第24話 痛みと淀み 001
またあの痛みだ。
このまま死なせてくれた方がどんなにいいかと、そう思わずにはいられない苦痛。
それは身体的な痛みではない――俺の体は死んでいるのだから、痛覚なんて存在しない。
だからこれは、魂の痛みだ。
その魂を、無残にも喰い漁られる痛み。
この世に存在する全ての精神的苦痛を足しても、到底及ばぬ果てのない絶望。
そんな悲痛が、俺の意識を無理矢理に覚醒させる。
白い獣が、下品に涎を撒き散らしながら、俺の下半身を食べていた。
相変わらずこいつは行儀が悪い……主人の躾がなってねえ。
ゴリゴリと骨を砕かれ筋肉を咀嚼されながら、いつの間にか獣は首から下までをたいらげる。
冷静に俯瞰して見ているが、そうでもしないと、発狂して泣き出し喚き散らかしてしまいそうなのだ。
コワイ、イタイ、ヤメテ、クルシイ、シニタイ、コロシテ、コロシテ
叶凛土くんの魂が悲鳴を上げやがる……だめだ、いくら喰われても、喰われ慣れるなんてことはありそうもない。
獣に食されるという、被捕食者としての純然たる本能による恐怖と。
魂を咀嚼されるという、人間の根幹を否定する倫理の拒絶。
ああ、だから死ぬのは嫌なんだ――俺はこれから、絶命するびにこうして喰われ続けなければならない。
それが、俺が神様と交わした契約。
妹の――叶
対価なのだから。
―――――――――――――――――
2020年、八月二日。
俺の住む
犯人の名前は、
『最悪の世代』の一人、『
被害者の数は二十名以上に上り、カワードの引き起こした事件の中でも相当な規模である。大抵の場合、そこまでの被害が出る前に
あの事件は、タイミングが悪かった。
詳しくは知らないが、なんでも同時期に別の場所でカワード関連の事件が起きていたのだという。大方、今年の八月一日に誕生した奴らが暴れたのだろうが……四脳会の人員の多くは、そっちの事件に駆り出されてしまっていた。
だから、間が悪かったのだ。
『悪夢』は四脳会の目に触れることなく、粛々と大量虐殺を行い――そして忽然と姿を消したのである。
彼の目的が何だったのかは知る由もないし、知りたくもない。
だが事実として。
二十名を超す被害者の中に、俺の両親と。
妹――叶凛音がいることだけは、確かだった。
……タイミングという話なら、本当に偶然、俺は難を逃れたことになる。あの日、八月二日は、柄にもなく高校の同級生と朝まで飲み明かしていたのだ。久しぶりに会うメンツと酒を酌み交わすのも存外悪くはないななんて呑気なことを考えながら、始発に揺られて薄明りの中を歩いて、家路についたのだが。
そんな俺を待っていたのは、静寂だった。
早朝のことだ、誰もが就寝中で静かなのは当然である。
だが、それでも。
駅から住宅街へ、住宅街から自分の家へと、若干の違和感を覚えつつも歩いていき、玄関をくぐった時――違和感は確信へと変わった。
嫌な予感は、嫌な実感へと変貌した。
全身が総毛立ち、冷たい舌で背中を舐られたような寒気。
本来は安心できるはずの我が家のリビングで、俺は死の危険を感じることになる。
それはまるで、巨大な獣のポッカリ空いた口腔内にいるような、そんな恐怖。
獣の気まぐれ一つで、呆気なく生命を奪われてしまう、理不尽な恐怖。
俺はその恐怖の対象に、静かに近づく。息を殺し、これが悪い夢であってくれと願いながら、一歩一歩進む。
しかし、目の前の現実は変わらなかった。いくら俺が念じたところで、起きてしまった事実を捻じ曲げるなんて、そんな荒唐無稽なことはできるはずがなかった。
だって俺は、神様じゃないから。
「……」
この家に引っ越してきてから十数年、一家団欒の場として日夜活躍していた食卓。
そこに、仲睦まじい家族が三人。
両親と、妹。
しかし俺は、食卓に近づくまで、その三人を人間として認識できなかった――なぜなら。
両親は、首から下が綺麗さっぱり消え失せていて。
妹は、右腕と右脚が無くなっていたからだ。
そこにあったのは、人の頭部が二つと、欠けた人間もどきだけ。
「……っ」
朝まで飲んでいた酔いはすっかり醒めたはずなのに、俺はその場で激しく嘔吐してしまった。リビングで吐いたなんて知れたらまた凛音にどやされちまうと思いながら、ああ、その彼女はもう二度と目を覚まさないんだと、嫌に冷静に考える自分がいる。
胃の中は空っぽになって、もう出すものなんてないのに吐き気は止まらなくて、俺はうずくまりながら何度も嗚咽した。
呼吸をしていたのかすら怪しい。ただひたすらに、現実逃避をするかの如く吐き続け、吐けなくても吐き続け……気がつけば、病院のベッドの上だった。
なんでも、連絡なく欠勤した父を心配して、わざわざ職場の人が家を訪ねてくれたらしい。そこであの惨状を目撃し、警察と病院に知らせてくれたのだ。
真面目に働きあげていた父に感謝しかない……その通報がなければ、事件が発覚するのはもっと後のことになっていただろう。あの家の中を見ることになってしまった方には、若干の申し訳なさがあるが。
とにかく、それ程までにひっそりと。
静寂に包まれたまま、『悪夢』は二十人以上の命を奪っていったのだ。
事件から数日後。
全てを諦め、廃人のようにすごしていた俺の元へ、あの真っ白な神様が現れる。
その悪意のこもった瞳を爛々と輝かせながら、あいつは怪しく美しく笑う。
『僕の奴隷になるなら、あなたの願いを叶えてあげますよ』
……意識が目覚める気配がする。助かった、あいつとの初対面エピソードを思い出さなくて済みそうだ。
俺はゆっくり瞼を開ける。目覚めた先は、どうせあの嫌味なくらい真っ白な六十四研究室なのだろう。
そして中央のソファーで、同じく嫌味ったらしい神様が、こっちを向いてほくそ笑んでいるはずだ。
……まあいいさ。俺もいい加減死に過ぎた、毎回毎回驚いていたら男が廃るってもんだろう。
ここは一つ、派手に起き上がってあいつの度肝でも抜いてやることにしよう。
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