二人の再会は暫く後の、珍しく部活が休みとなった金曜の放課後だった。

 「アイドルになりたかったって言ったら、ちょっと引く?」

 千生いつき啓介けいすけの眼を覗き込むように顔をわずかに近づけて言った。何故か、二度目にして早くも千生は啓介に対して既に立場が上のように接しているのだった。啓介には、他人に安心を与えるような気安さが漂っていた。

 「どうして? ステキじゃない、アイドルなんて。いろいろなところで頑張ってる姿を観ると、もう勇気百倍って感じだよ」

 千生の大きく美しい瞳に射すくめられて、啓介はいささかドギマギしながら答えた。特に、その日の千生はポニーテールだった。

 「私、アイドルになりたくて、とにかくなりたくて、もうオーディションをいっぱい受けたの。たった一つだけ、私を引き受けてくれた事務所があって、そこの養成所に通いながら、次は仕事を得るためのオーディションを受け続けたわ」

 「うん」啓介は頷いて、次の言葉を待ったが、話題は意外な方向に移っていた。

 「啓介は、芸能活動が原因でいじめられたりしたことあった?」

 啓介は少し考えてみなければならなかった。

 「たぶん、あったんじゃないかな。…あったと思うよ。子供の頃なんか、ねたみが酷かったから、苛めもあったかもしれない。でも仕事が楽しすぎて、気にしてる暇なんかなかった。ちょこちょこあったかもしれないけど、こいつら莫迦ばかだなぁと思って遣り過してた」

 「或る時ね、養成所の人から、来年の契約は更新しないと説明されて、書類を渡されたの。頭が真っ白になって、理由も訊かなかった。訊くことも忘れてた…そのあとはどうやって事務所を出て、家まで帰ったのかも覚えてない…」

 両親も立ち会わせずに、中学生にそんなことをするのかと啓介は驚いた。

 「でも、家に帰ったら少し落ち着いたの。事務所はあそこだけじゃない、また、挑戦すればいいって。更新なしの話はパパとママには、また明日にでもしようって」

 そんな目に遭ってもまだ立ち上がろうとした千生を、啓介は素直に凄いと思った。

 「次の日は、なんだかすっきりした気分で学校に行ったわ。凍えつくような日だった。地面には一面霜が降ってた。出来るだけ晴れやかな顔をして、教室に入って挨拶したの。『おはよう』って…」

 啓介は興味深くその続きを待った。

 「その時気づいたの。教室の雰囲気がヘンだって。すごく冷ややかで、なのに生暖かい感じもして、いやな感じだった。…理由はすぐに分ったわ。結露けつろした窓ガラス全面に、私のヘタクソな似顔絵や悪口が指で描いてあったのよ」

 啓介は思わず目を泳がせた。

 「クリスマスのショウウィンドーみたいだと思ったわ。白く吹き付けたような、画や文字が、輝いてた。…」

 その光景が、はっきりと目に見えるような気がした。

 「心が折れちゃったの、あの時、完全に、ポッキリと…。昨日の今日だったもん。…人生最悪の日だった」

 世の中にこれほど心を打ち砕くような二連発があるだろうかと、啓介は、事務所の人間と、そのクラスメートたちに怒りを覚えた。

 「もう、芸能界なんてりだと思った」

 「つらかったね…。千生と同じ学校の同級生でいたかった。そんなことした奴らを叩きのめしてやりたかった」

 啓介が経験したかもしれない苛めとはまるでレベルが違っていた。一体どうして、芸能活動をしているというだけでそんなことができるのだろうか。

 「なんてこと言うのよ、莫迦…」

 千生は思わず涙ぐみ、すぐに打ち消すように笑い始めた。啓介はこの話題から離れようと、かねてからの疑問をたずねた。

 「ね、ずっときたいことがあったんだ」

 「何かしら?」

 「『千生』って、どんな意味があるの?」

 「面白い。そんなこと訊くのね。…欲張りな名前なのよ。たくさん栄えますように、豊かで実り多い人生を歩みますように、大きな愛ですべてを包み込む人になりますように。凄いでしょ。名前負けしちゃう」

 「確かに欲張りだ」

 啓介は微笑んだ。そして思った。

 大丈夫だよ。千生は名前の通りだよ。


 梅雨の合間の晴れ渡った日曜日、千生と啓介は、他の一組のカップルと合同でダブルデートすることになった。高校で初めての中間試験が終った打ち上げのようなもので、場所は西武園遊園地だった。

 最寄りの小平駅に集合した四人は、西武多摩湖線に乗り、西武遊園地駅で降車した。夏を感じさせる久々の晴れ間に、人出は多かった。

 もう一組の二人は、啓介の共通の友人で、別のクラスの同級生だった。三人は小学校時代からの幼馴染みだった。名前は千早三郎ちはやさぶろう名島順子なじまじゅんこと言った。三郎と順子は中学時代から交際を始めて、もう三年目になるのであった。

 二組のカップルは入園すると、待ち合わせ場所と時間を決めてすぐに別行動をとった。

 名物である大観覧車やメリーゴーランドに乗ると、もう昼食時間だった。千生は昨夜一生懸命に作った数人前のサンドイッチを啓介に振る舞った。

 「小六の時、もう四年前ね、この先の西武ドームでコンサートを観たの」

 昼食をとって人心地つくと、ふと、千生が遠くを見ながら言った。視線の先は、そこから見えない西武ドームのようだった。

 「私の人生を変えた、…変えたかもしれない場所。そこでコンサートを観たの。興奮して、元気を貰って、どうしてアイドルってそんなことができるんだろうって不思議に思って、それでなりたいと思った」

 アイドルになりたいという切っ掛けは、そういうことだったのかと啓介は何となく納得がいった。

 「みんなとっても綺麗で、スポットライトを浴びてキラキラしてた。一挙手一投足に釘づけになって、三時間目を離せなかった。…私もあんなふうに、輝く場所を見つけたい。そして、その輝きで、自分がそうしてもらったように、みんなをしあわせにしたい、元気にしたいって思った。自分もそんな存在になるんだって…」

 相変わらず遠くを見ながら千生は話していた。自分はどうだったろうかと啓介は考えた。ただただ、仕事が楽しくて続けていた。誰かのためなどと考えたこともなかったなと、自嘲を覚えた。

 「…事務所が決って、養成所に行くようになって、まわりは凄い人たちばかりだった。意識も高いし、スキルもあるし。…この人たちに負けたくないって思った。自信なんてなかったけど、でも負けたくないって気持ちだけはあった。…負け続けたんだけど…」

 ――負け続けた。

 自分も、自らオーディションに臨むようになってからはそうだったじゃないかと啓介は思った。確かに、負け続けだった。あれは何に負けていたのだろうか? 他人にだろうか? それとも、自分自身の何かにだろうか?

 「そんな毎日の中で、いつの間にか、見てくれる人を倖せにするよりも、自分がステージで喝采を浴びることばかり考えるようになってオーディションを受けていたんだ…」

 千生はそこで言葉を区切り、少し間があった。啓介は次を待った。思い切ったような口調に啓介の耳には響いた。

 「私の敗因はそこだったのかな…」

 あるいはそうだったのかもしれないと、啓介は思った。自分が自分がという焦りが自然と態度に顕れて、審査員に不穏な気持を抱かせたということはあり得る話だった。いや待て、それは千生ではなく、自分の話ではないのか――

 「誰にも分らないよ。そんなことは…」

 半ば自分を弁護するように、啓介は言った。

 千生はそこでやっと啓介の方を見た。

 「アイドルって、ファンに対して滅私奉公して、夢や愛を与える存在じゃないのかなって、最近思うようになったの。前は分ってなかったんだけど…」

 後悔というよりも、大切なことを誤解したままオーディションに臨んでいた過去の自分に言い聞かせているように、啓介の耳には響いた。

 「もう一度チャレンジしてみるの?」

 啓介は思わず訊いていた。もしもそういう気が千生にあるのだったら、自分の持てるすべてを動員して協力したいと思った。しかし千生は首を振り、啓介の眼を見ながら言った。

 「いい。今が楽しいもの」

 その後しばらく、千生と啓介は園内を話しながら散策した。啓介は話術が巧みで、千生は聞いていて飽きることがなかった。やがて歩き疲れて茂みに腰を下ろすと、啓介の人差指の手の甲側第二関節の辺りに血が滲んでいるのを千生は見つけた。

 「草か何かで切ったかな」

 「ちょっと待って」

 「あっ…」

 千生が美しい形の爪を備えたその白く長い指を差し出して、自分の手を握るのを啓介は驚きと共に見つめた。千生は躊躇いもせずに、出血しているあたりを口にあてて血を拭った。一瞬の出来事だった。

 それから、ポーチからバンドエイドを出して指に巻きつけてくれた。

 丁度、腕を組んで歩いていた三郎と順子が、通りかかってその一部始終を見ていた。二人は邪魔をするような野暮天ではなかった。ただ、後で驚かせようと、順子はスマホで何枚かシャッターを切った。自分のインスタグラムに、ほほえましい光景としてアップロードするつもりだった。

 ――インスタグラムにはその日のデート風景が数枚と、それとは別に啓介と千生の例の光景が、三枚掲載された。唇に指がふれている写真、千生がポーチに手を伸ばし、隣で啓介が放心している写真、千生が啓介の指にバンドエイドを巻いている写真。

 かなり後で、一枚目の写真がトリミングされ、画像アップローダーで晒されることになった。

 誰の仕業なのかは判らなかった。

 三郎がその軽率さを責め、順子が詫びようとしたときには、千生は転校した後だった。

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