スノードロップ

真昼

1番にはなれない。


私は全色盲である。先天的に色を識別する能力が人より劣っている。日本では、男性の20人に1人が色覚異常を持っていると言われているが、女性はわずか0.2%。色覚異常は女性にとってまだまだ少数派であると言えるだろう。私は、生まれながらに色がよくわからない。でも、それが苦だと感じたことは一度もなかった。きっと色がある世界を知らないからだと思う。知らないことは良い。知らないことが当たり前で、世界に色はないとその誤った解釈ですら正解となって私の所へやってくる。正直言えば、最低限、生活する上での色を覚えてしまえば、普通と呼ばれる人間たちと紛れて生活することだって可能である。だから、私はこの色覚異常をわざわざ大袈裟に話すことはしない。人と違うだけで、“変わっている”というレッテルを貼られるのは大変迷惑な話であるし、哀れむような同情ほど息が苦しくなることはないと思っているからだ。人間誰しも、都合の悪いものには目を瞑るように、私も見えない世界にずっと目を瞑っていた。


そんな私は、少し前に22歳の誕生日を迎えた。無事に就職も決まり、大学の数少ない授業とアルバイトをしながら東京で一人暮らしをしているしがない大学生である。出身は青森県で、運良く受かった大学に通う為に颯爽と若者の街「東京」にやってきた。友達も少ないし、恋人もいない。上京4年目でも未だに抜けない津軽弁に、矯正は出来ないと諦めかけたところである。酒も煙草も覚えて、一通り大人っぽいことをして、堕ちるだけ堕ちた私。満たされないまま、空っぽのまま、虚しさと情けなさを埋めるように、六畳一間の狭い部屋に沈む生活を続けていた。


そう。異世界「東京」は私に「諦める」大半の人間側に終着してしまったことを気付かせたのだ。


目を輝かせて上京した4年前、私は色が分からなくても、何にでもなれると本気で思っていた。大袈裟かもしれないが、完璧な大学生になれると思っていた。恋人にも友達にも恵まれ、充実した生活とこれ以上ない幸福感に満たされながら過ごしていけると信じていた。案の定、この根拠のない自信は、この4年間事あるごとに、私のプライドと共に消えてなくなっていった。私は見えない世界に苦しめられる日が来ることを想定していなかったのである。


化粧を初めてした日、色が識別出来ないがためにアイシャドウが塗れなかった。

サークルの体験に行った日、青いゼッケンを目印にしろと言われ、どこに青があるのかわからなかった。

大学に着ていく私服を買いに行った日、服の色を聞くだけで時間が経ってしまい何も買えなかった。


結局、私の儚い期待は綺麗に崩され、汚され、無惨な姿になり、私という人間を無価値だと思わせただけだったのである。色んな経験をすればするほど、色というものは付き纏い、私の首を閉めた。


きっと、決定打になったのは、「失恋」である。


失恋と呼ぶことすら不適切かもしれない。汚い関係だった。


大学3年生の春休み。

恋人がいない私は昼間から性欲を持て余していた。大学に入り、色という形も姿もないものに苦しめられ、色と関わりのない世界を好むようになっていた。

特に、セックスは最高のストレスの吐口となりつつあった。


いくら慰めても満たされることはなかった。もっと。そう身体が求めるようになっていた。自分でも処理しきれなくなった行き場のない性欲をぶつけるように、Googleで検索をかける。

「性欲満たさない 20代 女」

なんて恥ずかしいのだろう。自分の欲を自分で満たせない情けなさに苛まれながらヒットした記事を静かな部屋で読む。ヒットしたサイトには多くのことが書かれていた。


満たされるまで1人で挑戦する。

女性用風俗の利用。

マッチングアプリを使う。

恋人を作る。

大人の道具を使う。


どれも私にはハードルが高かったように思う。もう1人ではどうしようもない程に膨れ上がった性欲に、コロナで出勤できなくなったがための金欠。マッチングも恋人もそんな度胸も出会いも私には無かった。道具を使って、普通のセックスに満足できないことも心配したし、とにかく紹介された記事で確信がもてる方法はどこにもなかった。見て損をした。無理だと思った。そんな時、最後のページに書かれていた「通話アプリの使用」に目が惹かれた。未知な世界だと思った。いかにも胡散臭いが、ケータイ1つで知らない誰かと繋がれる。サイトには通話越しで慰め合うことを勧めていたが、私はこの悩みを誰かに相談したいと思った。だって、私のような悩みを持っている人間が一定数いるから多くの検索結果が出たのでは無いのか。とご都合解釈で既に自分を納得させていたからである。訳もわからず、アプリ検索をかけてみれば、ずらりと並ぶ通話アプリの数。正直驚いた。こんなにも寂しい人間がいる。そう思って仕方なかった。

迷いもせず1番上にある通話アプリをインストールし、登録をする。マッチングアプリよりもはるかに簡単で手間がかからない。めんどうくさがり屋の私には好都合だった。試しに通話してみると、見たこともない世界に引き込まれたようだった。知らない人と通話をしている。


不思議な気持ちになった。「はじめまして」から始まり、住まいや、歳、趣味を話しながら仲を深めていく。そして、他人である私の悩みを親身になって聞いてくれるのだ。一人暮らしの時間があっという間に流れた。それと同時に、誰かに心配してもらったり、共感されることがこんなにも気持ち良いことだと知らずに生きていたのかと快感を覚えるようになった。気がつけば、通話アプリで人と頻繁に話すようになっていた。


ある夜、私はその通話アプリで、27歳の誠という男性に出会う。

20歳の私にとってはかなり歳上だったが、落ち着いた声がとても好印象だった。とにかく優しくて、私の話を噛み砕くように聞き入れてくれた。なぜ通話アプリを入れたのか、何に悩んでいるのか、自然とテンポ良く話し始める。この人なら、共感してくれると信じていた。そして実際に自分の欲していた共感が得られた。


君が性欲で満たされない気持ちはとてもわかるよ。

僕も半年前に恋人と別れたからね。かと言って、急に恋人を作ることも難しい。お陰で1人で慰めることも増えた。そう簡潔に応えた。


望む通りの返答に安心した私は、どんどんと彼の思考を読んでみたいと思うようになった。何時間話しただろうか。何を話しても飽きない事に居心地の良さを感じていた。時間が経つにつれプライベートな話にも触れていく。そっと壊れないように相手の声の抑揚だけで感じ取っていくのだ。


今はどこに住んでいるの?


会う予定もないのに、何故だか聞きたくなる居場所。


東京


と同じ答えが返ってくると、更に深く突き詰める。


大体どの辺り?

これには彼も驚いた様子だった。


江東区。

そう一言返ってきた。東京の良いところは、区まで伝えてもさして自分の個人情報には影響が少ないというところだろう。案の定、私は江東区のイメージなど何もなかった。


そっか。

と大きな関心を持つ訳でもなく相槌を打つと、


君は?

と質問が返ってきた。


品川区。品川駅の近く。


嘘ではないが、徒歩30分以上かかる家を近くと呼んで良いのだろうか。と内心不安に思いながらも、自分の身を守るべくそう応えた。実際のところ、品川駅は港区。既にチグハグな嘘に彼は気づいているのだろうか。と不穏な気持ちになった。

清澄白河って知っている?

彼は話を続けた。知らない。どこ。と伝え、ケータイで電車乗り換え案内アプリを開く。私の駅から乗り換え1回。所要時間は30分程度だった。こんなにも近くの人と話しているのか。急に関心を持ってしまい、私はそのままインスタグラムで街並みを眺めた。


案外近いみたいだね。

そう彼は低い声で話す。


時間が合えば会ってみたいね。そう私は答えた。

なんとも大胆な事を口走ったと思う。インターネットで知り合った人と会ったことすら無いのに、よくもまあそんな威勢が放てるものだ。我ながら呆れた。しかし、彼は案外前向きに検討するような雰囲気である。それはそうだ。性欲を制御しきれない女子大学生。もはやどこかのAVのタイトルに出てくるのではないかというほどの印象を私にもったに違いない。そのまま時間は長く経ち、通話をし続ける訳にもいかなかったので、ラインを使って連絡先を交換した。


当時、私は通話アプリの面白いところを、多重人格とも呼べる裏の自分を曝け出し、交流をする所だと思っていた。普段、関わり合っている人には話せないような内容を話題にできる。きっと、そのような話題は自分の中に閉まっておく事すら難しいのかもしれない。誰かと共有して、自分だけでは重すぎる現実を軽くしたいのだろう。私もその例に漏れないのである。


メッセージをやり取りするうちに、恐怖心より好奇心が勝り、私は彼に会いたいと思うようになった。顔も知らない、声だけの相手にだ。でも、通話も重ねて、彼の趣味嗜好も一通り知ったならば、もう会う理由なんてのは充分だった。誘拐されたら、おじさんだったら、マルチの人だったらとか、まあ最悪なパターンも考えてしまうのだが、もう好奇心には勝てない。だから遺書を書いた。私以外誰も住んでいない部屋に遺書を置いて私は彼に会いに行った。全く破天荒である。


3年間も東京に住んでいて利用したことがなかった半蔵門線。降りたことがなかった清澄白河。なんとも洒落た駅名である。夜19時に駅で約束を交わし、彼の家で夕飯を食べることになっていた。手荷物にはカッターと催涙スプレーと財布とイヤフォン。そしてケータイ。随分と偏った手荷物である。


デリバリー決めておいてね。

と前日の通話で話していたことを今になって思い出し、サイトでフードデリバリーを見る。そして、待ち人が少ない駅の出口で静かに待っていた。きっと待ち合わせには困らないだろう。


数分待ったのちに、私の前に男が立ち止まった。


待たせちゃったかな。

聴き慣れた声と見たことのない顔でチグハグな思考回路になった私は、咄嗟に今着いたところです。とそう一言だけ伝えた。


驚いた。想像通りの人が来たのである。その瞬間、通話アプリで想像通りはレアケースだとアプリを始めた頃に誰かが話していたことを思い出していた。


なんで敬語。と笑いながら、何食べるか決めた?と話している。私は、じっと彼の横顔を見ていた。少し高めの身長と、ハーフみたいな顔立ち、落ち着く声と、ムスクの香水を身に纏っていた。


ピザがいいかな。

当たり障りのない提案に彼はすぐに賛同した。いいね。スーパーでお酒でも買っていこう。どんなお酒が好き?歩きながら彼と話していく内に冷静さを取り戻していく。スーパーで一緒に買い物をすると、ふと彼の歩き方に目を奪われた。変なの。何故か右足だけが若干引きずって歩いているように見えた。そんな不自然な歩き方を後ろから眺めてスーパーで買い物をする。彼はビール。私はレモンサワー。つまみにチーズを買った。買い物が終わるにつれ私は焦っていた。どのタイミングでお財布を出すか悩んでいたからだ。レジ前でお金を渡すのは、なんだか男性の顔を立てられない女に見えるような気がして、私は良い女でいたかったからタイミングを見計らおうと考えていた。


あの。お金。

そうスーパーの出口で小さな声で話しかけた。

いいよ。学生には出させられないよ。(笑)

余裕のある笑顔で彼は答えた。


ピザを待ちながら、彼は自分の部屋を紹介してくれた。ギターが趣味で弾いていることや、最近ゲーム機を買ったこと。彼の生い立ちなど私たちは抜けたピースを埋めるように深く話をしていった。お酒も入り、おしゃべりになっていたのだと思う。


私、全色盲って言って生まれつき色が識別できないの。家族以外の誰にも話したことなかったけど、私の恥ずかしい性欲の話を聞いてくれたでしょう?なんだか嬉しくて、誠くんなら反応を見てみたいと思ったの。突然、饒舌に私はカミングアウトをした。


そうなの?全然わからなかった。いや、わからないように人一倍身の回りをよく見ているからそう感じたんだよね。大事な話を教えてくれてありがとう。これからは一緒に色を見つけにいこうよ。


同情されるわけでも、軽蔑されるわけでもなかった。ただ、笑顔で一緒に色を知ろうよと誘われたことが嬉しかった。そして、彼は、少し涙目になった私の目を見て、キスをした。もともと、性欲をどうにかしたくて始めた通話アプリ。こうなることももちろん分かっていた。でも、この人となら良いかもしれないと静かに身を任せて落ちていったのも事実であった。


そして、私は7つ上の男の人と関係をもった。


結果論、私たちは相性が良かった。高揚感と切迫感に満たされる瞬間だった。

事後、15分後ほどでピザは届き、流れるように食事をした。緊張のせいかあまり食べられなかった。テレビを見ても、彼と話をしていても、ドキドキしたままで、ピザの味すら感じることができなかった。そして、その日は終電で帰った。本当は、初対面でハズレを引いても数時間なら耐えられるだろうという私の裏の考えから終電帰りを提案したのだが、今回のように真摯な男性が来ても、慣れないネット上での交流に疲弊しきったので日帰りは良い選択だったと思う。


また連絡する。気をつけて帰ってね。また。そう言うと、彼は清澄白河の改札で私が見えなくなるまで手を振ってくれていた。言わずもがな彼はすごく良い人だったのだ。そこから電車に乗ると、メッセージが届いていた。今日はありがとう。大事な話をしてくれて嬉しかった。夜遅いから着いたら連絡してね。そう端的に書かれていた。気を遣ってくれる男性に出会ったことがなかった私にとってすごく彼の心遣いが新鮮で嬉しかった。


この出会いから、私たちは定期的に身体を重ねるために会うようになる。日帰りではなく泊まりで、彼の家と私の家を交互にして会っていた。時には美術館へ行って、一緒に色についての話をした。全色盲についてカフェで一時間以上話したこともあった。私は、この何気ない日常が、嬉しくて、他人から見たら良い恋人同士に見えているのではないかと優越感に浸って過ごしていた。


しかし、それと同時期には通話をする事はなくなり、メッセージの回数も極端に減っていた。定期的に会っているのならば、メッセージなんて無くても良い。そう言い聞かせていたが、私の強がりである。好きで好きで仕方なくなっていたし、自分をコントロールできない程に彼のことばかりを考えていた。時には、一日中、彼の返信を待ち続けることもあったくらいだ。同じ気持ちであって欲しいと願いながら、通知を見ては消して、また確認して、時間を持て余す大学生の負の連鎖が始まっていた。


自分の僅かな可能性に賭けたいと思う一方で、彼にとって私はセックスする相手以外の何者でもないと正直わかっていた。でも、その現実から目を背けたかった私は自分の中であるルールを決めるようになる。


彼と関わる上でルールである。

① 自分から会いたいと言わない。

② わがままな女にならない。

③ 好きと言わない。 


好きと伝えれば、離れられると思ったし、わがままになれば面倒くさいと思われると思った。男は面倒くさい女が嫌いだとよく言うから、従順な女でいることに徹した。会いたいと言わないのは最低限の自分に価値を見出したかったのかもしれない。


あくまでも誘われたから会うという、このどうでも良い形を何よりも大切にした。でも苦しくて仕方なかった。呆気なくブロックされてしまうのではないか。そう返信が途絶えるたびに涙が止まらなかった。


そして、ある日、私の家でいつもと同じようにご飯を食べて、セックスをするという決まり切ったルーティーンの中で、ルールを破って私は告白をした。初めて、面と向かって人に告白した。生きた心地がしなかった。でも、これ以上苦しみたくなかった。この締められた想いを伝えれば楽になれると思いたかった。


ねえ。私好きだよ。


うん。俺も。

なんだ、同じ気持ちだったのか。突然込み上げる嬉しさ。でも、その後、彼はこう続けた。

今は誰とも付き合いたくないというか。うん。わからないんだ。ごめん。

ああ、別に好きじゃないのか。私は彼の心が読めた気がした。


もともと、自分の手に余るようになった性欲をどうにかしたくて始めたアプリで、勝手に相手を好きになって、勝手に舞い上がって、都合良く、付き合いたいなんて私がどうかしていたのである。当たり前か。そう一言にまとめ込み、部屋の中がお通夜のように暗く静まり返った。この関係の終焉が今日になってしまったと自分の大胆な行動が招いた悲劇にひどくやるせなくなった。


しかし、この一件以降、彼との関係に終わりはこなかった。定期的に連絡が来るや否や、会いたい。そう一言だけ送られてきたのだった。すぐには切り替えられなかった私は、その言葉を拒否出来なかった。しかし、この関係も次第に崩れていくようになる。


それは、彼の周辺に女の影が見えるようになったからだ。初めはコンドームが行くたびに新しくなっていた。そして、彼の家には、一人暮らしにも関わらず、メイク落としのクレンジング、短髪の髪にどう使うのかわからないカールアイロン。女性洋服ブランドの紙袋が目につくようになる。極め付けは、赤い口紅。識別できるはずのない色を迷いもせず赤だと私は確信した。彼女が居て、なぜ私を誘うのか。セックスする相手ならもういるではないか。そう、深く傷ついた。


崩れ始めると、面白いように私への対応にも変化が現れた。

ご飯食べてきて。終電でも良い? 送れないから自分で帰れる?別人のようだった。私が好きになった紳士な彼はもうどこにも存在していなかったのである。そこからは、私もわがままな女にならないというルールを捨てたような気がする。生理になってもいないのに、生理と嘘を着いたり、東京にいるにも関わらず、実家に帰ったとしょうもないことを言っていた。


弄ばれていることが悔しくて、でも断れなくて、それを聞いた友人は酷く呆れていた。会う間隔が少しずつ空くようになった頃、いつしか、この関係にいつか自分で終止符を撃たなければならないと思うようになっていた。そして、3つ目のルールを破る日が来る。


明日、会おうとメッセージで送信したのである。

心無し早く返信が来たように思う。


あっさりと会うことが決まり、清澄白河の駅で待ち合わせとなった。長い私の想いに終止符が打てる。そう思うと、なんだか考え深い。1年以上彼に魅せられてきた。

色んな想いに蓋をしながら、翌午後6時、学生には決して安くない脱毛で予算外となったムダ毛達を処理し始める。そして、シャワーを浴びて、洗浄する。歯を磨いて、マウスウォッシュを含みながら、洗面台の下に置いてある活潤ゼリーの小袋を取り出す。もうあの頃のようには、自然に溢れてこないのである。文明の利器に頼りきりのセックスなんて本当にクソみたいだ。そう思いながら、しみったれた音楽をBGMにしながら準備を進めていく。通知音が音楽と同時に聞こえ、画面を覗く。ご飯食べてきて。その一言が添えられていた。


ご飯すら一緒に食べたいともう思わない。ご飯代すら出したくない。そう捉えてしまうのは私の過剰な思い違いなのだろうか。はたまた本気でそう思われていたのか。よくわからない。ただ1年前に一緒に食べた夕飯はめっきり誘われなくなった。今思えば、ただ遊ばれているなんてことはとうにわかっていた。恋は盲目という言葉を身をもって知ったと思う。


時間だ。そう腕時計を見た後に呟いて自分の6畳一間の部屋から出て行った。荷物は軽かった。


私が、日帰りで彼に会うのは2回目になる。初めて会った日と終わりになる今日だ。悲しさも苦しさもどこにもない。所詮捨てられる運命だと悟れるくらいには冷静を取り戻していた。大手町で半蔵門線に乗り換える。何度足を運んだだろうか。考えることすらバカらしくなる。


駅に着くと彼は居なかった。

ごめん。遅れる。歩き始めてて。そうメッセージに残されていた。

言われるがまま、彼の家の方へ歩き始める。ちょうどコンビニに差し掛かった所で彼は静かに手を振っていた。


間に合わなくてごめんね。


思ってもいない言葉を私に投げかける。寒いね。早くいこうか。そう言って、彼の家に上がり込んだ。ムスクの匂いに包まれた部屋のソファーで私たちは静かに形だけの話をした。

当たり前のようにキスをし、当たり前のように服を脱ぐ。以前、会った時から髪色は明るくなり、ピアスの穴が1つ増えた私の変化に彼は気づかなかった。最後と分かってセックスするからなのだろうか。何故だか、彼のものが異物のように感じられた。ただ天井が白く、彼の冷たい視線に酷く興醒めしてしまった。その雰囲気を察したからだろうか。だんだんと彼のやる気を感じることができなくなっていった。


もう止めようか。そう私が一言言うと、彼は何も言わずに離れていった。

なけなしの体液と活潤ゼリーが混ざり合ったせいか、興奮する要素をどこにも見出せなかったこの行為でも違和感を覚えるように濡れていた。


冷たい空間で静かに服を着る。終わりというものはなんとあっけないのか身に染みて感じられた。それと同時に、もう受け身でいることをやめなければならないと思った。


私もう帰るね。そう立ち上がると、送っていくよと私の顔を見た。

ううん。もう、何度も来たから、帰り道くらいわかるよ。そうわざとらしい笑顔で断った。


そっか。

彼はそれ以上何も言わなかった。


荷物を持ち玄関に向かってヒールを履く。そして振り向きざまに、おやすみなさい。そう一言だけ伝えた。


外を出て時計を見ると、終電で帰るはずだった時間はまだ23時を過ぎたばかりだった。もうお互い一緒にいることすら息苦しくなってしまったらしい。電車の中は空いていた。なんだか落ち着かない電車のようで、電車のアナウンスは無く、やけに静まり返っていた。地下鉄を降り、地上へ上がると、そこには降っていなかったはずの雨が降っていた。風も強く、きっと傘があっても役立たずだっただろう。ここから徒歩で帰ることが煩わしかった。だから、近くのコンビニで一人では飲みきれない量の酒を買い込み、タクシーで家に帰った。


好きな人と関係を終わらせた翌日、目が覚めると世界は白黒だった。当たり前なのだが、彼と過ごした1年、私は多くの色を知ってしまったせいでやけに白黒の世界がやるせなく感じていた。

目の前にあるピンクだったはずのカーテン、黄色のスマホケース、身の回りの全ての色を私は既に覚えてしまった。テーブルには、何本も空になったビールの缶。そして缶の隣には、賃貸にも関わらず煙草の吸殻までもしっかりと残されている。 

思い返せば、私を苦しめた色の世界に随分と魅せられていた。分からないはずの色が確信的にわかった時は経験したことが無いような気持ちになった。彼のせいで、色がない世界はある世界に比べて息苦しいと知ってしまった。知らなくて良いことを知った時の絶望と同じ苦しみを味わったのである。


終わらせることがこんなにも苦しいなんて。呆然と静かに涙が流れた。


あれから1年後、渋谷駅の改札前。私は今、社会人1年目の貴重な休みを趣味であるカフェ巡りの為に明け渡すことになっていた。趣味なのだからと言えばそうなのだが、別に仲良くもないその場限りの友達と上っ面の会話から約束してしまったことに少し後悔していた。

残業明けの眠たい目を擦りながら、化粧をするほどの元気がなく、帽子を被ってぼんやりと改札を眺めて友達を待つ。途切れることのない人の列が休日の混雑さを物語っていた。


すると、目の前を女が何かを落として通り越していった。

落とした瞬間を見てしまったことで拾わずには居られなくなってしまい、咄嗟に拾って声をかける。


あの、これ落としましたよ。


同性だからかあまり肩を触ることに躊躇は無かった。振り返ると、そこには識別できるはずのない赤色の口紅が見えた。色が見えないにも関わらず識別できたのは人生で1度しかない。あの部屋にあった赤い口紅である。咄嗟に顔を見た。


そこにいた彼女は165cmある私よりも背が高く、小洒落たブランドの今季のワンピースを着ていた。カールアイロンで巻かれた茶色の髪に見慣れた顔があった。ハーフのような顔立ち、ムクスの香水が鼻に触れた。ハスキーな声でありがとうございます。そう一言だけ伝えられると彼女は去っていった。あの声、あの匂い、間違いない。彼である。思考がうまく追いつかずにいるせいか、彼女の背中を私の目が追ってしまう。なんだか変な歩き方をしていた。あの時と同じ感覚に引き戻された。


男だったはずの彼は女として生きていた。


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