第44話 悪夢 009
「そう言えば、妹さんの件ですけど」
橙理は唐突にそう切り出す。いや、俺の考えを見透かすことができる彼にとって、その話をするタイミングは今が最善なのだろう。
「今回『
「……まあ、そんな気はしてたさ」
何事も、そこまで都合よくはいかないものだ。それでも心の片隅で抱いていた僅かな希望まで丁寧に砕いてくるとは……やっぱり、性格の悪い奴である。
「まあそもそも論の話をすれば、僕が妹さんの魂に干渉した時点で、『悪夢』の支配下からは外れているんですけどね。ですから、石島煉瓦を倒しても、彼女が助かる可能性はなかった」
クスっと笑う橙理だったが……人生、そうご都合主義に回らないことは俺でもわかる。両親の仇を殺して、同時に妹も助かるなんて――そんな虫のいい話は転がっていない。
「何が言いたいかというと、僕が『悪夢』をこの町に呼び戻したのは、実は彼を殺すことで妹さんを目覚めさせるためだった……とか、そんなお涙頂戴のエピソードではないということです」
「改めて注釈しなくていい……性格悪いぜ」
そんなことはわかりきったことだった。だって、もしこいつがそんな善良な神様だったら――俺の両親と妹は、『悪夢』の手にかかりなどはしていないのだから。
そもそも論、だ。
「これからも俺は、お前の奴隷としてカワードを殺していく。それでいいんだろ」
結局、それしかない。俺の右腕に奴のペットが住み着いている以上、奴隷契約は破棄することはできないのだし……仇を取って一段落、というわけにはいかないのだ。
「ええ、いい心がけですね。そうしていれば、いずれ妹さんのことを助けることができるでしょう」
橙理にとっては嫌味のつもりだったのかもしれないが――しかし。
石島煉瓦の能力を受け、実際に奴の悪夢を体験した俺にしてみれば……あの苦痛から妹を解放してくれたというだけで、橙理には感謝しなければならないのだ。
嫌な奴、ではあるが。
今のところ、約束は守ってくれている。
「さすがの僕も、明日からまたすぐにカワード殺しに勤しんでくれなんて言いませんから、安心してください。凛土先輩も心の整理があるでしょうし、しばらくの間『食事』は休憩にしましょう」
ゴシュジンサマはそんな風に気遣ってくれるが、その優しさは普通に怖かった。人の好意を素直に受け止められないなんてひねくれていると思う向きもあるだろうが、生憎、あいつは神様である。
誰よりも白く、何よりも腹黒いのだ。
そんな俺の疑いの眼差しを見て、橙理は手をひらひらさせる。
「いやだなあ、何も裏なんてないですよ。先輩のことが心配なだけです。僕と会ってから二カ月弱の間に、五人もの人間を殺していますから……しかもその中の一人が両親の仇となれば、メンタルケアが必要でしょう」
「何だそれ、気持ち悪りぃ」
急な優しさは毒と一緒だ。相手の意図が読めないのならなおさら。
「それにほら、来週あたり、妹さんの誕生日じゃありませんでしたっけ」
ニヤニヤ笑いながら、思い出したように橙理は言う。確かに十月九日は凛音の誕生日だが、その白々しい言い方が気にかかってしょうがない。
「特に他意はないですよ。現在の妹さんは夢をみているような状態なので、先輩が誕生日を祝ってあげればいい刺激になると思ったんです。兄妹水入らずでね。そんな時に、カワードのことが頭の片隅にでもあったら嫌でしょう?」
「……」
すらすらと気持ちのいい心遣いをしてくるが……まあ、彼の言うことも一理ある。
今の凛音は幸せとは程遠い――なら、せめて誕生日くらいは、何もかもを忘れて楽しませてやりたい。
「ということで、しばらく僕からの連絡は控えます。もちろん、四脳会が協力を要請しないよう話もつけておきますよ。凛土先輩は大手を振って、妹さんとの誕生日を謳歌してください」
ここまでくると、気持ち悪いというか心配になってくる。橙理さん、どこかで頭でも打ちました?
「ただ……先輩の穴が開いている間、少しお話をしたい相手がいるので、紹介してもらってもいいですか?」
「……紹介って言っても、俺の交友関係なんて高が知れてるけど」
「友達の少ない先輩でも紹介できる相手ですから大丈夫ですよ」
自分で言う分にはいいが、人に言われると腹が立つな。
しかし、俺が紹介できる人物となると――必然、選択肢は数人に絞られてくる。その中で、橙理が興味をもっている相手は、あいつしかいなかった。
「立花日奈さん……『
案の定、立花のことだったか。
『曲がった爪』に襲われて菱岡中央病院に入院した彼女は、たまたま凛音のいる地下病棟への侵入に成功している。その手引きをしたのは、目の前でほくそ笑んでいる神様なのだろう。
「どうして立花に興味をもったんだ? どこにでもいる普通の女子大学生だと思うけど」
言いながら、あいつが女子大学生のスタンダードと定義するのは無理があると自分でも思う。立花日奈の変態的なまでの知的好奇心と、それに付随する自制心のなさは――異常と言ってもいいレベルだ。
「カワードに対して恐怖を抱かないというのが、まず土台として素晴らしいですね。実際に『曲がった爪』から被害を受けているにも関わらず、彼女は全く恐怖心を持っていない。少なくとも常人とは一線を画しています」
橙理の主張は、俺の予想と概ね合致する。しかし神様にここまで言わしめるとは……立花日奈、中々やる女だ。
「ですがもっと重要なのは、彼女の中に『曲がった爪』の残滓があることです。極稀にこういったことが起きるんですが、その意味で立花さんは貴重な人材と言えます」
えらく愉快そうに笑う橙理だった……『曲がった爪』の残滓、か。
その言葉の意味するところは俺にはわからないが、橙理が興味をもつには充分な要素なのだとしたら――立花はまた、随分と厄介なものを宿してしまったらしい。
「……紹介するのはいいけど、あいつを危険なことに巻き込まないでやってくれよな」
元々、立花の方からも天津橙理を紹介してほしいと打診があったのを思い出す。両者が互いに会いたがっているのだから、俺が無理に止めるのは余計なお世話だろう。
だが、相手はただの人間ではなく、神様なのだ。
一体どんな心づもりでいるのかわからない――釘くらいは刺してもいいはずである。
「もちろん、僕から危険に巻き込むことはしませんよ。向こうが望めば、それはわかりませんが」
含みのある言い方ではあるが、そこを追求しても仕方がない。どうせ、俺には何も教えてくれないのだろうし。
「手配の程よろしくお願いしますね、凛土先輩。僕が直接
「……わかった。立花の都合がつく日時に、話つけとく」
彼女とはきちんとした別れ方ができないままだったし、機嫌を取るためにも早めに連絡を入れることにしよう。俺の部屋に招待するのは先のことになりそうだが、天津橙理と引き合わせればトントンの穴埋めになるはずだ。
「では、凛土先輩。しばしの間の休息を。妹さんによろしく言っておいてください」
話したがりの橙理にしては珍しく、そんな風に彼の方から締めくくりにくる。まあ俺もこの場に長居はしたくないので、空気を読んでさっさと出ていくことにしよう。
「じゃ、またそのうち」
俺は真っ白な部屋を後にする。後ろ髪を引かれることもなく、しっかりとした足取りで。
「……」
存在しない第四研究棟から外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。生憎の曇り空は星明りを遮断し、一瞬帰り道がわからなくなる。
「……」
進むべき方向を確かめながら、俺はゆっくりと歩き続ける。
復讐を終えて生じていた、言葉にできない鬱屈とした感情は――気づけばぼんやりと薄らいでいた。
獣に魂を喰い換えられた叶凛土からは、憎しみも怒りも悲しみも――すっぽりと抜け落ちてしまったらしい。
あるいはその負の感情ごと――あいつに喰われてしまったのか。
……だとしたら、それは都合がいい。
人生、都合よく回ることもあるもんだ。
だって俺はこれから――楽しい楽しい妹の誕生日会の予定を、立てないといけないのだから。
いらない荷物は、捨てていくに限る。
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