1・へー、かっこいー
三十回目の新聖紀に入り、世界が三度目の千年紀最後の百年を迎えた年の春。
魔女の家系に生まれ、その後継者に選ばれた私は、これまでそのことに対して疑問を抱かずに過ごしてきたように、母の指示に当然のように従い、オズ魔法学園に入学した。
そして学園に到着した記念すべき日は、春の花が咲き乱れ日差しがとても暖かい、春麗かな気持ちの良い日……ではなかった。
雨だった。
土砂降りだった。
最悪。
帝国鉄道帝都本駅のプラットホームに降り立った私は、市販の地図を頼りにオズ魔法学園へ向かった。
市外見物をする余裕なんてこの時の私には全然なく、初めて訪れた世界有数の大都市の中で迷子にならないようにするのが精一杯だった。
その時はまだ少し雲がかかっていた程度だった空は、やがて曇天模様となり、小雨が降り始めた時になって傘という存在を完全に失念していたことに気がついた私は、これはまずいと大急ぎで学園へ走った。
だがすぐに豪雨となり、容赦なく降り注ぐ大量の雨を避けるため、私は偶然見つけた商店街の自転車置き場のトタン屋根の下へ避難した。
そして、そこには先客がいた。
私と同じ年頃の、金色の髪に
まるで彼岸の住人のように希薄で、どんなに視覚で捉えようとしても朧に翳む、それなのに存在感だけは奇妙に強い、そんな矛盾を伴う不思議な感じの男の子だった。
私はトタン屋根の下に入るまで彼に全く気が付かなくて、それで少し驚いて見つめてしまった。
その視線を感じたのか、彼も私に目を向けて、しばらくお互い見つめ合ってしまった。
けれども彼は私に興味があるわけではなく、軽く会釈すると雨天へ視線を戻し、その後一言も話さなかった。
なんだか落ち込んでいるような、悲しんでいるような、それでいて楽観しているような、酷く深刻な雰囲気がした。
私は少しだけ興味が湧いたが、全く見ず知らずの人に話しかけるような馴れ馴れしい真似はしない主義なので、気安く声をかけることはしなかった。
勿論彼の方でも私との会話を望んでいないだろうと思っていたが、真偽の程は今も確かめていない。
それから三十分ほど佇んでいたが、雨音は一向に途絶える気配を見せず、こんなことなら箒を携帯しておけば良かったと後悔した。
魔女の家系に生誕した女性の多くは先天的に、なぜか箒を媒体とした場合のみ、浮遊、飛翔などの重力制御系統の魔法が行使できる。
空を飛んで行けば、道路も建築物も無視して、学園まで一直線の最短距離で移動可能。
まあ、箒を持ってくることを考えるよりも、傘のほうを先に考えるべきなんだろうけど、災難に遭遇した人間は物事を理論的に考えることができないのだ。
そういうことにしておけ。
仕方がない、全身ずぶ濡れになるのを承知で学園まで走ろう。
私は覚悟を決めて、ふと、隣にいる彼はどうするのだろうかと目を向けると、その姿がなかった。
すぐ隣にいた私に、移動するさいの気配を感じさせず、水を撥ねる足音も聞かせず、彼は忽然と姿を消していたのだった。
どうやってそんなことができたのかわからなかったが、私はなぜだか不思議には思わなかった。
彼のその希薄な雰囲気から、雨音の中に溶け込んで消え去ったのだと、なんとなく納得してしまったのだ。
そんなはずないのに。
つまり、これが私とアッシュ・スカーディノの出会いだった。
国の機関が直接運営している、事実上世界唯一の公立魔法使い養成学校。
オズ魔法学園。
アスベルト帝国第一地区こと帝都の一角に位置するそれは、直径約三キロメートルの正確に円を描いた外壁に、内部の主要道は六方星を中心部へ向かうように複数描いている、広大な面積に描かれた巨大な複合魔方陣。
中心には本校舎、主用道で分けられた区域に分校舎や寮、運動場に庭園などが施設されているが、その配置も魔法的な布石や楔の類に思えた。
どんな必要性があって学園の敷地を魔方陣に象ったのか、その事情は学園を紹介する資料や案内書の中には記されていなかった。
この時は、全く意味がなくて、ただ魔法使いを象徴する印の一つだったからそう設計したのかもしれないとも考えたが、その辺のことは後になって知ることになる。
まあ、そんな事柄はこの時の私にはどうでもよく、雨の中を全力疾走して、そのオズ魔法学園へ到着した私は、入り口付近の受付で簡単な手続きを済まし、自分に割り当てられた寮へと、再び雨の中へ突入することになった。
ちなみに受付では、天気予報の確認を忘れるような迂闊な人間に〈はい、私のことです〉傘を貸す、なんて気の利いたことはしてくれなかった。
別に薄情だとかムカつくほど無関心であったとかではなく、単に常備される置き傘が全部なくなっていたためだ。
傘を忘れる人は結構多い〈言い訳ではありません〉。
まあ、自分の傘を貸してくれる性格の良い人もいなかったから、やっぱり薄情かもしれないけど。
オズ魔法学園の生徒のほとんどは寮で共同生活を営んでおり、実家が国外にある私も当然入居した。
部屋割りは基本的に一室二人で勿論男女別。
クローゼットやベッド、机に椅子など、基本的な家具類は学園側で用意されている。
風呂やトイレはそれぞれの寮で共同使用。
学園食堂の食事は一応一日三食、
ちなみに外でアパートを借りるなり、または実家が幸運にもこの街にあるなどして、そこから学園に通いたいというのであれば、それは規制されているわけではないので、別に構わないのだが、実際外からの通学者は稀だ。
なぜかといえば、経済的理由による。
なんといっても寮は無料で、多少煩わしい規則や生活当番の類を我慢すれば、小遣いを違ったことに使える。
これは私たちの年代にとって大変強力な誘惑だ。
それに人間関係も運がよければ親友と呼べるべき人と出会えるかもしれない。
そうなれば快適で楽しい学園生活が約束される、かもしれない。
私の場合はどうだったのか、今も判断しかねている。
なんというか、色々と微妙なのだ。
つまり、私と同室だったのは、委員長ことウェンディだったのだ。
全身ずぶ濡れ状態の私が指定番号の部屋を見つけ、扉を開けて入ろうとした途端、先に到着していた彼女は制止の声を上げた。
「入っちゃダメ!」
私は驚いて、彼女の指示に従ってしまった。
聞きようでは大変失礼な言い方だが、私はこの時そうは思わず、心身共に硬直してしまったかのように、止まった。
ウェンディはそんな私に気づいていないのか、既に整理し終えたクローゼットの中からタオルを数枚出すと、私に手渡した。
「はい、これ。そんな雨に濡れたまま入ってきちゃ駄目よ。掃除が大変なんだから」
言いつつ彼女自身も私の髪の毛を丁寧に拭き始めた。
そのお節介の焼き方は、もし年上であれば優しい姉や、母のように感じたかもしれない。
私にけして笑顔を見せなかった母ではなく、心の中で思い描いていた願望の母の姿。
年下なら姉を慕う妹と感じたかもしれない。
私にけして懐かず、いつも敵意に近い対抗心を持っていた妹ではない、仲の良い姉妹。
でも彼女は同年代だった。
なにより黒髪に三つ編みに黒縁眼鏡、頬に残るチャーミングなそばかすに、どうしても委員長という言葉が思い浮かんだ。
今までも委員長をやっていたんだろうな、とか、きっと委員長に真っ先に立候補するだろうな、とか思った。
あまりにもわかりやすい人物像に、私は笑いの衝動が込み上げてきて、抑えきれなくなってしまった。
「プッ、クククク……」
彼女は私の反応の理由がわからなかったのだろう、不思議そうに呆けた表情をしたが、すぐに釣られるようにして笑い始めた。
「ふふ、うふふふふ……」
しばらくの間、二人して笑い合っていた。
これがウェンディフィールド・モレンタニアとの出会いだった。
そして後になって、受付の人がタオルも貸してくれなかったのを思い出し、やはりあの人は薄情だと確信するに至った。
次の日、講堂で入学式が執り行われた。
大半の学校では講堂などという大層なものはなく、たいてい体育館を代用するのだが、この学園には式や講演会などのために使う立派な講堂がある。
さすがに帝国自ら出資して設立された学園だけはある。
私は講堂の前で、配布された簡単な資料と一緒に渡されたカードの番号の席を探し、程なく見つけた。
番号の配置は同じ教室でまとめられていたらしく、ウェンディは三つ前の席だった。出席番号順だったらしい。
講堂前方の席は新入生で、左後方は在校生。
右後方は新入生の親類や教職員、学校関係者といった配置になっている。
困ったのが学校関係者の数で、式は大抵その数に比例して長引く傾向にある。
偉い人の話は無駄に長く、本当に無駄なのが辛い。
私はこれからの試練を予想して重い気持ちで腰掛けると、すぐ隣の席で同時に誰かが座った。なんとなく目を向けると私は少し驚いた。
そこにいたのは、金色の髪と深遠の紫の瞳をした男子生徒。
トタン屋根の下で会った彼だった。
「「あ」」
私たちは同時の声を上げた。
少し驚いた表情のままで、しばらくお互い沈黙していたが、やがて顔の筋肉が解けると、彼から軽く挨拶する。
「やあ。また会ったな」
彼は微笑み、そして私もこの時、微笑んでいたのだと思う。
「ええ、また会ったわね」
「あんたもここの新入生だったんだな」
「君もね。しかも同じ教室」
一呼吸の間を取って私は告げる。
「クレアよ。クレア・フィルゴートン」
「アッシュ・スカーディノだ」
こうして、私たちは再会した。
やがて講堂の椅子に全員が着席すると、学校関係者のお偉いさんの長々しい薫陶だか説教だか、そういったありがたくないありがたい話が開始され、私は最初の三十秒で、右の耳から左の耳に垂れ流していた。
ちなみに、魔法使い養成学校の入学式に関する世間一般のイメージは、光の届かない地下迷宮の奥底で、複雑怪奇な魔方陣を中心に、尖った覆面帽子をかぶり、白や黒の統一されたローブを羽織り、蝋燭を片手に呪文を唱え、邪神や悪魔を召喚し、入学の契約書にサインをする、というものらしい。
しかし実際は他の学校と特に変わることのない入学式だ。
小難しくつまらない話を延々と聞かされ続ける。
それは強力な睡眠薬と同等の効果があり、もしかすると言葉に魔力でも乗せているのではないかと思われるほど、強烈な睡魔に襲われた。
事前にドーピング〈珈琲三杯服用〉したにもかかわらず、一瞬でも気を抜けば即座に夢の世界に旅立ちそうなほど、危険な状態に陥った。
隣のアッシュが酷く険しい目つきで呟く。
「クソ、念のためにドーピングしといたのに、試合にも勝負にも負けそうだ」
「ドーピングって、珈琲のこと?」
「紅茶。カフェインは紅茶のほうが多いって知ってるか?」
「初耳。今度試してみるわ」
「試さなくていい。結論はもう出た。どっちも効果はない」
睡魔との闘いは一時間に亘り〈私には十時間に感じられた〉、十数人の長い話の最後にこの学校の第二責任者、つまり教頭先生が登場した。
「続きましては、ギルガメス教頭の薫陶です」
司会の声で私は気力を振り絞る。
経験から言えば教頭の次は校長で、つまり過酷な試練は残り二人で終了する。
そして教頭と思わしき人物が現れると同時に、新入生たちはざわめいた。
「皆さん、お静かにお願いします」司会が窘める。
今まで貴重なお言葉を述べてくれたのは、ごく普通のスーツ姿の人たちだった。
しかし、現れたギルガメス教頭は、二メートル近くの身長に、床まで届く純白のローブをまとい、優雅な歩みで壇上に立つ。
顔にはローブと同じく白い仮面を装着しており、目の部分に瞑った瞼の状態を模しているのか、やや吊り上った曲線を描く二つの隙間が開けられている。
そして鼻の部分の盛り上がりと、空気穴となる部分のみ。
ライオンの鬣の如く広がる髪も真白。
それは戯曲に登場する白き魔術師のような姿。
さすがに教頭クラスになってくると格が違うと、私は変なふうに感心してしまった。
やがてざわめきが収まり、新入生はその仮面の中から紡がれる声を待つ。
「……」
私たちは言葉を待った。
普段ならお偉いさんのお言葉など絶対に聞こうとは思わないが、この時は違った。
これだけ奇抜な姿を見せたのだ、ぜひ聞きたい。
「……」
私たちは白き魔術師の言葉を待つ。
「「「………」」」
あれ?
私が怪訝に思い始めたと同時に、ギルガメス教頭は華麗にマントを翻して、教師席へ戻った。
「えー、ギルガメス教頭でした。最後にフォグイ校長のお話です」
終り?
なにも話してないのに終り?
全然話してないのに終った?
一言も喋ってないのに終った?
私は頭の中が疑問符で一杯になった。
「あれで終りか?」
隣のアッシュが呟く。
「そうみたいね」
「さすが世界最大の魔法学校、一筋縄じゃいかないな。なんか方向性が違う気もするけど」
私たちが小声で話している間に、次の人物が壇上に上がる。
オズ魔法学園校長、フォグイ・アジル。
齢百歳を越すその顔には年齢に相応しい深い皺が刻まれ、その立場からすれば不似合いに擦り切れた、ギルガメス教頭とは対照的な黒のローブ。
頭部には、剃っているのか年齢によって失われたのか、毛髪は一切ない。
腰は杖がなくては歩くことも困難なほど曲がっており、元々背の低い体躯がさらに低く見える。
しかしその運足に着目すれば、足腰が衰えているわけではないのは、理解できる者にはわかるだろう。
総じてそれは、人を超越しながら人であり続ける、仙人のような雰囲気を醸し出していた。
そして御老体は背筋を伸ばして胸を張り、なにかの意味があるのか右手を私たちに向けて伸ばすと、その言葉を厳粛に告げたのだった。
「隣の家に
「……」
沈黙到来。
「………」
誰もなにも言わない。
「「………」」
私たち新入生はなにを言われたのかまるで理解できずに茫然としてしまい、二年三年生は呆れ顔で溜息なんかついちゃったりしているし、教師など学校職員は聞かなかったことにしているのか表情をまるで変えず、つまり校長先生一世一代の発言は、ものの見事に外したのだった。
「「「…………」」」
しばらくして校長は懐から扇子を取り出すと、額を軽く叩く。
「お後がよろしいようで」
そして校長は降壇し、司会は何事もなかったかのように締めに入る。
「以上を持ちまして、本年度入学式を終了させていただきます」
そして生徒への指示が伝えられていくが、私は〈というか一年全員が〉なんかもう茫然としていた。
「なんだったんだ、今のは?」
「さあ?」
隣のアッシュの呟きに、他に答える術を持っていなかった。
しばらく誰もいない演壇を見つめていたが、そうしていても仕方がないので私は一旦外へ出ることにした。
他の人たちも同じことを考えたのか、疎らに席を立ち始めていた。
そして運命の鐘が始まりを告げる。
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