二〇一五年の四月、啓介けいすけは地元の都立高校に入学した。偏差値60の進学校で、部活動も活発な、比較的自由な校風の雰囲気のよい学校だったが、啓介は帰宅部になった。高校では、もう休みたかった。放課後は図書室の書庫で読みたい本を漁ったり、友人とショッピングモールで駄弁だべったり、時には吉祥寺に出て映画館に行ったりした。下足箱のあたりで、千生を見かけたのは、そろそろ、そんな生活が定着してきた頃のことだった。

 忘れようとしても、忘れられない顔だった。いや顔ではなく、その瞳が啓介の目を捉えた。およそ一年半ぶりだというのに、見間違うこともなかった。思わず声をげそうになったのを、啓介は今も覚えている。

 校門とは別方向へ歩みを進める彼女を、啓介は追った。同じ学校にいれば、また機会はあるかもしれないが、待ってはいられなかった。紺のブレザーの制服を着た千生は、確かに、この学校の生徒なのだ。おそらく同じ一年生なのだろう。

 「ね、中学の頃、芸能活動してたよね?」

 前置きも何もなく、後ろからいきなり声をかけた。不審者そのものの所業に、千生は一瞬、身体をピクリとさせたが、そのまま何事もなかったように歩き始めた。

 「オーディションで一緒だったけど、覚えてないかな?」啓介は、自分は決して不審者じゃないんだという思いを籠めて懸命に言葉を続けた。千生は歩みを止め、少しして振り返った。

 「どのオーディション?」

 一年半ぶりに正面から見た千生は、やはり美しかった。言葉を返してもらった嬉しさに、啓介はこの機会を逃すまいと必死だった。

 「君が出演した舞台。僕は落ちちゃったんだ」

 しかし、次の千生の言葉は意外だった。

 「そう…。でも、私が合格したのはあれ一つだけなんだ。公演が終って間もなく、事務所からくびにされちゃった…」

 あれほど才能に輝いていた彼女が事務所を馘になった? 一体どういうことなのか。それで、あの舞台の後、活動を見ることもなくなったのか…

 「そうだったんだ。…僕もその頃、芸能界を諦めたよ」

 「何年くらい芸能界にいたの?」

 啓介は少し、自分の身の上話をした。児童劇団に入っていた話、ユニットでテレビドラマに出るようになり、何故か注目されて芸能事務所に引き抜かれた話、一時期は売れていたが、声変わりを切っ掛けに何もかもうまくいかなくなった話…

 「…オーディションを受けては落選する毎日になってね。…希望者はたくさんいるし、代わりの人間には全然困らない。もう、ここに自分の居場所はないんだなって思った…」

 「居場所…」千生は、この単語に強く反応したようだった。

 「私には最初から芸能界に居場所はなかった気がする。呆れるくらい書類を送って、それでたまにオーディションに進んで、仕事は一度だった…。六年活躍できたって、凄いよ」

 あの舞台は、彼女の唯一の仕事だったんだな…。啓介には、千生がそこまで、仕事を得るために苦労をしなければならない理由が分らなかった。何か自分には理解の出来ない力学が働いていたのだろうか。一体何が問題とされてオーディションに落とされ続けたのか。…

 それだけ苦労していた彼女には、自分のとるに足りないキャリアでも、大したもののように見えるのだろうか。

 「ありがとう」

 顔がほころび、言葉が自然に出ていた。自分のことが認められて嬉しかった。千生と、一瞬心が通じ合ったような気がしていた。しかし、楽しい時間はすぐに終ろうとしていた。

 「ごめんなさい、私、これから部活なの」

 千生はどこかに向っている途中なのだったことに啓介は気づいた。気のせいか、その言葉には残念そうな響きがあった。啓介は嘗てないような切実な瞳を見せて千生に言った。

 「また、話できるかな? 僕は四組の竹下啓介」

 「いいよ。…私は高宮、高宮千生たかみやいつき。二組よ」

 「いつき」と言うのか、と啓介は初めて知った。

 「いつき」、どんな意味だろう?

 千生が去った後も、啓介は暫く名残惜しそうにその場に佇んだ。


 啓介と違って、千生は中々に多忙な高校生活を送っていた。部活、アルバイト、学習塾…

 二人が逢うのは、必然的に隙間時間を縫うことになったが、着実に距離を縮めていた。

 都立の普通高校に、芸能活動の経験者がそんなにいる筈はない。キャリアに開きはあっても、啓介と千生は、同志のような感情が芽生えていた。


 啓介は幼少期から目立つことが好きで、自己表現の場を求めて空回りすることが多かった。業を煮やした両親は、伝手つてを頼って子役劇団に入れることにした。劇団の水が啓介には合っていたようで、まさに水を得た魚のようにきと活躍した。劇団は主催者がテレビ局のプロデューサーと知り合いで、時々テレビドラマに劇団ぐるみでユニット出演していた。そこでも啓介は悪目立ちするくらいにやりたい放題だったが、そんな啓介を気に入ったディレクターがいたのだから、世の中、何が幸いするか分らないものである。もっと活躍できるようにしたいと、そのディレクターの伝手で芸能事務所に移籍することになったのが、二〇〇八年、啓介九歳の時の話である。

 それからの数年間、啓介の活躍は目覚ましいものだった。向うところ敵なしの連戦連勝とはかくの如きものであったろう。テレビドラマ、映画、舞台、ミュージカル、本業以外のバラエティ番組、そしてCDデビュー…

 陽気で体力にも恵まれていた啓介は、現場の人間にとっては、多少無理をさせても大丈夫なところがあり、非常に使い勝手がよかったのである。

 そんな日々もやがては終る。

 「子役は大成しない」という言葉があるが、過去にこの言葉が啓介ほど的中したこともなかったろう。啓介にも一人前に思春期が訪れ、自我が芽生えるようになると、仕事への支障となった。それまでは何も考えずに平気で出来たようなことができなくなった。考えるキャラは求められてはいなくて、キャラを変えようとしても受け入れられるまでには至らなかった。

 それが実力不足だったというのはたやすいが、時流や運というものもある。本当に啓介ひとりの責任に帰していいものかは判らない。

 「神童も二十歳過ぎればただの人」という言葉もあるが、啓介は二十歳を待たず、十三才の時にはただの人になりかけていた。

 啓介はそれを、声変りが悪いのだと思うことにした。そうとでも思わなければ遣り切れなかった。「声変り」した後、オファーが次第に減り始めても、啓介は何とか持ち直そうと、自ら仕事を求めてオーディションを受け続けた。千生と同じ舞台の仕事を求めて共に受けたオーディションは、彼のキャリアの最終期であった。

 舞台での千生の芝居を堪能した啓介は、実に気分が晴れ晴れとした。おそらく、自分はこのまま、己の意に反してフェードアウトしていくだろうと思った。それは止められないだろう。最後は自分で幕を引きたい。

 啓介は、六年に及んだ芸能活動からの卒業を決めた。


 あれほど舞台で輝き、啓介が今後の活躍を期待した千生が、事務所を馘になったというのは非常な驚きだった。或は自分が観なかった日の公演で、何か酷いへたをうったのだろうか? その答えが啓介に分る筈もなかった。

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