第40話 悪夢 005
細く暗い階段を下り切り、地下病棟へと足を踏み入れた瞬間――全身を覆う寒気に襲われる。
自分は異常者なんだと割り切っても抗えない、脳が揺らされ内臓を引きずり出されるような感覚。
恐怖。
頭のネジが一本や二本外れたくらいじゃどうしようもない。脳に埋め込まれた本能というプラグを引っこ抜かない限り、到底克服することなんかできやしねえ。
「……」
それでも、歩みを止めるわけにはいかないのだ。この奥には例のカワード――『
俺は少しずつ確実に足を前に進める。気を抜けばその場に倒れちまいそうな程神経をすり減らしながら、頬に伝う冷や汗を拭うのも忘れ、にじり寄っていく。
妹の――凛音のいる病室を目指して。
「……っ」
自分の鼓動が痛い。
自分の呼吸が聞き苦しい。
どうしてこんなに恐怖を感じるのか、納得のいく説明が思いつかない。今までだって生死の境を彷徨うことはあったし、なんなら何度か死んでさえいるのに。
経験したことのない質量の恐怖が、心の内から溢れ出る。
「……」
そして気づく――俺に冷静さを与えてくれていた怒りの感情が、なくなっていることに。
今現在、叶凛土の全てを支配しているのは。
純粋で混じりけのない――恐怖心だけ。
「はぁっ、はぁっ……」
コワイ、ユルシテ、ゴメンナサイ。
コワイ、ヤメテ、コワイ、ドウシテ、コワイ、ニゲタイ、コワイ、ナンデ、コワイ――。
びちゃ
粘性のある何かを踏む。
手をついていた壁がぬるっと滑る。
視界が赤く染まっていく。
【見覚えのあるココが獣の内側だと理解するのに、時間はかからなかった。丁寧に咀嚼された俺はぐちゃぐちゃの意識を飲み込まれ、地獄と形容した方がマシと思える場所に流し込まれたらしい。食道や胃や腸なんていうありきたりな消化器官ではなく、食べたものを一緒くたにしてドロドロに溶解する魂の牢獄。あいつに喰われた後は、いつもこうやって精神を蹂躙されるのだ。ドクドクと脈打つ周囲の肉壁が獣の生を伝え、形を失っていく意識が自分の死を教えてくる。ああ、いつのまに俺は――】
「ようこそ、悪夢の世界へ」
聞き覚えのない声に、無理矢理意識を覚醒させられる。
目覚めたついでに周りを見れば、血に濡れた赤い壁――不安定に脈打つその様は、控えめに言ってグロテスク。
明らかに現実ではない周囲の光景に、不思議と違和感はなかった。なぜだか知らないが、妙に見覚えがある気がする。
しかしまあ、ついさっきまで菱岡中央病院の地下病棟にいたはずなのだが……どうやら、いきなり訳の分からない空間に投げ出されてしまったようだ。
「君が、叶凛土くんか」
耳障りの悪いザラザラした声色。不快指数を限界まで引き上げてきやがる音の方を見ると――不気味な雰囲気を纏う、長身の男が立っていた。男は黒い影が意志を持ったような佇まいで、ゆらゆらと存在自体が不吉に揺れている。
「……そうだけど。あんたは誰。で、ここは一体どこ」
「俺は石島煉瓦。ここは悪夢の世界だ」
男は端的に質問に答えた。先程意識が朦朧としていた時に聞こえた声も、確か悪夢の世界とか何とか言っていたな……っておい。名前の方、めちゃめちゃ聞き覚えしかない。
「あんたが、『悪夢』なのか?」
あまりにも唐突な登場の仕方に、こちらも心の準備ができていなかった。いやまあ、客観的に状況だけを見れば、この上なくトリッキーでインパクトのある光景ではあるのだが。
「そう、俺が『悪夢』だ。君に会うのは初めてだが、君の親族のことはよく知っているよ」
バチッと、
耐えがたい激痛を押し殺して覚醒した獣が、石島煉瓦を貪るために顎を開く。
「……本当に、よくできた獣だ。俺たちのような紛い物とは違う、本物の芸術作品だな」
奴は俺の右腕を見て、そんな独り言を漏らす。
その表情をはっきりと読み取ることはできないが、どこか諦めたような、遣る瀬無さを感じさせる目をしていた。
「今からあんたのことを殺すけど、別にいいよな。そっちは三人、手にかけてるんだから」
俺は石島を見据える。空腹で震える獣を制御する必要は、最早ない。精々気の向くまま「食事」をしてもらおう。
「三人か。正確にはまだ二人だがな……君も知っているように」
俺に殺すと言われた石島煉瓦は少しも動じず、淡々と呟いた。眼前の真っ赤な空間はもちろんだが、奴の冷静過ぎる程落ち着いた態度も、異常な状況を加速させる。
「……あんた、病院の人間全員を手にかけてまで、ここで何をしようってんだ」
答えてもらえるとは思わないが、俺は『悪夢』に質問をする。カワードの行動に理由を求めても空しいだけだというのはわかっているが、それでも訊かずにはいられない。
お前はこの地下病棟に、何をしに来た?
凛音に――何をするつもりだ?
「ここ……という表現はすでに適切ではなくなったと訂正しておこう。君はあの病院の地下から、悪夢の中へと引きずり込まれたのだから」
言いながら、石島はズボンのポケットから球状の何かを取り出す。その何かはどう見ても衣類のポケットに収まる大きさなんかじゃなく、ここが非現実的な世界なのだと嫌でも再認識させられる。
奴は取り出したソレを、こちらに向けて放った。
べちゃっと生々しい音を立て、肉でできた床に落ちたソレは、俺の足元まで転がってくる。
その球状の物体が、人間の頭部だと理解するのに数秒。
その人間が俺の妹――叶凛音だと同定するのは、一瞬だった。
「……っ⁉」
力なく転がる凛音の頭部は、つま先にあたって停止する。彼女の開くはずのない瞳は大きく見開き、しっかりと俺の両眼を捉えていた。
「信じてるって言ったのに、お兄ちゃん」
凛音ははきりとその口を動かし。
そして、赤く塗れた床に沈んでいく。
ボトッ
天井から、何かが落下してくる音。
気づけば――俺の周りに、凛音の頭が無数に降り注いでくる。
「――! っ、おえっ――」
喉をせり上がってくる吐き気を抑えられず、その場に膝をついて嘔吐してしまった。
これがまやかしだと――奴の異能によって作り出された悪夢だとわかっていても。
魂を擦り潰されるような痛みが、俺の全身を貫く。
耐えがたい苦痛――あの獣に咀嚼されるのと同等の激痛が、しかし比にならない長さで俺を襲い続ける。
胸を掻き毟りながら痛みに抗うが、次第に目の前が黒く霞んでいくのに気づいた。
このまま瞼を閉じれば楽になれる。意識を落とせば、この苦痛は止む。
そんな確信と諦めの感情が――叶凛土の魂を包み込もうとしていた。
「これが俺の能力だ。相手を眠りに落とし、その魂を悪夢の世界へ引きずり込む――耐えかねた者は苦痛から逃れるために、自ら命を絶つことを選ぶ」
遠くから『悪夢』の声が聞こえた。
その声色は、今までのような淡々とした抑揚のないものではなく。
心底嫌気がさすくらいに――楽しそうな。
悪魔みたいな、笑い声だった。
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