雨音
朝田さやか
雨音
空が涙を流すとき、俺はいつも笑っている。
世界を灰色に染める厚い雲から、ぽつりと雨が降って来た。身体に滴る雨粒を眺めているうち、瞬く間に雨足が強くなる。そんな時、濡れた両手を上げて耳を塞ぐのが、いつの間にか俺の癖になっていた。
――耳を塞いでみて。ほら、雨音が聞こえるでしょ?
いつかの日の、女の子の言葉が蘇る。俺が雨を好きになれた日も、今と同じ匂いが満ちていた。
「雨の匂い、なんて言うんだっけ」
地面に跳ね踊る雨粒と鼻を突く匂いに雨音を見出しながら、俺は昔の記憶を手繰り寄せていた。
✳︎
雨なんか嫌いだ。
「宇城人って本当に雨期人だよな」と、誰かが言う度に消えたくなった。入学式も運動会も遠足も、楽しみにしていた行事の日には決まって雨が降った。誰だって雨が嫌いだ。だから、雨を降らす僕は、きっとみんなに嫌われている。
いつものように、世界が雨雲の影に覆われていた。とぼとぼと力なく歩む帰り道、背負ったランドセルがいつにも増して重かった。教科書は一冊も入っていないのに、この憂鬱な気持ちのせいだ。
小学校最後の徒歩遠足も雨で中止。僕を糾弾するように、冷たい雨が打ちつける。雨を吸った髪や服は、湿り気を含んでずっしりと重い。息を吸うたびに、咽せそうな雨の匂いが鼻いっぱいに入り込む。嗅ぎ慣れたはずの匂いも今日の僕には合わなくて、気を抜けば容易に吐きそうだった。
それは、
誰、と言おうとした声が掠れて、傘に弾かれる雨粒にかき消された。目が合った瞬間、その女の子は突然僕の手を掴み、自分が持っていた傘の柄を握らせた。
「どうして」
やっと声らしい声が出た。けれど、女の子は眉をハの字に曲げるだけで、何も言わずに首を横に振った。そして、真横にあるバス停の屋根の下に入り込んでいった。その様子が気になって見つめていると、女の子は僕を誘うように、座ったベンチの隣をぽんぽんと手で叩いた。
おずおずと屋根の下に入って、すっかり濡れている自分の身体を見つめる。座るかどうか迷った後、遠慮がちに腰を下ろした。一人分空いた距離。傘の置き場所を見失っているうちに、女の子は
――私、耳が聞こえないの。だから、書いてお話ししよ?
にこっと笑った女の子の笑顔が余りにも眩しかったから。衝撃的な告白をされたはずなのに、気にも止まらなかった。いいよ、と僕が頷くと、女の子は流れるようにペンを走らせた。
生まれた時から聴覚を失っていること、僕と同じ小学六年生であること、お母さんの迎えを待っているとびしょ濡れの僕を見つけたこと、思わず傘を差し出していたこと。整った綺麗な字で、文字が連なっていく。
――どうして濡れてたの?
ふいに、ずっと女の子が握っていたペンが僕に差し出された。途端に、忘れていた滝のような雨音が僕の耳に流れ込む。その忌々しい音から逃げ出したい気持ちを抑えて、ペンを受け取った。
――僕は雨男なんだ。
書き始めると止まらなかった。日々少しずつ溜まっていた雨雲のような気持ちが溢れ出す。髪から滴り落ちた雨粒に混じって、熱い水滴が頬を伝う。書き殴った文字。誰にも言えなかった思いは後から後から込み上げた。
――雨なんて大っ嫌いだ。
女の子の耳が聞こえなくて良かったと、不謹慎にもそう思う。雨音よりも大きくてみっともない嗚咽を、聞かれなくて済むから。
震えて文字が書けなくなった僕の手を、女の子が優しく握った。顔を上げると、全てを包み込むような微笑みを浮かべていた。女の子は掴んだ両手を僕の両耳を塞ぐように持っていく。
――耳を塞いでみて。ほら、雨音が聞こえるでしょ?
そう書くと、女の子は僕の洋服を軽く引っ張って、一緒にバス停から一歩外へ出た。雨粒はさっきよりも強く、僕を打ちつける。けれど、隣にきゃははと笑う女の子がいたから。
冷たくて、こそばゆくて、僕の肌の上で踊る雨粒たちのワルツの片鱗が、確かに聞こえた気がしたんだ。それは、いつも僕を苦しめていた雨音とは違う、雨音。
――ねね、知ってる? 雨の匂いってペトリコールって言うんだよ!
また屋根の下に戻った女の子が、ホワイトボードを僕に向けた。ぶんぶんとホワイトボードを揺さぶって、自慢げに胸を張っている。ペトリコール、なんて、なんだか
――雨の日はね、ペトリコールが香って、景色も忙しくて、直接当たる雨粒を感じられるから大好きなんだ。だって、確かに音が聞こえてくるんだもん!
雨粒に反射した彼女の笑顔が、虹のように輝いた。一人でも雨を好きだと言ってくれる人がいるなら、僕は僕のままで、「雨期人」のままでいいんじゃないかって、そう思ったんだ。
二人ともびしょ濡れだった。今度は迷わず女の子の隣に座る。胸を満たすむず痒さに、何か言いたくなってペンを貰った視界の端。ランドセルに書かれた女の子の名前が、ふいに飛び込んで来た。
――ありがとう、
近くで聞こえる雨音が、僕の胸をいっぱいに満たしていた。
雨音 朝田さやか @asada-sayaka
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