断髪美少女の紅茶の葉占い

 どうりで苦しかったはずだ。今更ながら、ぞっとする。

 衝立の向こう側からは、さっきの調理場のおばさんと、もう一人、髪を七三分けにした、いかにも事務員という服装の若い男が出てきた。


「ゾティは、聖クラースさまのおまもり猫と言ってね。

 この国の船乗りたちが、航海の安全を祈って、自分の船に乗せる種族の猫なのよ。だからこんなに大きくて、逞しいの」


 そう詳しく、調理場のおばさんが説明してくれた。


「ほら、一昔前まで船はみんな木でできていただろう?

 木造船では、船底を齧るネズミは大敵だから、ネズミを退治してくれる猫は、船になくてはならない守護者だったんだ」


 次は事務服を着た二十歳くらいの青年が、「聖クラースのおまもり猫」に関しての説明を重ねる。

 黄金色の毛並みの猫は、アンリの足元にも寄ってくると「とりあえず」といった感じで身体をこすり付けて、やがてそっけなく衝立の向こう側へと歩み去った。

 その姿を視線で追いながら、調理場のおばさんは言った。


「立ち話しもなんだから、学生さんもこちらへいらっしゃい。なにもないけれど、竈の火でお湯だけはいつも沸いているから、落ち着くように香草茶でも淹れましょう」


 招かれてアンリが着いたのは、十人はそこを利用できそうな丸テーブルだった。竈を背にした来客用の席を勧められたが、もっとも、竈前の敷物の上、特等席はゾティと呼ばれるあの猫のものである。

 今も薬缶がしゅんしゅんいっている古風な石造りの竈は、きっと何百年もの間、火種が絶えたことはないに違いない。 

 中に大人の女性が二、三人隠れることができそうなほど大きく頑丈な作りで、真っ黒な煤がこびりついている。


「お口に合えばいいんだけれど……」


 大振りなカップにつがれた香草茶からは、甘い林檎の香りがする。同じテーブルに着く全員にお茶が行き渡ったところで、女はおもむろに切り出した。


「それじゃあ自己紹介でもしましょうか。あたしは、ここの賄い女をしているガルド・ルルゥ」


 四十代後半から、五十歳ほどだろうか。波打つ黒髪をスカーフでまとめた、地中海地方の血を感じさせる顔立ちの女は、そう一番に名乗って、隣の金髪の少女をうながす。


「クリスティーネ・ヴィルヘルム、ここの経理担当よ」


 自分と同世代のアンリと視線を合わせることもせず、ぶっきらぼうに女の子は言うと、発言の機会をあっさり次に回した。


「マクシミリアン・ヴィンセント。マクシィと呼んでくれればいいよ、以後よろしく」


 年の頃は二十歳を少し越したくらいだろう。まるで、軍事パレードの先頭に立つ儀杖兵のようにすらりと長身の若者は、途惑ったふうにインクで汚れた指先で、七三分けの髪を掻いた。

 シャツの袖に、事務員用のアームカバーをつけた服装がまるで似合っていない。


「ええと、僕はここに住んでいるわけじゃないんだけれど。クリスティーネの従兄で、ここへ、ときどき様子を見に来るんだ」


 従兄妹同士といわれてみれば、たしかに二人とも、くせのない金髪に青灰色の瞳の持ち主である。どちらも、北方ローランド人だとひとめで分かる顔立ちだ。

 最後はアンリの番だった。両手のひらでカップを抱きながら、おずおずと異国の少年は口を開く。


「アンリ・パルデュー、十五歳です。生まれはルブランス本国の──」


「あの、悪いとは思ったけれど。あなたが眠っている間に身分証明書だとか、一応、身元がはっきりと分かるものを、こちらで勝手に確認させてもらったから」


 ガルド・ルルゥが苦笑しながら、長くなりそうな自己紹介を遮った。

 そして、もっと訊きたい事があるはずだろうと、アンリにうながす。


「ええと、それでその……。結局ヘボン先生のお宅はいったい、どちらになるんでしょうか?」


「一応、この家で正解なんだけれど。肝心の先生は、いま、視察旅行に出ておられてご不在なんだよ」


「いつ、お戻りに?」


「さあねぇ……。新年度までには戻るとおっしゃっていたけれど、大学も閉鎖されているし、どうなることやら……」


「というわけで、先生がお留守である以上、あなたがここに居る必要性はまったくないの。

 さっさとおうちへ帰って、今後のことは、お父さんお母さんともう一度相談したらいかが?」


 意地悪な口調だった。群れからはぐれた荒野の子羊並みに迷える少年を、クリスティーネは冷たく突き放す。


「確かに。カルティーヌ県からアウステンダムまでは、どんなに列車の乗り継ぎがうまくいったとしても、丸三日は掛かる。こんな遠くの街で弟子入りしなくても。

 どうせなら、週末の休みごとに里帰りできるくらいの距離のほうが、下宿住まいでも便利だと思うなぁ」


 そう言って、マクシミリアンまでが、クリスティーネに同調する。


「……家には帰れないんです」


 どうやら自分は歓迎されない存在であると悟りつつ、アンリは思わずうつむいた。細く引き絞られた喉の奥から、くぐもった声を絞り出す。


「帰ったら、母さんがまた泣くから。『全部、わたしが悪いのよ』って、また泣くから……」


 大学予科校の書類審査で、ふるい落とされた時もそうだった。母は、アンリが背負う不幸のすべての源は、その弱視にあると信じているので。


『なにもかも、わたしが悪いのよ。わたしが、アンリを月足らずで産まなければ……』と泣くのだ。


 昔、アンリが弱視だと分かった時、医者はその原因を、早産のため未熟児のまま誕生したのが原因と診断したそうだ。それでアンリは四人兄弟の中で、一番母を泣かせてしまう子供になった──少なくとも、四年前までは。


「あのっ、掃除でも食堂の手伝いでもなんでもします。先生が帰ってくるまで、ここに置いてください! もちろん下宿代も毎週、週末払いで支払いますから!」


アンリは椅子から立ち上がると、深々と頭を下げて懇願した。


「そう言っているけれど、どうすればいいと思う?」


 数瞬の沈黙を破り、ガルド・ルルゥは隣の席に座る少女に尋ねた。どうもこの館内では、決定権はクリスティーネが握っているらしい。

 やおらクリスティーネは立ち上がり、背の高い戸棚の上の段から、きれいな唐草模様が描かれた茶葉入れの缶や、上品な白磁製のティーセットを取り出した。

 しゅんしゅん沸いている薬缶の湯で茶器一式を温め、その場に居る全員の分、新しいお茶を淹れはじめる。


『わたしの分のスプーン一杯、あなたの分のスプーン一杯。そして最後は、ポットの分の一杯分……』


 アンリが聞いたこともない不思議な歌をくちずさみながら、クリスティーネが、ポットの中に勢いよく熱湯を注ぐ。

 たちまち、先ほどふるまわれた香草茶とは比べ物にならないほど高級な、輸入物の薫り高い紅茶の香が立ち昇った。

 このテーブルに着く全員のお茶を淹れ終えて、クリスティーネは、勝利を確信していたところを予期せぬ伏兵に足元をすくわれた、敗軍の将に似た表情でうなだれる。

 一呼吸あって。不承不承、アンリに器を差し出しながら、クリスティーネは言った。


「ここへ泊めるのは、先生がお帰りになるまでよ。その間、お客さま扱いは一切しませんから。覚悟しておきなさい」


 と、一方的に宣言する。

 あれほどルブランス人を毛嫌いしていたクリスティーネの、いきなり百八十度身を翻したかのごとき発言に、アンリは訳が判らず、唖然とさせられ返事もできなかった。

 テーブルの向かい側の、いままで以上に冷淡なクリスティーネの眼差しを見れば、この少女が魂を入れ替え、急にルブランス贔屓になったというわけではなさそうだが……。


「とにかく、冷めないうちにお茶をいただきましょう。せっかく、とっておきの紅茶を淹れたんだから」


 クリスティーネがティーカップを手に取り、澄ました顔で白い器に口をつける。


「それもそうね。冷たくなった紅茶なんて、渋くて苦くて、とても飲めたものじゃないもの」


 そう微笑しながら、ガルド・ルルゥもおのれのカップを覗き込む。濃いめに出された紅茶には、茶柱が一本、すっくと立っていた。


「あらら……、大吉」


「僕のにも立ってますよ」


 なんと四人全員のカップに、茶柱は立っていたのだった。

 その後しばらくして──アンリが、なぜここへ住み込むことを許してくれたのかと、クリスティーネに尋ねる機会があったのだが。

 つんと澄まして、決して自分と視線を合わせようとしないクリスティーネから、「お茶の葉占いの卦が良かったから」と、アンリは聞かされることになる。

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