の部屋、なんだか話しが盛り上がっているみたいね」


 煙突の穴が伝声管の役割を果たすため、台所の竈の前にいながら、その楽しげな様子が伝わってくる。

 なんだか仲間はずれにされているようで、いつの間にか自分でも気付かぬうちに、クリスティーネは憮然とした表情になっていた。


「そうね。ラーイは音楽学校の講師もしていたから、あのくらいの年頃の子と会話するのに慣れているし。マクシィも案外、弟分ができてうれしいのかもね」


 世の中には、男同士でしかできない話しというのもあるだろうし──と口を動かす間も、ガルド・ルルゥがその手を休めることはなかった。

 金属製のへらを使って、貧弱なカタクチイワシの身を器用にこそげ落としている。

 これを一晩塩水に付け血抜きしたら、ニンニクや唐辛子、香草と一緒にオリーブ油に漬け込む。

 それを鍋ごと石窯に入れ、低温でじっくりと煮込むと、カタクチイワシの油漬けのできあがりだ。


「わたしも、できることなら男に生まれたかったわ。女の子なんて、ただの飾り物だもの」


 まるで、上の隠し部屋での会話を盗み聞きでもするような格好で丸椅子に腰かけるクリスティーネの、横顔の影が濃い。

 竈には、それこそ豚一頭丸ごと煮込めそうな大釜が置かれ、アンリが毛嫌いする海の悪魔・ミズダコが五匹も茹でられていた。

 タコの身を柔らかくするため重曹水で二時間煮込まなければならないので、湯が吹きこぼれないよう、クリスティーネが付きっきりで見張っているのだ。


「地下組織の仕事でも、女の子に回ってくるのは情報の連絡役ばかりだもの。ちょっと難しくても、せいぜい暗号解読くらい。

 武器弾薬の密輸送だとかルブランス軍に対する破壊工作だとか、絶対に手伝わせてくれないんだから」


 と、大釜の中のタコの頭を、柄の長い、かき混ぜ用の柄の長い木杓子で突きながら、むっつりと唇を尖らせる。

 旧市街のこの館へクリスティーネが来て、そろそろ一年になろうとしていた。けれど、お嬢様育ちなクリスティーネが手伝える台所仕事は、いまだ鍋の見張り程度しかない。


(この一年の間、わたしの両手はどれだけの仕事を成し遂げてきたのだろう?)


 両手を暖炉の炎に透かしながら、クリスティーネは自問する。食堂の手伝いもだが、地下組織の一員として自分は本当に役に立っているのか──その手応えが感じられず、もどかしさばかりが胸に募る。


「そんなことはないわ、クリスティーネ。あなたがここへ来てくれてから、どれだけラーイやあたしは心を慰められたか。『娘は家の灯り』っていう、昔の人の言葉を知らないの?」


「あら、わたしはガルド・ルルゥこそ『母は家の太陽』との諺に相応しい女性だと思うわ」


 答えながらクリスティーネは、同じ屋根の下で暮らし一年になろうというのに、自分はガルド・ルルゥについてどれだけ知っているだろうかと、ふと不安に駈られる。

 ここへ来たばかりの頃、やはりこうやって台所仕事をしながら、ガルド・ルルゥは半生を話してくれた。

 貧民窟で生まれ育ち、聖クラース教会の聖歌隊に属していたため音楽教育を受けはしたが、歌手としては二流で、いかがわしい場末の劇場や安っぽい酒場で歌っていたのだと、彼女は語った。


「だから占領軍政府の命令で、今まで仲間たちと演奏していた曲が、『退廃的、もしくはルブランス人に対して侮辱的』と検閲官から宣告されて、どんどん唄えなくなったのが一番辛かった」


 それは唄わなければ食べて行けなくなるから、という経済的な事情ではなく。演奏を制限されることで、「歌うたい」である自分そのものが否定され、破壊されたような眩暈を感じたのだとガルド・ルルゥは言う。

 もちろん、仲間たちは抵抗した。ルブランス軍の圧政を批判し、酒場の片隅でみずから楽器を演奏しながら唄い続けた者は、やがて秘密警察の手で連行された。

 不当な処刑はすみやかに行われた。歌い手や楽師たちの亡骸は、死後天国ですらも演奏できないようにと、両手の骨を砕かれ、口に石を詰められ、共同墓地の穴の中に放り込まれた。


「意気地無しなあたしができたことは、共同墓地にお花を手向けることだけだったわ。そのお花も、すぐに見回りの兵士たちに片付けられてしまったけれど……」


 そんな悲しい経験をしたガルド・ルルゥが、どうしてライヒャルトをかくまうようになったかは、クリスティーネもだいたいの想像がつく。

 けれど、その過去のどの辺りに王立音楽院を優秀な成績で卒業し、数々の戯曲や歌劇を編纂した高名な音楽家であるライヒャルトと、親友となるほど強い接点があるのかと考え始めると、途端に「話してくれた過去」が、いかにも作り物に思えてくる。

 だいたい「ガルド・ルルゥ」という名前も、偽名に違いないのだ。「ガルド・ルルゥ」とは「ちっちゃなルルゥお嬢ちゃん」の意味なのだから。

でも、クリスティーネも、身分証明書に記載された「ヴィルヘルム」の姓は偽っているので、その件に関して深く追求はできない。


「だけど、男に生まれたかったというのは、本当の気持ちだわ。この年齢でも、男の子なら戦場で銃を手にして戦える──」


「ダメよ。貴女がその手で銃の引き金を引くなんて、あってはならないことだわ!」


 悲鳴じみた声で短く叫ぶと、ガルド・ルルゥは、おのれより二回りも小さな華奢な身体を、背後から両腕で包み込むように抱きしめた。

 抱きすくめられてクリスティーネは、ガルド・ルルゥが、泣いているのではないかと思った。その腕や肩が、細かく震えている。


「お願いだから、そんな恐ろしいことはしないでちょうだいね。貴女は、今だって私たちの希望の星よ。そしていつか、私たちを導く光となってくれる女の子なのだもの」


 こんなに強く誰かに抱きしめられたのは生まれて初めてではないだろうかと、クリスティーネは、温かな腕のぬくもりの中でうつむいた。


 父は優しい人だが、とにかく仕事で忙しく、国内にいくつもある住居を使い分ける生活をしていた。

一人娘のクリスティーネと、ゆっくり同じテーブルで家族団欒の食事ができるのは、毎年決まって夏の長期休暇の間くらいだけだったのだ。

 母は、自分が二歳の誕生日を迎える前に不幸にも病死している。

 もちろん、乳母や家庭教師や遊び相手の同い年の少女たちがクリスティーネの周囲を取り巻いていたから、普段の生活にはなんの不自由もなかったけれど。

 それでも──こんなふうに自分を抱きしめて、泣いてくれる人は居なかった。


「だからどうか、ブライトン岬にいらっしゃるお父様を悲しませるような真似だけはしないと、それだけは約束してちょうだい」


 ガルド・ルルゥを泣かせてしまったおのれの言動を、クリスティーネは恥じた。

 本当の名前なんて、どうでもいい。素性だって、偽っていて構わない。

 この腕のぬくもりこそが真実なのだと、クリスティーネは眼を閉じる。


(でも……、わたしはアウステンダムの街から絶対に逃げ出したりしない。そしてこの国を、ルブランスの圧政から解放するまでは、決してくじけない)


 五百カイリも海を隔てた隣国ハドニアの、ブライトン岬に居る父にではなく、今、おのれを抱きしめてくれるガルド・ルルゥために、クリスティーネはそれを胸に誓った。

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