千生いつきの交友関係は大きく分けて三つあった。クラスメートの仲のいいグループ。かるた部の部員たち。そして、啓介けいすけとその友人たちである。 

 初夏から夏、秋から冬と、季節は巡り、千生はこの三つのグループを毎日目まぐるしく渡り歩いていた。

 啓介と千生が過ごす時間は、割合としては最も少なかったが、濃密なものだった。三つの交友関係の中で、最も気がおけないのは啓介との仲だった。びる必要も、嫌われないように気をつかう必要も、気に入られようと努力する必要もなかった。自然体で接して、啓介はそのまま受け入れてくれた。営業トークも営業スマイルも必要なく、いつも千生は心から微笑んでいられた。

 中高生の男女が交際するというのは、どういうことなのだろうか。単なる異性の、友達以上、恋人未満の関係なのだろうか。それとも、少し遠い将来まで見据えた交際なのだろうか。それは人によるとしか言えないだろう。

 千生にとって、啓介の存在はやすらぎそのものだった。このまま一生でも共にいられるかと誰かに問われたら、出来ると言ったかもしれない。

 ずっと一緒にいられるか? その問いの答えは、啓介も同様だった。千生の場合とは違って、やすらぎではなく、常に適度な刺激を与えてくれて、退屈することがないからだった。あのオーディションで感じた時の衝撃が、ずっとそのまま啓介の中には存在しているのだった。

 共に言葉に出したことはなかったが、互いに、このままずっと二人で一緒にいたいと思っていた。

 更に成長すれば、想いだけではどうにもならないことが分かる。気が変ってしまうということも十分あり得るし、生活や経済状態という現実的な問題も関わってくる。現在の二人の想いがずっと続くことは保証できない。

 それでも、今の想いは真実なのであった。


 二〇一六年の二月。

 学年最後の定期考査の最終日に、啓介と千生は午後から半日過ごすことにした。二人は、千生が乳幼児の頃から姉と友に母親に連れて来られていたカラオケボックスに行った。

 二人は暖房の効いた室内に入るとコートを脱ぎ、ハンガーにかけて腰を下ろした。

 「テスト、どうだった?」

 「訊かないで」軽い鼻息と共に笑いながら即答する千生を見て、啓介は察した。充実した楽園のような高校生活での、千生の唯一の泣き所が、成績だった。塾にも通い、宅習も欠かさないのに、中位から抜けることができないでいた。現在の成績のまま推移すれば、所謂いわゆる「いい大学」への進学は困難だった。

 「どうするか、いよいよ覚悟を決めないといけないみたい。このままの生活を続けるのか、受験勉強に絞るのか。それとも…」

 「それとも?」

 挨拶代りに無粋な話題を振ってしまったばかりに、いきなり深刻なムードになってしまったことを啓介は後悔した。それにしても、「このままの生活」という言い方は何であろうか…

 「歌いましょう? せっかくカラオケに来たんだから」千生は陽気な声を出してリモコンを操作し、リクエストした。

 「ママがよく歌ってたの。何度も何度も…。だから覚えちゃった」


  出逢った頃は こんな日が

  来るとは思わずにいた

  Making good things better

  いいえすんだこと 時を重ねただけ

  疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの


 「センセ、いきなりそれ歌う?」啓介はすこし引き気味に声をかけた。確かに千生の歌唱は見事だったが、これはカラオケのしめの曲ではないのか…

 「上手でしょ? 啓介も何か歌って」

 千生は意に介さずに、リモコンを啓介の方に押しやった。いつものように、千生は啓介に何の遠慮もしていなかった。したいように振る舞っていた。それはいつも、啓介にとってこの上ないよろこびだった。千生が自分に対してわがもの顔に振る舞う、そのことが嬉しかった。ただし、今日のそれはいささか無理があるように思った。

 「参ったな…。ね、何を言いかけたの? あ、何か頼もうよ。喉乾のどかわいちゃった」

 啓介は内線電話を手に取ってメニューを開いた。今日はどうも重い雰囲気が室内に漂っていた。こんなことは初めてだった。

 「本当に志望校に入りたいなら、生活を改めるしかないと思うの。…もちろん、本当に入りたいと思ってる。…そのために、区切りを付けたいと思う」

 「どんな区切り?」

 「最後にもう一つだけ、オーディションを受ける――」

 今日はそのことを打ち明けたかったのかと、啓介には千生の目的がやっと分った。

 千生が嘗て西武ドームでコンサートを観て、アイドルを目指そうと思ったグループを仮想敵として結成されたアイドルグループが、三年ぶりのオーディションを開催すると発表して話題になっていた。今や、本家をしのがんばかりの勢いがあったそのグループへの応募者は、おそらく数万人に及ぶのではないかと予想されていた。採用が何人にせよ倍率が数千になることは確実だった。

 「なんとなく、千生はこのまま終ってしまうような人じゃない気がしてた。やっぱり凄いよ、千生は」啓介は受話器を戻して千生に顔を向け言った。

 「莫迦ばかだと思ってるでしょ。まだ無理な夢にしがみついてるって」

 「それはないよ。絶対に」

 啓介は強く首を振った。

 「恋愛禁止のところか…。オーディションに受かったら、俺のことは切らないとね。成功したいならそうすべきなんだ。そのときは喜んで、千生を見送るよ」

啓介は、何故か根拠もなく、今度の千生は合格しそうな気がしていた。

 「そんな、先走らないで。合格はしたいけど、出来るなんてとても思ってない…。メロンソーダお願い」

 千生は慌てて啓介の自信を打ち消そうとした。実際、合格した暁には彼氏とは別れなければならないのは事実だったが、いきなりその心配をするものだろうか…。

 啓介は再び内線電話を取ると、メロンソーダとコーラを頼んだ。

 「今の学校生活は、やっぱりつまらない?」

 「そんなことない。とっても楽しいよ」

 ――でも、物足りないんだ。

 だから受験一本に絞り切れずに、再び挑戦しようとしているんだね、と啓介は思った。

 夕方まで、カラオケボックスに二人でいた。


 春休みを経て、二人は二年生に進級した。

 それからは数か月おき、定期的に、啓介は千生からオーディション合格の知らせを受けた。

 オーディションを受ける心構えとして、千生は喝采を受けるという願望は出来るだけ抑え、他人にパワーを与えたいという気持を大切にしたいと思った。他人から受け取るだけでなく、何かを与える人になりたい、そう千生は願うようにして、オーディションに臨んだ。


 セミナーを受講して、その回から数人選ばれる、一次書類審査を免除されるシード権を得た千生は、二次オーディション、三次オーディションと突破していった。最終審査である四次オーディションまで、約四千倍の倍率を突破して合格したのは、九月のことだった。

 それまで、オーディションの前日は啓介が励まし、結果の報告を受け取ると、啓介は我がことのように、千生と共に喜んだ。

 倍率がたとえどれほどであろうと、啓介は千生が合格することを信じていた。

 「何も飾らなくていいよ。そのままで十分魅力的だから。普段の、ありのままの自分を、自信を持って出していけばいいよ」と、オーディション前日にはいつも同じことを言って励ました。

 「入学した時とは全然違ってるよ。いろいろ経験して、ほんとに面白くなった」

 という啓介の言葉は本音だった。千生は、部活、アルバイト、普段から目立たぬよう、嫌われぬようと慎重に心がけている交友関係などを通して、一回りも二回りも大きな人間になっていた。

 ひたすら、アイドルへの道を目指していた中学時代は、それがために世間が狭くなり、人間の幅も狭めていたのかもしれない。高校に入ってその呪縛から一時解き放たれたことで、スポンジが水を吸収するように自然に様々なことが流れ込み、人間を豊かにしたのだろう。

 そうか、あの頃の、芸能活動一本だった自分も、同様に人間の幅が狭くて、オーディションの合格に繋がらなかったのかもしれないと啓介は思った。そんなことを気づかせてくれただけでも、千生と出逢ったことには重要な意味があった。

 

 全てのオーディションを終えたねぎらいと祝辞が終ると、二人にとって現実的な話が始まった。

 「私、転校することになる」

 学校そばの純喫茶店に行った二人は、奥まった席に座っていた。とても何かを食べながらという気分ではなく、共にブレンドコーヒーを頼んでいたが、手つかずのまま冷めかけていた。

 「さすがに、ここで芸能活動は許してないよね。…仮に許可が出ても、両立は難しいしね。…」

 「芸能界が、入ったら二度と戻って来られる場所じゃないのは分かってる。だから命懸けでやりたい。芸能コースのある高校に行って、心置きなく仕事する」

 「一生懸命仕事したい気持は分ったけど、そこまで悲壮になることはないと思うなぁ…」

 「そのくらいの覚悟でいたいの」

 言い終ると、千生は目を伏せた。

 千生にはもう一つ、言いたいことがあるのが、その後の妙な間で推測できた。とても言いづらいが、言わなければならないことがあって、言い出しかねているのが啓介には分った。

 啓介は自分から切り出して、千生の負担を減じることにした。

 「男は切っとかないといけないね。あと、SNSも全部消しておかないと。もう話はあった?」

 「合格者発表の後、ひとりひとり呼ばれて説明があった。念書も取られたわ…」

 「念書? 本当に? そこまでやるのか…」

 「徹底してるよね。ビックリしちゃった」

 千生は苦笑いしたが、やがて表情を改めた。

 「啓介…。ごめん…」

 「何も謝ることなんかないよ。言ったじゃない、入ったら二度と戻れない場所に行くんでしょ? 足を引っ張りかねないものは、何もかもキッパリと棄て去らないとダメだよ」

 啓介もかつては芸能界にいたことがあるので、その世界の、はたから見れば異常な習慣にも麻痺しているところがあった。しかし、これが自分のような人間ではなく、芸能界と無縁な生活を送っている少年少女だったら、きっと耐えられなかったのではないかと思った。ある日、突然に芸能事務所が彼氏彼女を連れて行き、何の法的根拠もないのに、一切の交際を禁じてしまうのである。今どき、そんなことが許されるのだろうか。

 その一方で、それでもやはり、不特定多数のファンを相手にするアイドルとは、そういうものかもしれないとも思う。

 明石家さんまが言ったという、

「『明日大阪で握手会、明後日仙台で握手会、来てね』って言って、飛んできてくれる男なんておれへん。彼氏だって旦那だって、そんな男いない。ファンだけや、そんな我儘わがままについてきてくれるのは。だからアイドルの恋は隠さなあかん。それがファンへの誠意や」

という言葉も、或る意味正しいとも思うのである。それが、アイドルという職業を選んだものの犠牲ではないかと。

 いつもニコニコファンに笑顔で手を振っておきながら、休みの日には彼氏とデートしていると知ったら、やっぱり自分たちへの笑顔は営業用のものなのかよ、と思うファンもいるだろう。そうなったときには、それでもいい、それがアイドルの営業活動だと納得できる人間だけファンを続け、許せなければ潔く去ればよいだけのことなのだが、妙にこじらせてアンチ活動を始めてしまう厄介な人間もいる。

 いることを隠す、のではなく、いっそ禁じてしまうという方向に事務所が走るのも、厄介事を嫌う人気商売としては仕方ないのかもしれない。

 啓介は、これはどうも、事務所の先走りというよりも、ファンの民度の問題ではないかと思うのだ。純粋に「アイドル」として応援している者の他に、真剣な恋愛対象として捉えてしまっている「ガチ恋」勢などという厄介な種類の人間が少なからずいるのだから。

 これが俳優とアイドルの決定的な違いなんだなと、啓介は実感するのだった。


 現実とはやはり重たいものだった。しかし、必要な話題だったのだから仕方がない。立場上、合格おめでとうと喜んでいるだけでは済まないのだ。

 二人はすっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干すと、店から出た。このまま帰宅するのであった。手を振って二人は別れた。

 七ヶ月前に打ち明けられた時から、きっと今回は、千生は合格するだろうと確信していた。

 この七ヶ月、そうあることをむろん望んでもいたが、その一方で、その時必然的に訪れることに対して、淋しい気持はどうしても抑えることができなかった。それは、仕方のない感情なのだ。

 彼女が夢を得るということは、即ち、別れを告げられるということであった。両方はあり得ない。

 これでいいんだ。竹下啓介は半ば諦めたように胸の中で呟き、肩を落とした。

 どうも今日の帰り道は、かなり遠回りすることになりそうだった。


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