第16話 眠り姫 003
「あ、凛土くん、やっほー!」
「……やっほー」
六十四研究室で
そんな憂鬱な気持ちを吹き飛ばすかのように、ベッドの上の彼女――立花日奈は元気一杯だった。
「なに。重症だって聞いたのに、随分平気そうじゃん」
この病院で済ませる用事の一つが立花の見舞いだったのだが……こんなに元気そうなら来なくてもよかった。むしろ損した。見舞いにきた人物を損した気持ちにさせるとは、中々やる女である。
まあ、昨日知り合ったばかりの浅い関係とは言え、一応俺の不注意で怪我をさせてしまったわけだし……見舞いに来るのは人として当然なのだろうけど。
「こう見えても結構痛くてしんどいんだけどねー。ま、名誉の負傷だから、後悔はしてないよ……。凛土くんは、あの後大丈夫だったの? 『
立花は矢継ぎ早に質問してくる。まあ、そりゃ気になって当然か。
しかし、ここまではっきりと会話ができるとは思っていなかったので、俺は『曲がった爪』に関するあれこれを誤魔化す話を考えてきていなかった。アドリブでいくしかない。
「えっと……立花が意識を失ってすぐに、
うん、我ながら筋が通っている。嘘を信じ込ませるには、少しの具体性と若干の真実を混ぜ込めばいい。今回は江角さんの名前を借りることにした。
「ふーん……。何だか出来すぎてて嘘っぽいけど、まあ信じるわ」
俺の作り話はお気に召さなかったのか、立花は事も無げにそう呟く。あれ、全然騙せてない?
「……それよりも、怪我の具合はどうなんだ? すぐ退院できそうなのか?」
「お医者さんが言うには、一カ月は入院して絶対安静なんだって……。あと数センチ怪我の位置がずれてたら、心臓に傷がついて危なかったらしいよ。ぎりぎりセーフ」
そんな他人事みたいに。
まあ実際、起きてしまった過去のことは他人事に感じられるものなのだろう。それが、目を背けたくなるような事実であればある程。
「それよりもって言うなら、凛土くんは何をしにきたの? その右手に携える果物セットを見る限り、もしかしてお見舞い?」
「ああ、そうだよ。昨日知り合ったばかりの誰かさんが目の前で襲われたもんだから、いてもたってもいられなくてこうして見舞いに来たんだ」
俺はここにくる途中に買ったフルーツバスケットを、ベッドの横に置く。食べられないものとか嫌いなものが入っているかもしれないが、返品は受け付けない。
「果物は基本、全部好きだよ。……ありがとう、凛土くん。でも、なんか気を遣わせちゃったみたいで悪いなぁ」
「俺がやりたくてやったことだから気にすんな。こちらこそ、代わりに襲われてくれてありがとう」
「何それ、サイテー。一瞬ときめいちゃってたのに、乙女心を返せー」
ぶーぶーと文句を垂れる立花は一見元気そうなのだが、しかしどことなく顔がやつれているようにも見える。すっぴんだからかもしれないが。
「……じゃあ、長居しても悪いからもういくわ。精々お大事に。これに懲りたらカワードに関わろうとしないことだな」
そんなのは本人が一番わかっているだろう。実際に現実的な危機に晒され、否が応でも身に染みたはずだ。あんな連中とは関わるべきではないと。
「あー、えー、うん、まあ、そうね」
全く懲りていなかった。さすが知的好奇心の変態。
救いようがねえ。
「……じゃ、もし大学で会ったらその時はよろしく」
言っても、立花とは長話する程の仲ではないし、入院中の相手に無駄な体力を使わせるわけにもいかない。さっさとお暇した方が、彼女のためにもなるだろう。
俺は社交辞令染みた言葉で締めくくり、病室を後にしようと背を向けかけたのだが。
「あ、待って凛土くん」
呼び止められた。
人が気を遣ってやったのにそれを無下にしようとは、いい度胸である。
「なに? 『曲がった爪』の話だったらまた今度してやるから、今は安静にしとけよな」
「その話も聞きたいんだけど、そうじゃなくって……えーっと……」
急に歯切れが悪くなる立花。
どうせ例のカワードのことについて知りたいのだろうと思ったのだが、どうやら違うらしい。他に俺と彼女に共通の話題なんてあったか?
「んーっと、そのぉ……」
珍しく言葉を選んでいる風だ。
思ったことをズバズバ言うタイプだと認識していたが……そんな彼女がこうして言い淀んでいるというのは、何か嫌な予感がしてならない。
しばらく逡巡してから、立花は意を決したように口を開く。
「凛土くんの妹さんって、名前、何ていうの?」
これが何気ない日常の中での会話なら、別段気にすることなく普通に答えていただろう。
だが、先程までの立花の態度と、会話の場所がこの病院だってことが、どうにも嫌な符合に思えてならない。
「……何でそんなこと訊くんだ? つーか、昨日言わなかったっけ」
「聞いてないかなぁ……。ちょっとその、気になっちゃってさ」
目が泳いでやがる。
立花日奈、わかりやすい人間だ。
「……さっき病院の中を探検していた時に、凛土くんと同じ苗字で、名前が似ている子の病室を見つけて、それで……」
「……それってもしかして、地下にある病室?」
「……うん」
嫌な予感は的中した。
立花の反応を見るに、十中八九病室の中に入ったのだろう。
そして、凛音の姿を見た。
「そっか」
責めるべきは彼女ではない。大方、廊下の鍵が開いてしまっていたに違いない……ならば問題はこの病院の管理体制か。
もしくは、悪戯好きの白い神様。
「……」
立花は無言で俺の顔色を窺っている。これ以上彼女に余計な気を回させて、疲れさせるのも申し訳ない。それにあれを見てしまったのなら、もう隠す必要もない。
「……妹の名前は、叶凛音。地下の病室に入院しているのは、俺の妹だよ」
八月二日に起きた、『
死亡者二十名以上――うち二名、叶夫妻。
意識不明、一名。
叶凛音。
俺の妹は、カワードの手によって眠りに落ち。
その首から下を――無くしてしまったのだった。
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