番外編② 大切にするということ(後編)

 その日、屋敷にはエレオノーラとシェルの二人だけだった。ギルバートは王宮へ出仕しており、ハンナは久しぶりに自分の子供達に会いに行くらしい。

 日の当たる窓際に座って本を読んでいると、後ろからシェルがぴょんと飛びついてきた。


「エレオノーラ、僕街に行きたい」

「街へ? どうして急に……でも、ギルにもハンナさんにも言わないで勝手に街へ行くのは危ないわよ。私達はあんまり人間の世界のことをよく知らないんだから」

「いつもエレオノーラ達が話しているのを聞いて僕も行きたいって思っていたんだよ。この姿でいられるのもあと少し出し、お願いだよ、エレオノーラ」

「そうねぇ……」


 シェルの潤んだ瞳に見つめられて口ごもる。結局、ほんの少しの間だから、という彼の説得で二人は街へ出ることにした。



 街へ出たシェルはキラキラした目で周囲の様子を見ていた。石畳の道沿いに並ぶ色とりどりの家屋や店、季節の花々が街を美しく彩っている。大輪の花を咲かせている噴水の水しぶきが陽の光に反射し、虹色の粒を飛ばしている光景を見てシェルは感嘆の声をあげた。

 そんな彼の姿を見て、自分も最初に陸に上がった時は同じ気持ちだったことを思い出し、エレオノーラは微笑んだ。二人には内緒で来てしまったが、彼を連れてきてあげて良かったと思う。

 ふと顔をあげると、海があかがね色に染まっていくのが見えた。そろそろ日が暮れる頃合だ。女性が夜に街を歩くのは危ないと教えられていたエレオノーラは、馬車を呼ぼうとシェルの手を取る。


「ええっ、もう帰っちゃうの、エレオノーラ」

「ええ。あんまり遅くなるとハンナさんやギルバートが心配するわ。また街には連れてきてあげるから」


 優しく言うと、ギルバートの名前を聞いてシェルがムッと口を尖らせる。


「心配なんてするかな? ギルバートなんて、少しくらい困らせた方がちょうど良いくらいだ。だってエレオノーラのことを大事にしてくれないんだもの」

「ううん、違うわ、シェル」


 シェルの浅い海の色をした瞳を見つめながらエレオノーラは首を振る。


「ギルもね、ああ見えて私のことをとても大事に想ってくれてるのよ。言葉や態度にしなくても、私には伝わるもの。だから心配しないで、ね?」

「ふぅん。僕にはよくわからないけど、君がそう言うならそうなんだね」


 シェルが唇を尖らせながらも頷く。海の生き物である彼にとって、人間の男女の機微を理解するのはまだ少し難しいかもしれない。けれども、エレオノーラが幸せそうにしていればいつかはわかってくれるだろう。

 ええそうよ、と返事をして微笑みながらシェルの頭を撫でてあげると、彼がくすぐったそうに笑った。

 そのまま彼の手を引いて往来へ出る。馬車を捕まえようとぐるりと辺りを見回した途端、誰かに腕を捕まれ、グイと乱暴に引っ張られた。


「お嬢ちゃん迷子? 俺達が道を教えてあげようか?」


 見ると、自分の腕を掴んでいたのは見たこともない男だった。エレオノーラの腕を掴んでいる男の後ろにも二人の男が控えている。全員身なりを見る限り平民の男だ。上等そうな衣服を着ているエレオノーラは特に目立つ為、目をつけられたのだろう。一人の男がニヤニヤと下卑た笑みを口元に貼り付けながら、エレオノーラの腕を引き寄せる。


「お嬢ちゃん、帰り方がわからないなら俺達が教えてやるよ。一緒に来な」

「へぇ。綺麗な顔をしてるじゃないか。そっちの男の子も女の子みたいだ。帰る前に俺達がちょっと遊んでやってもいいぜ?」

 

 男達が下品な笑い声をあげる。薄汚い欲望を隠そうともしない男達に、シェルが小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


「君達は自分の顔を鏡で見たことがあるのかい? とっても不細工じゃないか。エレオノーラと釣り合うと思っているなら、とんだお門違いだよ」

「あ? なんつったこのクソガキ」

「僕の大事なエレオノーラの相手なら、少なくともギルバートくらいの男じゃないと僕は認めないよ。不本意だけど」

「ギルバートって誰だコラァ!! ふざけやがって!」


 男がこめかみに青筋を立ててシェルの胸ぐらを掴む。エレオノーラが小さく悲鳴をあげるが、シェルは動じることなく冷ややかに男を一瞥しただけだった。その態度に神経を逆なでされた男が拳を振りかぶる。


「お願いやめて!」


 エレオノーラが悲鳴をあげるが、腕を掴まれている為にどうすることもできない。数秒後の惨劇を想像し、反射的にエレオノーラは目を瞑った。

 だが、予想していた音はしなかった。恐る恐る目を開けてみると、シェルを殴りつけようと振りかぶっていた男の腕が別の者の手によって捻りあげられている。視線上げると、そこには騎士の服を着た男が鋭い視線で立っていた。


「ギルバート!」

「貴様ら、何をしている」


 思わず声を上げると、ギルバートが鋭い目で男達を睨みつける。男は苛立ったように暴言を吐きながら振り返ったが、目の前の男が王家の騎士服を着ているのを見て怯んだようだった。


「彼女は俺の妻なのだが、用件があるなら俺が代わりに聞こう」

「チッ……うるせぇ! なんでもねぇよ!」

 

 さすがに騎士とやり合うのは色々な意味でまずいと思った男達がギルバートの腕を振り切って逃げていく。後に残されたエレオノーラは、そっとギルバートの顔を仰ぎ見た。


「ギル、どうしてここに?」

「逆に俺が聞きたい。お前達が屋敷にいないとハンナが大騒ぎしていたぞ」

「そうよね。勝手に出てきてごめんなさい……」

「まぁ無事だったなら良い。帰るぞ」


 エレオノーラがしゅんと肩を落とすと、ギルバートがため息をつきながらもエレオノーラの肩を抱く。そんな二人を、シェルはジト目で見つめていた。


「助けてくれたことには礼を言うよ。それにしてももう少し早く来てくれても良かったんじゃないのか。そんなことでエレオノーラを守れるのかい?」

「大方お前が連れ出したんだろう、海洋生物。まだここの世界に不慣れなうちは、俺の付き添いなく彼女を勝手に連れ出すことは許さん」

「そんなにエレオノーラが大事なら、もう少し僕にもわかりやすいように示してくれよ」

「なっ……!」


 シェルの言葉に、ギルバートが微かに動揺する気配がした。エレオノーラには意味がわからなかったが、シェルの言いたいことは彼には伝わっているようだ。わけがわからず困惑した表情で彼の顔を見ると、ギルバートが顔を赤くしながらこちらを見ていた。パチパチと瞬きをするエレオノーラの顔を見て、ぐっと唇を噛む。


「あーくそっ! これで満足か、ウミヘビ!」


 次の瞬間、グイッと体が抱き寄せられ、唇に柔らかいものが触れた。少し押し付けられるような、柔らかい感触。往来でキスをされたことに気付いたのは、真っ赤に染まった彼の顔を見た時だった。ハッとして両手で唇を抑えると、シェルが満足そうに腕組みをしながらふふん、と鼻を鳴らす。


「言っておくけど、僕はタツノオトシゴだよ」

「そんなことはどうでもいい! くっ……俺がこんなチビの言いなりになるとは」

「良かったね。今日からあそこの亭主は妻にぞっこんだと噂になるよ。これでここいらではエレオノーラに手を出したがる男もいなくなる。君にちょっかいをかける女もね」

「お前も大概可愛くないな。海洋生物は皆こうなのか?」


 見ると、往来では数人の女性が顔を両手で覆いながらもこちらを見ていた。一応、ギルバートもマントで姿を隠してくれていたようだが、傍目から見ても何をやっているのかはバレバレだ。照れと恥ずかしさがないまぜになった彼の顔に、エレオノーラも遅れて頬を赤らめた。そっと唇に手を当てると、今の感触が蘇ってきてカッと胸が熱くなる。ドキドキと大きく鳴る自分の胸の音を感じながら、ギルバートの手を取ると、彼もためらいがちにギュッと握り返してくれた。


「とりあえず屋敷へ帰るぞ、馬車に乗れ」


 ギルバートがシェルの腕を掴み、馬車を捕まえようと辺りを見回す。だが、シェルは腕を振りほどくと、エレオノーラの腰に抱きついた。


「いや、僕は戻らないよ。それに、もうそろそろ期限の時刻だ。だから僕はこのまま海に帰るよ。人間の世界は楽しいけど疲れるものだね。少しだけ海で休んでくるから、数日経ったらまた迎えに来て、エレオノーラ」


 そう言ってギルバートをちらりと横目で見ながらエレオノーラの頬にキスをする。そのまま笑顔で手を振ると、シェルは海の方へ走っていった。


「なんだか気を使わせてしまったみたいね」

「まぁやつがそうしたいなら好きにさせておけ。俺達も帰るぞ」


 いい加減この場を離れたいとばかりにギルバートがエレオノーラの腕を引く。慌てて往来で馬車を捕まえると、二人は人の目を避けるようにして乗り込んだ。

 ビロード張りの椅子に座ると、扉を閉めたギルバートがどかりと隣に腰掛ける。いつもは向かい側に座る彼が隣に来たことに驚いて顔をあげると、ギルバートは仏頂面をしなから腕組みをしていた。口は生真面目そうに結ばれているが、その頬はほんのりと赤い。 


「お前も……その、もう少し俺が態度に出した方が良いと思っているのか?」

「え?」

「もう少し、お前に積極的に気持ちを表現した方が良いのかと聞いている」


 そう言うと、ギルバートがフイと視線をそらす。彼は不器用ながらも、一生懸命自分の気持ちに寄り添おうとしてくれているのだ。その気持ちが嬉しくて、エレオノーラの口元も自然にほころぶ。


「ううん、ギルは十分私のことを大切にしてくれるもの。ヤキモチを妬いたり、ベタベタすることだけが愛じゃないわ。私は十分、今のままのギルが好きよ」


 灰色の瞳を見ながらニコリと笑うと、ギルバートの目が大きく見開かれる。


「全くお前は……たまにそういうことをサラッと言うのは反則だと思うがな」

「え? そ、そういうことって?」

「いや、お前はそのままでいてくれ」


 ギルバートが微かに笑い声を漏らし、ゆっくりと顔が近づいてくる。先程の押し付けられるような触れ合いとは違い、今度は柔らかくて情熱的なキスだった。顔が離れていくと同時に、優しい眼差しが目の前に現れる。いつもの気難しい顔ではない、熱のこもった表情だ。愛おしむようなその眼差しに、エレオノーラの胸が甘い音をたてる。急に恥ずかしくなって俯くと、ギルバートの腕が腰へ伸びてくるのを感じた。そのまま指がそっとエレオノーラの腰骨を撫で上げる。

 

「きゃあっ! ちょ、ちょっと、何?」

「たまにはきちんと伝えるのも悪くないな。俺がどれだけお前のことを好きか、試してやろうか?」

「あっ……! もう、こ、こんなところではやめてよ! ギルのばか!」


 馬車の中にバチーンと小気味好い音が響く。そのまま二人を乗せた馬車は、夕日を背にしてガタガタと揺れながら屋敷への道を進んでいった。

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