第30話 巨獣 004



「あぶねえ! 叶くん!」



 渚さんの声が届くのとほぼ同時に、俺の頭上に黒い影が落ちる。それが何なのか視認する前に、とんでもない衝撃を受けて体が横にすっ飛ばされる。


 どうやら、危険を察知した彼女が横から突き飛ばしてくれたらしい……そのことを認識できた頃には、俺の体はゴロゴロと転がって大木にぶつかっていた。



「……っ!」



 見れば。


 先程眼球を拾った場所に、肉塊が落下していた。


 その物体を、何らかの名称をもって表現することは酷く難しい……だって、俺はあの塊を見たことがないのだから。自分の知識外の未確認物体を見た時、人間の思考はこうも固まるのかと思い知らされる。


 大きさは大小さまざまで、縦横二メートル程度のものから掌サイズのものまで――肌色の肉塊が雨のように



「くそがっ!」



 身を挺して肉塊の落下から守ってくれた渚さんは、その雨の中心で華麗に身を躱す。とても片腕とは思えない銃捌きと体捌きで、落ちてくる塊を蹴散らし続けていた。



「……」



 あの物体たちはどこからどうやって降ってきているのか、上空に目をやる。

 背の高い木々の向こう……ぼんやりと、しかしが、そこには蠢いていた。その謎の根源は重力に反するようにゆっくりと下降していき、肉塊を散らしながら段々と地上に近づいてくる。


 そして、渚さんの元へと落下した。



「……!」



 上空から徐々に落ちてきた肉塊の大本は、その醜悪な姿をあらわにする。


 直径十メートル程の球状に近い体躯。その表面は人肌のような質感で、さっきまで降ってきていた塊のそれと酷似していた。所々に流血したような赤色が見え、全体はドクドクと小刻みに顫動を繰り返している。まるで生きている心臓に人の皮を被せたようなは、およそ生物と呼べる外見的特徴を有していない。


 まして、それが人間だなんて。

 そんなこと――思えるはずがなかった。



「叶くん! 走れ!」



 肉塊本体の落下を避けるために大きく移動していた渚さんは、そんな風に大声を出す。走れ、ということは、この場から逃げろということだろうが……一体何から逃げるんだ。

 俺が状況を飲み込めずにいると、目の前の肉塊が一際大きく脈動する。


 そして、ブチッという生々しい音を立てながら皮膚の一部が破け、そこから鮮血と共に



「……っ⁉」



 その突拍子もない攻撃に即座に対応できるわけもなく――俺は水圧を感じる程の血液と無尽蔵な腕の濁流に飲み込まれ、さながら氾濫した川に流されるが如く勢いよく飛ばされる。



「がっ……ごぼっ……」



 駄目だ、息ができねえ。全身が木や地面にぶつかって鈍い痛みを感じ、このままでは死んじまうという嫌な予想がクリアに脳内を埋め尽くす。


 状況は未だに把握できてないが、これは確実に意志を持った俺への攻撃だ……なら、できることは一つしかねえ。一か八かだこん畜生。



「がうんごっ(『噛み殺しハウンド』)!」



 俺は右腕の獣を呼び起こす。息はできないわ全身滅多打ちだわで、どうしようもなくボロボロなのに、獣が生まれる痛みは少しも掠れることなく俺の精神を蝕む。


 真っ赤な濁流の中で異質に輝く真っ白な獣の頭は、一瞬の躊躇いもなくその口を開き、血液の流れそのものを喰らった。


 一気に大量の質量を持っていかれた血液の川は俺を避けるように上下左右に散り、その隙をついて全力で安全そうな場所まで転がる。



「いってえなあ、おい」



 ふらふらと立ち上がりながら辺りを見渡すが、渚さんの姿は見えない……大分流されてきてしまったようだ。俺を押し流していた血液と腕まみれの川は今なお流れ続け、非現実的な光景に眩暈がする。



「……」



 俺は渚さんと合流するために川を逆に辿る。道中、地面に転がっていた腕を拾い上げてみたが……うん、完全に人の腕じゃないですかーやだー。

 それは右腕だったり左腕だったり、大きさもばらばらで法則性は感じられなかったが、どれも本物だ。現に俺の右腕ちゃんが美味しそうに喰らっている(助けてくれたご褒美だ)。


 それにしても、さっきの肉塊はなんだったんだ……いや、頭では結論がとっくに出ているのだが、それを認めたくない自分がいる。


 恐らくあの巨大な塊が、俺たちが追っていた周防郷なのだろう。

 『巨獣モンスター』、か。


 想像してたよりも数段人外で、数倍グロテスクな奴だった……あれは確かに、野放しにはしておけない。こんな山の中にいてくれるから被害が出ていないだけで、あんな攻撃を市街地でやろうもんなら人死には片手じゃすまないだろう。


 俺は早足で山道を進む。渚さんのことだ、まさか負けているなんてことはないだろうから心配はしていないが……しかし、あの大きさの物体にどうすれば勝てるのかというのも甚だ疑問ではある。


 そもそも、『巨獣』は生きているのだろうか。そりゃもちろん広義の意味では生きているのだろうが、もっと狭義なところで――周防郷の魂は、あの物体に宿っているのだろうか。俺に対して繰り出されたあの腕と血液の放出も、よくよく考えればある種の反射のようでもあったし、そこに彼の意思が介在していたかはやっぱり怪しいもんだ。


 もしあの肉塊が魂のない空っぽの器なのだとしたら、正直、幾らか心が楽になる。俺や渚さんが手を下すまでもなく、周防郷は死んでいることになるのだから。まあ、あそこまで荒唐無稽な姿形をされてちゃ、魂があったところで人間とは認識できそうもないのだが。


 そう考えると、やはり俺の感じる罪の意識なんてちっぽけなものなんだと思う。殺す相手の外見に左右されるなんて、薄っぺらいにも程がある。犬猫を食べるのはかわいそうだが、牛や豚なら何とも思わないってのと本質的に変わらねえ。そんなレベルの悩みだから、渚さんに笑われちまうのだろう。


 俺は悠長にもそんな思考を巡らせながら、肉塊のいる場所へと向かう。流れ出している血液の量は減っていき、『巨獣』の元へと近づいていることを示唆していた。


 そして、目的の場所まで戻ってくると。



「……まじか」



 肉塊に魂があるのかとか、外見がどうこうとか、考えるだけ無駄だったらしい。


 俺が目にした光景は、数十人はいるかと思われる大量の全裸男と。

 その男たちを次々になぎ倒していく、渚美都の姿だった。


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