第35話 回転回想 003



「願いを……叶える……?」



 何を言っているんだ、あいつは。奴隷になったら? それに、神様だって?

 俺の置かれているこの状況――大学に存在しないはずの白い建造物、物理法則を無視して広がる「六十四研究室」。


 そして、目の前で怪しく微笑む真っ白な青年。


 全ての事象に文句なく説明をつけるには、天津橙理と名乗る彼が神様だと考えるのが妥当かもしれないが……そんな暴論をいきなり信じろと言われても無理がある。



「その目、僕が神様だと信じていないって顔ですね。心外だなあ」



 俺の顔を遠巻きに覗き込みながら、彼は不満を漏らす。いや、こっちが悪いみたいな態度を取られても困るんだが。



「えっと……天津くんが神様っていうのは、どういう意味?」



「やだな、橙理って呼んでくださいよ、凛土先輩。水臭いじゃないですか」



 俺と彼の間には関係性なんてものは一ミリもないのに、下の名前で呼ぶことを促された。それを断る理由はないが、随分とフレンドリーな自称神様である。



「……じゃあ、橙理。お前が神様っていうのはどういう意味なんだ? それに、願いを叶えるっていうのもわかんねえ」



「言葉通りの意味なので、あんまり疑問を持たれても困るんですけど……そうですね、まずは僕が本物の神様だということを信じてもらいましょうか」



 言って、橙理は座ったままの姿勢で右腕を前に伸ばす。そして、ソファの上に置いていたらしい大きなナイフを左手に持った。



「お、おい」



 物騒なものを取り出して何をするのかと身構えていると――彼は何の前置きも躊躇いもなく、


 ボトッと、天津橙理の右腕が力なく床に落ちる。



「なっ⁉」



 あまりの出来事に体が強張る。今日はいろいろ驚きの連続だったが、その全てを凌駕する程の衝撃だった。いやまじで、こういうグロ耐性ないんだって。


 俺の動揺に対し、腕を切り落とした張本人は笑顔のままである。右腕の肘から先を切断したあの野郎は、何事もなかったかのように姿勢を崩さない。


 白い部屋に飛び散る赤色は、その傷が偽物ではないことを示していた。断面からドクドクと流れ続ける鮮血は、あの華奢な体を絶命させるに充分な量の血だまりを形作る。



「お、お前……何してんだよ、一体」



「心配してくれてるんですか、凛土先輩。優しいですね」



 心配っつーか引いてるんだよ。

 あんな凶行に及んだ心理が全く分からねえ。意味も分からず行われる暴力行為は、例え自分が標的でなくとも恐怖の対象だ。それは根源的な人間の本能、獣の名残。



「ふふっ。そんなにびっくりしてくれると、腕の切り甲斐があったってものですね」



 橙理は満足そうに、自分の血が付いたナイフを舐める。あーその表情、目を逸らしたいのに逸らせない。危険を避けるはずの本能が矛盾する感覚。



「……っ」



 彼の所作に目を奪われていると、その目線の下の方で何かが蠢いているのに気づく。それは先程、橙理の体から切り離された右腕。ただの肉の塊と化したはずのその腕が、と脈打ち始めやがったのだ。


 死後に筋肉が軽く痙攣するなんていうのは、魚などでよくあることらしい。だがそんなちんけな現象を嘲笑うかの如く、右腕は大きくビクつき始める。魚で言うなら、丁度吊り上げられたばかりで漁船を跳ね回るように――切り落とされた右腕が、激しく動き出す。



「おいで。『飼い犬ハンター』」



 不意に橙理がそう呼びかけると、痙攣する右腕の皮膚が破け、中から白い糸状の何かが現れた。無数に這い出る糸は、右腕を包み込みながら大きさを増していく。


 白く覆われた右腕は、次第に一つのカタチを形成する。


 最初にできたのは、頭部と思われる部位。

 次いで、前に二本、後ろに二本の脚部。


 その姿は――四足歩行の獣を思わせた。



「これが僕のペットです。以後お見知りおきを」



 そう言う橙理は、獣の頭を撫でる……っておい。その右腕、一体どうした?


 主人に撫でられ、獣は嬉しそうに鼻を鳴らす。そののっぺりとした顔面からは、生気なんて微塵も感じられない。落ち窪んで底の見えない眼は、そんなはずはないのに、俺をじっと見据えているようだ。



「どうですか、凛土先輩。これで僕が神様だって信じてもらえましたか?」



 急に切り落とされた右腕。それが見たこともない真っ白な獣になり、当の本人の腕はしっかり再生している。部屋中に飛び散っていた血液もいつのまにか消えていて、残ったのは真っ白な人と獣……確かに、超常的な現象と言わざるを得ない。



「……まあ、お前がとんでもない力を持っているってのはわかったよ。でも、だからってイコールで神様にはならないっていうか……」



 そう、神様なんて荒唐無稽な存在よりももっと身近な異能者たちを、俺は知っている。


 カワード。


 奴らについて詳しいことはわからないが、を引き起こせるような人外たちなら、こんな非現実的な荒業もこなせるだろう。



「なるほど……僕をあんな低俗な輩たちと一緒にするとは、いい度胸ですねぇ、先輩」



 どうやら怒りのトリガーに触れてしまったらしい。天津橙理は顔こそ笑っているものの、その色素の薄い瞳でこちらを睨んでくる。同時に、彼の足元で寛いでいた謎の獣が、首をこちらに向ける。やべー、まじで怖い。



「全く、あんなが増えた所為で、本業は商売あがったりですよ……でしたら凛土先輩。あなたの悩みをズバリ言い当てましょう。神様らしく、人間の苦悩に寄り添おうじゃありませんか」



 橙理は得意気に、人差し指をピンと立てる。いつの間にか再生していた右手で。



「まずは軽いジャブから……あなた、今日死のうとしてますね」



「……」



 本当にズバリ言い当てられてしまった。今朝起きてから今に至るまで、俺は誰とも言葉を交わしていない……必然、俺が自殺しようとしていることは、この世の誰も知りようがない。



「……なに、メンタリズム的なやつとか? 俺の表情を見て、死にたがってるのがわかったとか」



「あなたの顔はいつもそんなんじゃないですか。そんなことを言い出したら、常に死にたがっていることになりますよ」



 さらっと傷つくことを言いやがる。まじで神様なら、悩んでいる人間に優しくしろ。



「さて、では本命の悩みですが……妹さん。叶凛音さん」



 橙理は、今日一番の意地の悪い笑顔を浮かべる。自分が神様だと信じてもらいたいなら絶対にしちゃいけない、悪魔みたいな笑顔を。



「あなたは、。その身が崩壊を始め、頭部以外が塵と化していった妹のことを、救いたいと願っている。『』と言ってくれた妹のことを、全てを投げうってでも守りたいと願っている」



「……」



 ズキンと心臓が痛む。奴の言っていることは全部が全部本当で、そこに一つの誤魔化しもない。カウンセリングとかメンタリズムとか、そんな小手先の技術で心を読んでるんじゃないと、直感で理解させられる。


 それ程までに、天津橙理の言葉は俺の胸の奥へ入り込み。

 ああ、こいつは神様なんだと――叶凛土の全てで実感させられる。



「……お前なら、その願いを叶えてくれるのか」



 気づけば。

 俺は自然と、賽銭箱に小銭を投げ入れるように、橙理に話しかけていた。

 心の中で、縋ってしまった。


 どうか、どうか俺の願いを、叶えてください。

 妹を、助けてください。



「もちろん。僕は神様ですから。ただし、願いを叶えるには対価を払ってもらう必要があります」



 俺の心の内の懇願をも見透かしているのだろう――橙理は待ってましたとばかりに言い放つ。



「……対価ってのは、金か?」



「金……? ああ、あんなものゴミと同じですよ、ゴミと」



 対価と言われて最初に思い付いただけなのだが、随分な物言いだ。まあ奴が神様だというのなら、現金なんてクソの役にも立たないのだろう。


 少し間を置いて、思い出す。

 先刻、腕を切り落とす前に聞いた、橙理の言葉を。


『僕の奴隷になるなら、あなたの願いを叶えてあげますよ』


 確かに、そう言っていた。



「そう、対価はあなた自身です、凛土先輩。あなたは僕の奴隷となって――『飼い犬』と共に、カワードを殺してください」



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