巡回公安の来訪

「驚いたでしょう? 学者先生のお宅を訪ねて、遠路はるばるやってきたら、そこがいきなり食堂になっていただなんて」


 そう言いながらガルド・ルルゥは、まだ夕食を摂っていなかったアンリのために、食事を用意してくれた。

カブと鶏肉を一緒に煮込んだシチューに、ピクルスやハム、チーズを何種類か並べた皿がパンとともにテーブルの上に置かれる。


「ゆっくり食べてね。いま、あの二人がアンリの使う部屋の支度をしているから」


「はい、いただきます」


続いて飲み水入りの水差しを運んでくると、ガルド・ルルゥは、この館がなぜに食堂経営などしているのか、説明しはじめる。


「この『五人の魔女の館』は、いまではこんなオンボロだけれど。昔はこの国の最初の女王様が、まだ王位に就かれる前に暮らしていたっていう伝説があるくらい、由緒正しい歴史のある館でね。

三年前までは大学の学者先生やそのお弟子さんが、十何人も共同で住んでおられたのよ」


パンは、昼食の時と同じでぼそぼそとした苦いライ麦パンだったが。それでも昼間食堂で出されていた献立とみれば、肉もチーズも、ふんだんに使ったお客様用のおもてなし料理だ。

けれど、なにより今のアンリには、煮崩したパンでとろみをつけた鶏肉とカブのシチューの、あたたかさが胃袋にしみた。


「それがルブランスの占領軍がやってきて、大学は封鎖されるわ、先生方も公職を追放されるわ。

街から出ていってしまった人もいて、ここにはヘボン先生だけが残ってね。

館への課税方法も変更されて、とてもじゃないが貧乏学者のヘボン先生が支払えるわけない税額を吹っかけられてしまって……」


 おいしい食べ物は自然と人間を無口にさせるものらしい。アンリは黙ってシチューを含んだ口を動かし、話しにうなずきながら、ガルド・ルルゥの言葉に耳を傾けた。


「いろいろ調べたら、店舗として営業する家屋は、かなり税金が安くなるってことが分かったの。

それで、近くに配給制の食堂がなかったから、うちでやろうって話しになったわけよ」


 ガルド・ルルゥが調理や洗い物を、クリスティーネが経理や配給食糧の受け取りを担当し、週に六日間、正午からの三時間ほどだけだが営業しているのだそうだ。


「まさか、たった二人だけでお店を切り盛りしてるんですか?」


 しかも、調理場に立つのはガルド・ルルゥ一人だけだと聞いて、アンリは驚いた。

 スイッチひとつ押せばなんでもやってくれる、便利な機械があるわけではない。まだ電気もガスも水道も台所になかった時代には、調理は大変な重労働だった。

だというのにこの女性(ひと)は、その二本しかない腕で、毎日百何十人分もの食事を用意し、食器を片付け、また翌日のための用意をはじめるのだ。

その行動力はどこから沸いてくるのだろうと、アンリは尊敬の眼差しで、いかにも路地裏暮らしの匂いがする、たくましい中年女の横顔を眺めた。

アンリの視線を感じたのだろう。照れくさかったのか、テーブルの上に片肘をついたガルド・ルルゥは、少し目尻を下げた。


「うーん、実は強力な助っ人がいるから、やっていけるんだけれどね」


 内緒話しするように、ガルド・ルルゥはアンリの耳元に、両手をあててつぶやいた。


「これは秘密だけれど。この館には、魔法使いのおばあちゃんの幽霊たちが棲み憑いていているの」


 それも五人もいるのよ──と、くすくす笑いながら囁く。


「魔女の幽霊が、出るんですか?」


 瞬間、アンリの背筋には、パンの中に混じっていた小石を間違えて噛んでしまったような、おぞけが走った。


「うん。でもおばあちゃんたちは、ここに暮らしている者たちを守ってくれる良い幽霊よ。あたしたちが寝静まったころ、台所の竈の中から出てきて、シチューを煮込んだり、たまねぎやジャガイモの皮を剥いて、料理の下ごしらえをしてくれる」


 だからやっていけるのさ──と、ガルド・ルルゥは、アンリがどきりとするほど、いたずらっぽく微笑んでみせる。


「おかわりはどう? シチューはもうないけれど、ピクルスやチーズなら──」


 その言葉が急に途切れた。アンリたちが居る場所とは、調理場を挟んで向こう側、店舗部分がなにやら騒がしい。カーテンを閉じた店の扉を、乱暴に叩く者がある。


「開けろ! 巡回公安の者だ!」


 ガルド・ルルゥの表情に緊張が走る。すぐさま椅子から立ち上がり、暖炉の上、煙突の中に顔を突っ込んで叫んだ。


「マクシィ、聞こえているっ? 急いで、そこから下りてきて。公安が来たわ!」


 館の壁の中を縦横に走る煙突は、同時に伝声筒の役目を果たしているのだ。女子供だけの家に、権力を振りかざす者を立ち入らせるのがどれほど愚かな行為か、ガルド・ルルゥはよく理解していた。

 煙突の奥からマクシミリアンの返事がかえってきたのを確認すると、ガルド・ルルゥは、いかにも食堂のおかみさんという感じのわざと間延びした声で、カーテンに映る影に声を掛ける。


「はーいはい。今ちょっと手が離せないんですよぉ、両手がパン種だらけで。しばらく待っていただけませんかぁ、公安のだんな」


 などと、マクシミリアンが階段を下りてくるまで、「店の灯りが点かない」だの「鍵が見つからない」だの、なんのかんのと言い訳しながら時間を稼ぐ。


「ええい、早く開けろ! これ以上待たせると、公務執行妨害で逮捕するぞ!」


 そう脅しをかけられ、ようやくガルド・ルルゥは店の扉を開錠した。

「こんばんは」と挨拶するよりも先に、立派な口髭を蓄えた公安警察官の二人連れが押し入ってくる。


「住民調査だ。今日この家で住人の移動があったと、国民管理委員からの報告があった」


 管理委員と聞いて、アンリの脳裏に、あのそばかすだらけのドミニクの顔が浮かんだ。ちょっと不良っぽいお調子者だとばかり思っていたのに、しっかりと「上」に自分のことを報告されていたと知り、肝が冷える。


「新しい住人というのは、どいつだ?」


「ぼ、僕です……」


 半ばガルド・ルルゥの背後に隠れながら、アンリは高圧的な制服の男たちに対し、蚊が鳴くような声で答えた。


「本人確認のための、身分証明書は?」


「はい、ここに……」


 おずおずと、市民章カードを挟みこんである小冊子を手渡すと、途端に公安警察官たちの顔色が変わった。


「これは、優待市民章?」


「まさか、こんな子供がそんな……。もしかしたら偽造カードじゃないのか?」


「おい、ぼうず。どうしておまえのような子供が、優待市民章など持ち歩いている?」


 列車内で同室だった人からもらったと、正直に申告しても信じてはもらえないだろう──問い詰められ、アンリが口篭った時だ。


「この子の父親は、魔法機関の発明に関して特許を十二個も取得し、国家に対して大きな貢献をしている魔術師なんです。

 優待市民章は、その貢献に対して総統閣下から与えられたものですっ!」


 ようやく地上階にまでたどり着いたマクシミリアンが、店頭へと駆けつけると、息を弾ませながら、口からでまかせの嘘を並べる。

下っ端役人たちにとって『総統閣下』のひとことは、アンリへの追及を停止させる呪文だった。その代わり、疑惑の目はマクシミリアンに向けられることになったが。


「なんだ、おまえは。この家に住人登録されている者ではないな」


「何者だ?」


 占領法下では、各住宅の扉には現在居住中の者の名前や年齢、性別をすべて書いて、張り出しておかねばならないのだ。公安警察官たちが、手元の携帯用住民台帳をめくりながら誰何する。


「マクシミリアン・ヴィンセント、東港の港湾税関の職員です」


 即座に身分証明書を差し出し、いかにも事務職という服装の青年は言葉を続けた。


「今日は、ここで暮らしている従妹のところへ来たんですが。夜間外出禁止令の門限、午後九時までには職員住宅にたどりつけそうもなかったので、泊まってゆくところだったんですよ」


 マクシミリアンが、公務員というしっかりした身元だったからだろう。それ以上、男たちは深く店内に踏み込みはしなかった。


公安警察官は、明日にも住民台帳の登録に役場へ来るようアンリに命じ、その上で、旅行者の滞在は三ヶ月ごとに登録更新の必要があるなど、こまごまとした注意事項を口頭で伝え、夜の街頭巡回へと戻ってゆく。


「おい、タウンクライマー。次へ行くぞ!」


 その瞬間、扉の隙間からあのドミニクの顔がひょこりと見えて、アンリはおのれの心臓がでんぐり返るほど仰天した。

 やはり密告屋だったのだ、あの少年は。赤と黒の二色に染め抜いた腕章を付けている割りには、親切な人だと感じた自分の愚かさを呪いたくなる。

 巡回公安が立ち去り、店の扉を施錠して、ガルド・ルルゥは大きく息を吐いた。その丸い背中に手を添えて、マクシミリアンが、この家の炉を守る女の心労をいたわる。


「大丈夫ですよ。本当に危険な秘密警察の奴らは、いちいち『公安だ』なんて名乗りはしません。制服だって着てはいないでしょうしね」


「そうね……」


 だが、ガルド・ルルゥはまだ安心できないようだ。横暴な公安警察に怯える表情で、何度もなんども店の扉を振り返る。


「やっぱり、男が居ない家は無用心だわ。マクシィ、しばらくの間ここへ泊まりに来てもらえると助かるんだけど」


「ええ、もちろん。頼まれなくてもそうさせてもらいますよ。職場のほうへも、届けを出しておきます」


 ガルド・ルルゥに伴われ、アンリが奥の部屋へ戻ってみると、暖炉の前に険しい表情のクリスティーネが立っていた。

 事態を見守っていた少女は、憚ることなく悪口(あっこう)をわめき散らせる環境が整った途端、その尖った感情をあらわにする。


「だから嫌だったのよ、ルブランス人を下宿させるなんて」


 棘を含んだ眼差しをアンリに向け、短く吐き捨てる。そして、まだ部屋の片付けが途中だったと思い出したのか、マクシミリアンを引き連れ上の階へ戻っていってしまった。

 クリスティーネにとって、自分は敵国人なのだ。この家の、同じ屋根の下で暮らしたとしても、きっと、あの娘(こ)と仲良くなるのは難しいだろう。

そう思うと、精神的にどっと疲れが押し寄せてきて、アンリは落ち込んだ。


「あのね、アンリ……」


 生まれた国の違う子供たち二人の間で板ばさみになりながら、おろおろと、ガルド・ルルゥが話し掛けてくる。


「どうかクリスティーネのこと、悪く思わないでやってね。あの子は、ルブランスの軍隊に家も財産も奪われた上、外国へ行っているお父様も戦争のせいで帰国できなくなって。いろいろと複雑な事情を抱えて、ここへやってきた子だから……」


 そうなんですかと、アンリは乾いた声で答えた。


「僕はルブランス人だもの。この国の人たちから恨まれて当然だっていうことくらい、理解しているつもりです……」


 アウステンダムで三年間学びたいとの決意を両親に告げた時、それはもう反対された。その一番の理由が、祖国を占領されたローランド人の、反ルブランス感情だ。


『向こうでは、亡命中のローランド国王を支持するレジスタンスたちが、テロルを繰り返しているから危険だ。とても学生が落ち着いて学べる状況ではない』

 と、耳にタコができるほど説教された。結局、アンリは家を出たい一心で、その言葉に説得させられることはなかったわけだが。


「でも、僕はここへ来たかったんです。昔、おじいちゃんが住んでいた、このアウステンダムへ」 


 そう言って、アンリは無理やり笑顔を作る。

 自分自身が一番よく分かっている、それは本当の言葉じゃない。本心を偽るために飾り立てた弁解だ。

 ここへ来た理由は、三年間家へ帰らなくても許されるほど、故郷から遠く隔てられた地であるからに他ならない。近隣の都市で弟子入りして、週末ごとに家に帰るなら、きっとその度に母に泣かれるに違いないのだ。

『わたしがアンリを未熟児で産まなければ……』と。

 母の胸の中では、自分はいつまでたっても「かわいそうな末っ子のアンリ」だから──。

でもそれ以上にアンリには分かっている、かわいそうな子供は別に自分だけじゃないということが。

 人間が百人いれば百通り、千人いれば千通り、それぞれ不幸を背負っている。他人の目にはどんなに幸せそうに見える家庭でも、一歩家の中へ踏み込んでみれば、不幸という蜘蛛が屋根裏に巣を作っている。

 それになによりアンリ自身、軍部に対しては複雑な思いを抱えている。

 五年前、軍隊に行った兄が「健康上の理由により」と強制除隊になって帰ってきた。あの日以来、パルデュー家の人間は皆、周囲から理不尽な仕打ちを受け続け、不幸の残響の中を漂いながら暮らしているのだから。

 だから──たとえクリスティーネが打ち解けてくれなくても、自分は彼女のことを、絶対的に嫌いにはならないと思う。自分も、軍隊に虐げられた家族を持っているから。

 なんとなく、そんな予感がアンリにはあった。


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