第39話 悪夢 004



 俺は橙理からの電話を切り、その場から走り出した。立花にはぞんざいに別れを告げてしまったので、今度埋め合わせをしなければ。


 その今度が俺に訪れるかは、わからないが。


 とにかく全速力で走り続け、大通りでタクシーを拾い、行き場所を運転手に告げる。


 菱岡中央病院。


 『悪夢ブラックカーペット』が向かっているという、その場所に。



「……」



 タクシーに揺られること約十分。

 俺は菱岡中央病院の前まで辿り着いていた。


 道中、一応江角さんに連絡を入れた。案の定四脳会が着くまで何もするなと言われたが、その忠告は無視させてもらうしかない。

 彼女の気遣いはありがたいし、本当なら俺がしゃしゃり出る問題でもないのだろう。『悪夢』に恨みをもつ人間は大勢いて、叶凛土はその中の一人にすぎないのだから。


 だが。


 右腕の唸りを止められない。

 溢れる怒りを止められない。

 零れる憎悪を止められない。

 滲む悲哀を止められない。


 遺族を代表してとか、人類のためにとか、そんな大仰なことは言うまい。


 俺の中にあるのは――ただの復讐心。

 両親を殺され、姿にされたことへの、切実な復讐心。


 俺は今、一線を超えようとしている。

 叶凛土がぎりぎり人間であるために引いていた境界線――その向こう側へと、足を踏み入れる。


 妹のためでもなく、橙理に命令されたからでもなく、使命も信念も何もなく。


 俺はただ――殺したいから人を殺す。


 『噛み殺しハウンド』、叶凛土として。

 カワードとして――石島煉瓦を喰い殺す。



―――――――――――――――――



 病院内の異常に気付くのに、そう時間はかからなかった。中央玄関から中に入ると、そこには一つの人影も見えなかったからである。


 いや、正確に言えば――人影はあった。


 だが、を瞬時に人間として捉えることが難しかったのである。なぜなら、その人たちはロビーの床やソファの上に力なく横たわっていて。


 体の一部が、欠けていたのだから。


 ある人は掌が。

 ある人は足の先が。

 まるで最初から存在しなかったかのように――欠けてしまっていた。



「……」



 その酷く歪んだ光景に、俺は不思議と動揺しない。以前叶邸で起きたあの惨劇――その焼き直しのようなシーンを見て、心は冷静になっていく。


 怒りが、俺の脳内を平常心にする。


 数十人、病院全体を含めれば数百人の人間が、『悪夢』の手によって眠りに落ちているのだろう。そしてその副作用として、体の一部が欠け始めている。このまま放っておけば、いずれ俺の両親のように全身が塵と化し、命が完全に潰えてしまう。


 どうやら前回の事件よりも大暴れしているようだが……その目的は何だ? ここまで派手に騒ぎを起こせば、絶対に四脳会からは逃れられない。現に、菱岡市に戻ってきたことはバレているのだし。


 地下病棟に向かっているという橙理の話を信じるとして、その先にいるのは俺の妹――叶凛音だけである。ならば、凛音に用があると考えるのが自然だろうか。だとしたら一体……。



「……」



 いや、あいつの目的なんてどうでもいい――何もかもどうでもいい。


 『悪夢』がこの場から立ち去る前に、その全身を余すところなく喰い尽くす。そのために、俺はここにきた。



「……」



 俺は通い慣れた道を進み、地下病棟を目指す。途中、懐かしの立花の病室の前を通ったが……今考えると相当運のいい奴だ。今朝退院できたことで、この惨状に巻き込まれずに済んだのだから。



「……」



 ここまでの規模で被害が出ているとなると、四脳会以外にも異変に気付く人たちが出てくるに違いない。だとすればできるだけ迅速に、事を済まさなければならない。余計な横やりが入っては面倒だ。



「……」



 俺は照明の落ちた暗い廊下を進み、一見行き止まりの壁までやってくる。そっと手をやると、壁は待ってましたとばかりに奥へと動いた……うん、すでに鍵が開いていやがる。ということは、『悪夢』はもう地下病棟に着いているはずだ。


 凛音の見舞いに来るときに感じる緊張とは全く種類の違う緊張が、脳からつま先までビリっと走り抜ける。この扉が肉食獣の口で、その奥が死へとまっしぐらな口腔内。ああ、正常な人間なら確実にここで引き返す。



「……」



 だが、俺の精神はとっくに正常の閾値を超えていた。進んで人を殺そうなんて考えている奴は、総じて頭のネジが外れているのだ。


 人を殺すのには、覚悟が必要で。

 十字架を背負わなければならないと、そう思っていた。


 しかし、いざ心の赴くままに殺人を企てると――これが中々どうして嫌な気分ではない。俺が罪悪感をもって喰らってきたカワードたちもこんな心持だったのかもしれないと思うと、あいつらの卑怯さが際立ってくる。


 『落下傘フライハイ』、錦戸にしきど洋二ようじ

 『灰の男ブルーカラー』、つつみせん

 『曲がった爪ネイリスト』、東雲しののめ妃花ひめか

 『巨獣モンスター』、周防郷。


 理由も覚悟もなく人殺しができる彼らのことを――許しはしないけれど。

 俺もしっかり、あいつらの仲間入りを果たすらしい。


 復讐なんていうのは、殺人の理由にはならない――そこで自分を甘やかすことはしまい。

 だから、しっかりと、受け止めよう。


 叶凛土は今この瞬間から――カワードになったと。



 俺は階段を下りる。



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